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意識はハート♡プロブレム:知覚・体験・意識の連続性

1.ジョージの家

ジョージは優秀なエンジニアだ。彼はTVの仕組みについて徹底的に学び、すべてを理解していた。ブラウン管、電子銃、蛍光体、電子回路……。でも、彼の家にはTVがない。

ある日、友人が彼に尋ねた。
「ジョージ、君はTVのすべてを知っているんだから、TVを見たことがなくても、TV番組を見ることがどのような映像体験なのか説明できるんじゃないか?」

ジョージは自信を持って答えた。
「うむ、TVの仕組みはすべて理解しているからな。TV番組がどういうものか、説明できるはずだ」

そこで、ジョージはTV番組について説明し始めた。
「画面には電子線が走査して映像が映し出され、スピーカーからは音声が流れる。映像は時間とともに変化し、音声はそれに同期している。物語があれば、場面が切り替わったりするんだろう……」

しかし、友人は納得できない様子だった。
「ジョージ、それはTVのハードウェアの仕組みと、番組の抽象的な構造についての説明だ。でも、TV番組を見る「体験」がどのようなものなのかは、君には分からないんじゃないか?」

ジョージは言葉に詰まった。TV番組を見る主観的な体験について、彼には確かに説明できない。物理的な知識だけでは、TV番組の体験を言い尽くせないのだ。

ジョージの例は、物理的な知識と主観的な体験のギャップを示している。彼はTVの物理的な仕組みを完全に理解していても、TV番組を見る主観的な体験を説明できないのだ。これは、意識のハードプロブレムが抱える難しさを象徴的に表していると言えるだろう。

意識のハードプロブレムとは、物理的な脳のプロセスがどのようにして主観的な意識体験を生み出すのかという問題である。たとえ脳の物理的な仕組みをすべて解明したとしても、私たちが感じる生き生きとした主観的経験を説明するのは難しいのだ。ジョージがTVの物理的な仕組みをすべて理解していても、TV番組を見る独特の体験を言い尽くせないように、脳の物理的知識だけでは意識の主観的な質感を捉えきれない。まさにこの点が、意識のハードプロブレムの核心なのである。

自転車の部品を全て分解して、一つ一つの機能を詳しく調べたとしよう。ペダル、ギア、チェーン、ブレーキ、ハンドル……。しかし、いくら部品の機能を理解しても、それだけでは自転車が自立して走るメカニズムは分からない。部品を組み立てて、実際に乗ってみる体験が必要だ。自転車に乗った瞬間、部品間の連携と全体の振る舞いによって自立するメカニズムが直感的に理解できるだろう。

このコラムでは、意識のハードプロブレムという自転車に乗ってみせるつもりだ。部品を分析するだけでなく、意識を生み出す脳のプロセス全体の振る舞いを見ていこう。

意識のハードプロブレムは、現代の心の哲学における最大の難問の一つだ。物理的な脳のプロセスと主観的な意識体験のギャップを埋めることは、容易ではない。しかし、私はこのハードプロブレムに、情報処理の観点から新たな光を当てられるのではないかと考えている。

本コラムでは、意識を一連の情報処理のサイクルとして捉え直すことで、ハードプロブレムに挑んでみたい。意識の主観的な性質も、脳の情報処理の特性として理解できるのではないだろうか。意識のハードプロブレムは、情報処理の連続性という視点から解明される可能性があるのだ。

以下では、まず意識のハードプロブレムとイージープロブレムの違いを確認し、そのうえで情報処理の連続性に着目することでハードプロブレムに迫っていく。果たして、意識の神秘に対する新たな見方を提示できるだろうか。議論を通じて、その可能性を探っていきたい。

2.意識のハードプロブレムとはなにか

意識のハードプロブレムとは、物理的な脳のプロセスがどのようにして主観的な意識体験を生み出すのかという問題だ。つまり、脳の中の電気的・化学的な活動が、なぜ私たちの感じる主観的な「感覚」や「気分」、「思考」などの体験に結びつくのかということである。

例えば、おいしそうなイチゴを見ているとしよう。目に入った光の信号が脳で処理され、色や形などの知覚が生まれる。しかし、なぜ脳の中のニューロンの発火が、あの生き生きとした「おいしそう」という感情をもたらすのだろうか。あるいは、悲しみに暮れているとき、脳内では特定の神経伝達物質のバランスが崩れているのだろう。だが、その化学的な変化がなぜ、言葉では表しがたいあの切ない感動を生むのだろうか。

