私の幸福論【2】
基準を下げる話
幸福になるためには、幸福の水準をさげろ
と色々な人が言ってる。確かにそうだ。
例えば幸福度を10段階に分けたとしてレベル2.3辺りの幸せを噛み締めればハッピーだ。
これを実践しているのがニートで有名なphaさんである。彼は毎日散歩する時に歩き方を変えて、どの歩き方が疲れないかとか、進みが早くなるかとか、そういう些細なことをしっかりと意識して、新たな気づきを得ることで感動を覚えて、幸せになるらしい。
自分でいうところの幸福度レベル10ってなんだろう?
受験に受かるとか、就活で成功するとか、結婚するとかそういった喜びの瞬間なのか。
レベル8は多分仕事や部活なんかでの努力が実り、周りから認められ、自分もポジティブにい続けられる状態か。
レベル5は成功も失敗もしながらかんばり続けている状態か。
レベル1は何も努力せず、暇なときはスマホを常にぽちぽちしている感じか。
不幸がないし、平和だし、それはそれでいいことだと思う。
多くの人はレベル5かそれより下くらいにいると思う。
しかしそれで本当にいいのか?もっと幸福な状態はあるわけだ。
少し疑念を持ちはじめている。
意識しちゃいけない話。
先日こんなツイートをみた。
今自分は幸福かと自問した瞬間に、人は幸福ではなくなる。幸福以外のものを人生の目的とすることが幸福になる唯一の道であり、それらの目的の方を大いに意識し、吟味し、自問するべきである。-ミル自伝
どういうことだろう?幸福になることを考える前に、何かに打ち込め!みたいな感じか。
今生きるために。雑念が浮かばないように。
今、私は絶望の中にいる。自分の中身のなさ、何も積み上げてこなかった21年、努力する勇気のなさ。
こんな私が幸福について、人生について向き合おうとしているわけだが、そこにきてこのツイートである。
ミルから見れば今の私は
我思うゆえに我ありのロジックを使い、
少なくとも人生の目的を探そうとしている私いる。
その自分を必死に肯定していようとしている状態なのか。
絶望して、自分が本当にやりたいことを考えて、その結果、まず幸福とはどういうことか知るべきだと考えて今の自分があるのにそれが無駄だと言われた。
じゃあ何をすればいいのだろう?自分が夢中になれるものを探ず必要があるのか?
そもそも夢中になれるものは探して見つかるものなのか?
無心になる話。
無心になるとは、今を生きるという意味で言っている。
今を生きることの大切さは、近年のヨガやマインドフルネスブームをみればわかる。
仏教では何千年も前から言われていることだし。
私の場合、農業バイトで草取りをしていた時、部活でランニングをしていた時、瞑想をしていた時、
無心になれていた。多分「今」を生きていた。
無心になることは頭を白紙にして、余計なことを考えない状態に持っていくことだ。これは幸福度レベル1か。
無心になる時間は毎日設けなければいけないと思った。
まとめ
結論として今は流れに任せてみようかな〜と思ってる。
別にやりたいことはないし、あまり意識高くしたくもないし、頑張りたくもないわけだから。
ただ不幸になる要素は意識的に減らしていこうと思う。いつか何かに夢中になれる日を待ちながらね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?