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TOOLS FOR CONVIVIALITY 読書感想文

(先に言っておくと私は頭が悪く、テキトーなためかなり間違った解釈をしているかもしれない。)

イントロ

イヴァンイリイチをご存知だろうか?

オーストリアの哲学者でコンヴィヴィアリティという概念を提唱した人物だ。

今回はそんな彼の著書「TOOLS FOR CONVIVIALITY」について書く。

CONVIVIALITYは日本語訳では「自立共生」となっているが、イリイチのもとで学んでいた数少ない日本人の山本哲士によると、全くの誤訳だそうだ。

「Con」とは「共に」という意味でcompanyなんかの単語にも紛れ込んでいる。
「vivial」というのは「生き生きとした」みたいな意味がありvividみたいな形容詞もあるよね。

山本氏曰く、人が自然と集まりワイワイと話して、そして解散していく みたいなニュアンスがあるらしい。学生寮の共有スペースみたいなものかな?

TOOLS、つまり「道具」というのは簡単にいうと人間が作り出したもの。自動車や自転車、スマホに、家、学校や病院、教育や法律といったものがそれにあたる。

つまり本の題名は

「人が自然と集まりワイワイと話して、そして解散していくような状態」のために必要な人工物

って感じかな。

で、この道具っていうのが今日の生産主義的な社会では過度に発達し過ぎているのではないか?経済成長は我々にとってそんなに大切なことなのか?と問題提起し、

成長に自ら制限を設ける必要性を訴えている。

要約

人間が生み出した道具は2つの分水嶺を通ったらしい。
医療で例える。
第一の分水嶺が20世紀初頭で、専門的知識が蓄積され、多くの人類を救った。技術が大いに機能した。ここまではいいのだがそのあとが問題だ。


第二の分水嶺が20世紀中頃だ。この時代になると、医者が医療に関する知識や手段を独占し、医療に専門性を帯びさせた。一般人は医者に頼りっきりになり、自分の世話ができない状態になった。家族を看病せず、まず病院に連れて行かせるわけだ。

こういう現象は医療や教育、モビリティ産業、様々な分野で見られている。

最近、両親の介護をかかりっきりでしてきた男性のニュースを見た。彼の両親が亡くななったときには彼はもう中年。働き先もない状態になっていたらしい。
ネットでは彼や彼の両親が将来のことを考えなかったのが悪いだの言われていたが、どうなんだろうね。我々から見るとこの男性は介護士に任せるべきだったとなるんだろうけど、この考え方ってそんな当たり前の思考じゃなさそう、、、

ではこのような事態から我々はどう脱して、自立的な社会を再構築できるのだろうか?

どうやら国の上層部を挿げ替えるのは意味がないらしい。なぜかっていうと今の産業主義的社会構造の中では、構造内で最適化した人が上に立つようになっているから。
ヒエラルキーの一番上を挿げ替えてもヒエラルキー自体は変わらない。社会の仕組みが変わらないと意味がないんだ。

じゃあ政治ではなく教育かというとそれもダメだ、、、



「学ぶ」≠「教育を受ける」
ということ。

学校でいい教育を受け、いい成績を収めたものは社会の仕組みに最適化されつつある存在になる。それは「学ぶ」とは程遠いことだね。

みんな学歴や資格のために学校に通う。自分の好奇心ではなく、将来の安定のために勉強する。システムに最適化しようとする没個性の集団。それが今の社会。

で、こんな鉄の檻的なクソ社会(宮台真司節)をどう再構築するか?


イリイチは限界設定をするべきと言っている。主にコンヴィヴィアリティの土台となる、「生存」「公正」「自律」に対してだ。

まぁ老子的には「足るを知る」ということか。

(これがこの本の答え。ここまで読めばもう読み進めるのやめていいかも?笑)

これには賛成。

最近ゼミでMaaS(Mobility as a Service)について発表をした。
(MaaSっていうのは車や自転車、電車、タクシーと言った移動手段を1つのサービスとして運用することで、交通弱者を減らそうとする、テクノロジーで、
フィンランドで実装されているらしい。)

でもMaasって技術への依存を促すだけなような、、、

結局「歩く」ことをやめて「モビリティ」を使い依存するようになったから、遠くまで移動しようとし始めて、結局交通弱者を生むし、移動時間を増やす。町は車で立ち寄りやすいように変わっていく。

街がコンパクトなら全て解決するのにね。移動時間はかからないし、徒歩で暮らせる。

行き過ぎた発展を遂げた道具は何をもたらしたのか。

6つの均衡の崩壊をもたらしたと言われている。生物的退化、根源的独占、計画化の過剰、分極化、廃用化、欲求不満だ。

で、タチの悪い道具の排除と目的に叶う道具の制限が必要なわけ。

ここから内容をだいぶ省くけど、

コンヴィヴィあるな社会創造のために必要な手続きが以下の3つ。

1 今日の危機の本質についていっそう多くの人々が啓発されること。
2 質素でコンヴィヴィアルな生活を営む権利を要求する人々の集団に最大多数の人々を導き入れること。
3 受容可能な道具の発展の限界を発見し、制限された道具の活用の方法を学ぶこと。
引用元

感想

だけどこれは不可能なのでは?と思ってしまった。

ナッシュ均衡によると、お互いに協力する方がしないよりも良い結果となることがわかっていても、協力しない者が利益を得る状況ではお互いに協力しなくなる。

全員が脱成長社会が良いとわかっていても、一個人が競争社会から降りるとその個人だけが貧困になるため、競争から降りられない状態なわけ。で、みんな無責任に競争し、資源を食い潰していく。(「持続可能性」っていう言葉が流行り出したのはそう言った背景に対する我々の潜在的な危機感なんじゃないかな。)

私はこの競争社会に最適化する周囲に苛立ちを覚えている。
高い年収や企業ブランド、上京に盲目的に憧れる学生。
本当にそれでいいの?それが正解なの?

だけど彼らの価値観を変えることなどできない。飲み会とかで話しても、受け流される。まぁ何もしていない自分のいうことなんか説得力ないか。

コンヴィヴィアルという価値観は私の中にしまっておこうかな。

勝手に正義を振りかざそうとした自分が恥ずかしいね。


ライ麦畑のホールデンと攻殻機動隊のアオイの言葉が好きなので、ここに残しておく。

「僕が何になりたいか知ってるよね?僕の馬鹿げた選択は、ただライ麦畑で子供達を捕まえる人になりたい、それだけなんだ」

I thought what I’d do was, I’d pretend I was one of those deaf-mutes or should I ?


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