脳科学が発展し、ニューロンレベルの活動が詳細に分かったとしても、なぜそこから意識の主観的な体験が生まれるのかを説明できるのだろうか。脳の物理的なプロセスと、私たちが感じる生き生きとした主観的経験の間には、大きな隔たりがあるように見える。客観的な脳の活動と主観的な意識体験をつなぐメカニズムの解明は、現代の脳科学が直面する最大の難問、すなわち「ハードプロブレム」だとされている。

一方で、意識のイージープロブレムというのもある。これは、脳のどの部位がどのような機能を担っているのかを解明する問題だ。例えば、視覚野が視覚情報を処理していることや、前頭前野が意思決定に関わっていることなどを突き止めるのがイージープロブレムである。

ただ、イージープロブレムも現実問題として「イージー」というわけではない。脳は複雑なネットワークをなしており、各部位の機能を正確に理解するのは難しい。また、部位間の相互作用や、脳全体としての振る舞いを解明するのも容易ではない。

しかし、脳の物理的なプロセスを詳細に調べれば、どの部位がどのような機能を担っているのかが分かるはずだ。原理的には科学的方法で解決可能だと考えられる、という意味で「イージー」プロブレムなのだ。

このように、イージープロブレムは意識の物理的基盤を解明する問題だと言える。それに対し、ハードプロブレムは、その物理的基盤がなぜ主観的な体験をもたらすのかという問いなのである。

ここで、知覚と体験の違いに着目してみよう。例えば、「ばか」という言葉を聞いたときのことを考えてみる。音声の情報が耳から入力され、脳の聴覚野で処理されて、言葉として認識される。これが「ばか」という言葉の知覚だ。

一方、「ばか」という言葉を聞いたときの体験は人によって異なる。怒り、悲しみ、恥ずかしさなど、様々な感情が喚起されるだろう。これらの感情は、「ばか」という言葉を聞いたときの主観的な体験そのものだ。

ここで重要なのは、知覚と体験の違いである。知覚は言葉の音韻的な情報の処理だが、体験はその言葉が喚起する主観的な感情なのだ。つまり、知覚はイージープロブレムの範疇で捉えられる脳の情報処理だが、体験にはそれとは異なる主観的な性質があると言える。

体験の主観的な性質、つまり感覚、感情、思考、気分などは、物理的な情報処理だけでは説明しきれない。例えば、「苦しみ」という体験を考えてみよう。苦しみを感じるとき、脳内では特定の神経回路が活性化しているはずだ。しかし、その神経活動のパターンがなぜ、あの苦痛に満ちた主観的な感覚をもたらすのか。これは、イージープロブレムの範疇を超えた問いなのだ、とされている。

以上のように、知覚と体験の違いを考えると、意識のハードプロブレムの難しさが浮き彫りになる。体験の主観的な性質は、脳の物理的なプロセスの説明だけでは捉えきれない。それが、ハードプロブレムの核心なのだ。

逆に言えば、知覚と体験に本質的には違いがない、ということを示すことができたなら、それはハードプロブレムがハードプロブレムでないことを示せたことになるだろう。このコラムでは、それを目指すことにする。

3.夢は知覚か体験か

まず、知覚がイージープロブレムであることを確認しておこう。知覚は、外部の刺激が脳に入力され、脳内で処理された結果生じるものだ。例えば、目の前のイチゴを見るとき、光の刺激が網膜で電気信号に変換され、脳の視覚野で処理されることで、イチゴの形や色が認識される。この一連のプロセスは、脳の情報処理として理解することができる。つまり、知覚はイージープロブレムなのだ。

一方で、体験はハードプロブレムだと考えられている。例えば、イチゴを見たとき、「大きなイチゴだ」と感じたとしよう。その「大きい」という感じは、脳のどのような情報処理に対応しているのだろうか。また、イチゴを見て「おいしそうだ」というあの感じは、どのように説明できるだろうか。こうした主観的な体験の質感は、客観的な情報処理だけでは捉えきれないように思われる。ここが、意識がハードプロブレムといわれる所以である。

哲学の文脈では、知覚と体験は区別される。知覚は外界の情報を感覚器官を通して受け取ることを指し、例えば目で色を見たり、耳で音を聞いたりすることを指す。一方、体験は知覚に伴う主観的な感覚や感情なども含む、より広い概念として使われる。

たとえば視覚的体験とは、「見たもの(知覚)を(たとえば)“大きい”と感じる(感覚)」ことだ。聴覚的体験とは「音楽を聞いて(知覚)、(たとえば)“切ない”気持ちになる(感情)」ことだ。

