見出し画像

学校における「自由の相互承認」(苫野一徳)の進め方

 最近、学校のなかで対話をどうやって進めていけばいいかを考えている。
苫野一徳さんの、教育とは「自由の相互承認の感度を育むこと」という原理を知ってから、ではどうすれば、自分が働く公立校でそれを実現できるのかを模索していた。

 そんなときにこの本を再読してみた。ヒントになることが書かれていたので、紹介したい。

河合隼雄『子どもと学校』P19~30 岩波新書

「人間のことを考えるのには、いろいろな原理がある。ひとつの原理によって説明することは、単純でわかりやすいが、それはともすると実状に合わなくなるのではなかろうか。~省略~ここにもうひとつ特に取りあげたいのは、私が父性原理、母性原理と読んでいる、対立するものの考え方である。~省略~父性原理、母性原理と私が呼んでいるものは、端的に言うと、父性は『切る』、母性は『包む』機能を主としている。父性は善と悪、できる者とできない者、固いものと柔らかいもの、何でも明確に区別してゆく。それに対して、母性はすべてを全体として包みこんでゆく。この原理のどちらが正しいというのではないが、片方の原理が正しいと思うと相手を攻撃したくなってくる。」

 この後、筆者は「父性原理」と「母性原理」についてさらに説明を加え、日本は欧米に比べると母性原理が強いと述べている。そして二つの原理は簡単には両立しない、ともある。

 では、どうすればいいか。引用を続ける。

「あるひとつの原理が正しいとしてそれを強化することを考えるのではなく、原理を深めるということを考えるべきだ、と思っている。~省略~原理を深めるとは、自分のよって立つ原理に対立する原理にも意味があることを認め、その葛藤のなかに身を置いて、右に左に、それを繰り返しながら、自分のよって立つ原理をできる限り他と関連せしめることによって、ものの見方を豊かにしてゆくことである。言うなれば、二つの原理を梯子の両側の柱のようにして、その間を一歩一歩下がってゆくのである。そのようにして深めてゆくとき、足が地に着いて、ここを基盤にと感じるところ、そこに、その人の個性が存在していると思われる。」

 苫野さんの「自由の相互承認」の原理は確かに素晴らしいものだ。でも、学校現場で働くなかで、それと真逆のことが行われていることを目にすることもよくある。(「みんなで一緒に同じことをしよう」みたいなこと。)
 そんなとき、僕がすべきことは、「自由の相互承認」の原理をただ純粋に主張するのではなく、「みんなで同じことを」のような考えにも意味があることを認めることなのだろう。意味は確かにあるのだから。例えば、部活動全員加入性なんかも、学習指導要領の理念には反しているが、生徒全員を学校という入れ物のなかで育てる、という目的に照らし合わせれば一定の妥当性があるだろう。(ただ、そのために部活動にやる気のない生徒もどうしても出てくるが)何事も一つの原理だけでは考えないこと、また具体的な現場を忘れて、抽象的な思考だけを先走らせないこと、これが大事なのだと思う。

 ここまで書いて疑問に思ったことがある。果たして、生徒全員を学校という入れ物のなかで育てようとすることは、本当に妥当性があるのだろうか。(各学校によって事情が違うので、あくまで僕が働く学校で、という意味)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?