感覚、感情、その他にも思考やイメージなど、言ってみれば心の動きのようなものすべてをひっくるめて、哲学業界では「経験の質」と呼ぶようだ。ここでもそれに倣うとすると「体験=知覚+経験の質」と表すことができる。

くどいようだが繰り返しておこう。知覚を通して何かを感じること、それが体験だ。

しかし、ちょっと待ってほしい。本当に、体験は知覚とは全く異なるものなのだろうか。むしろ私は、体験も知覚の一種ではないかと考えている。体験も、結局のところ脳の情報処理の産物なのではないだろうか。

この仮説を探るために、夢の例を考えてみよう。

夢の体験は、知覚と体験の区別に疑問を投げかける。夢の中で見たり聞いたりする経験は、実際の知覚に非常に近いからだ。

夢の中で、私たちは視覚的、聴覚的、感情的な体験をしており、それらの体験は実際の知覚を通しているかのように思われる。例えば、夢の中で見た光景は、まるで実際に目で見ているかのように鮮明だ。また、夢の中で聞こえる音声は、現実の音そのものであるかのような臨場感を伴っている。

夢の体験は、様々な認知機能が複雑に絡み合った産物だと考えられる。夢の中で見る光景は、過去の記憶を素材に、脳内で再構成されたものだ。例えば、夢の中で母校を訪ねるなら、その学校の記憶が、現在の自己の記憶と結びつき、状況に応じて再構成される。また、夢の中の感情は、脳内で感情を処理する部位の活動を反映している。恐ろしい夢を見れば、恐怖を感じる脳の部位が活性化し、リアルな恐怖体験が生み出される。

このように、夢の中の、記憶の再生・再構成、感情の生起、状況の認識、自己の同一性の認識など、多様な認知機能はいずれも脳内の情報処理に基づいている。外的な刺激を必要としていない。

念のため、夢の中での体験と覚醒時の体験の違いを確認しておこう。覚醒時には外界からの感覚入力が常に脳に流れ込んでいるのに対し、夢では外部からの入力が遮断されている。つまり、覚醒時の意識は外界と脳内の情報処理の相互作用から生まれるのに対し、夢は脳内の情報処理のみで生成される。

覚醒時の体験:知覚→脳の情報処理→経験の質(感情、感覚など)
夢の中の体験:(知覚を介さずに)脳の情報処理→経験の質(感情、感覚など)

さて、先に示した通り、「体験」とは知覚+経験の質と表すことができる。これを「覚醒時の体験」と「夢の中の体験」の違いを考慮した場合、導かれる可能性は二つ。すなわち、夢の中の体験が「体験」ではない可能性と、「体験」が、外的な刺激の有無にかかわらず、脳内の情報処理によって生み出されている可能性だ。

しかし、夢の中の体験を「体験」でないとすることは、いかにも無理がある。となれば、「体験」は脳内の情報処理によって生み出されていると考えるしかない。

つまり、「体験」を構成する諸要素は、脳の情報処理に還元できるのだ。複雑で多様な「体験」も、究極的には脳内の物理的なプロセスの産物なのである。

この洞察は、意識のハードプロブレムに対する新しい見方を提供する。なぜなら、もし「体験」が脳の情報処理の産物であるなら、それは原理的にはイージープロブレムの範疇に属するからだ。イージープロブレムとは、脳のどの部位がどのような機能を担っているかを解明する問題だった。「体験」の諸要素が脳の情報処理に還元できるなら、それらの要素を生み出す脳の機能を特定することは、イージープロブレムの一部となる。

確かに、現時点では、脳のどのような情報処理が特定の主観的体験を生み出すのかは明らかになっていない。しかし、夢と覚醒時の比較から、意識の主観的な性質が脳の情報処理に依存しているらしいことが示唆された。だとすれば、意識のハードプロブレムも、脳の情報処理のメカニズムを解明することで、原理的には解決可能なはずだ。

4.意識の階層性

夢と覚醒時の体験の比較を通じて、意識の主観的な性質が脳の情報処理に依存している可能性を探った。その結果、「体験」を構成する諸要素は、究極的には脳の物理的なプロセスに還元できる、つまり、「体験」のハードプロブレムも、イージープロブレムの複合体として理解できるのではないか、という結論に至った。

では、具体的にどのような情報処理のメカニズムが、意識の主観的な性質を生み出しているのだろうか。この問いに答えるために、意識の階層性に着目してみたい。

意識には階層性があると考えられる。下層から順に、反射、知覚、体験の3つのレベルに分けることができるだろう。これらのレベルは、情報処理の複雑さと密接に関連している。

まず、反射について見ていこう。反射は、刺激に対する自動的な応答だ。例えば、熱い物に触れた時に手を引っ込める反応がそれにあたる。この場合、刺激は脊髄レベルで処理され、脳まで到達しない。つまり、反射は無意識的に生じる反応だと言える。反射は、情報処理の観点から見ると、入力(刺激)に対して決まった出力(反応)を返す、極めて単純な処理だと言えるだろう。

一方、知覚は刺激が脳に到達し、処理された結果生じる。例えば、目の前のイチゴを見て、それが赤くて丸いと認識するのは知覚だ。知覚では、感覚器官から入力された情報が脳で処理され、対象の属性が識別される。ここでの情報処理は、反射よりも複雑だ。入力された情報を分析し、パターンを認識する必要があるからだ。

体験は、さらに高次の意識のレベルだと言える。体験では、知覚された情報に意味づけがなされ、過去の記憶と照合され、文脈に位置づけられる。例えば、イチゴを見た時に、昔食べたイチゴを思い出し、甘酸っぱい味を想像するのは体験だ。また、イチゴが畑で育つまでの過程を思い浮かべたり、ケーキに飾られたイチゴを連想したりするのも体験に含まれる。体験における情報処理は、知覚よりもはるかに複雑だ。多様な記憶を呼び出し、それらを統合し、新しい意味を生成するからだ。

このように、反射、知覚、体験は、情報処理の複雑さの階層をなしていると言えるだろう。意識のレベルが上がるほど、関与する情報処理のステップは増え、処理はより複雑になるのだ。

ここで、知覚と体験の違いについて再考してみよう。これまでは、知覚が外的な刺激に由来するのに対し、体験はより内的で主観的な処理だと考えられてきた。しかし、夢の例を検討した結果、この区別は必ずしも適切ではないことが明らかになった。夢の中での体験は、外部からの刺激がないにもかかわらず、知覚と同じ性質を持っているからだ。

むしろ、知覚と体験の違いは、関与する情報処理の複雑さの違いとして理解すべきだろう。知覚は、刺激が脳に到達し、脳内での処理を経て生じる。一方、体験は、知覚された情報がさらに複雑な処理を経て生み出される。つまり、知覚は脳内のシンプルな情報処理の結果であるのに対し、体験はより多くの処理ステップを経た複雑な産物なのだ。

これを、以下のように示すことができる。

  • 反射:刺激が脳まで到達せず、反応

  • 知覚:刺激が脳まで到達し、脳をぐるっと一周してから、反応

  • 体験:刺激が脳まで到達し、脳をぐるぐるぐるぐる何周も回ってから、反応

ここで重要なのは、刺激が外部からのものであれ、脳内で生成されたものであれ、情報処理のプロセスに本質的な違いはないということだ。

例えば、「ばか」という言葉を聞いたとき、その音声情報が脳で処理されるのが知覚だとすれば、その言葉が喚起する怒りや悲しみの感情は体験に当たる。「ばか」という言葉の意味を理解し、それが自分に向けられたものだと解釈するには、より多くの情報処理のステップが必要となる。そうした複雑な処理を経て、主観的な感情体験が生み出されるのだ。

知覚は下位の階層、体験はより上位の階層に対応している。下位の階層は単純な情報処理、上位の階層はより複雑な情報処理に対応しているのだ。これが意識の階層性である。そして、この階層性は、情報処理の連続性と密接に関係している。

5.意識の連続性

ここまでに、意識の階層性について論じ、知覚と体験の違いが情報処理の複雑さと対応していることを見た。知覚は比較的単純な情報処理、体験はより複雑な情報処理の結果だと言えるだろう。このような見方は、情報処理主義という考え方に基づいている。

情報処理主義とは、人間の心的活動をコンピュータの情報処理とのアナロジーで理解しようとするアプローチだ。この見方では、人間の脳は入力情報を処理し、出力を生成する一種の計算機械とみなされる。感覚器官から入力された情報は、脳内の各部位で順次処理され、最終的に行動や思考という出力につながっていく。

私は、この情報処理主義の観点から、意識のメカニズムに迫れるのではないかと考えている。特に着目したいのが、脳内の情報処理の連続性である。情報処理の連続性とは、脳内で情報が連続的に処理されていくことを指す。外部からの刺激は、感覚器官で受容され、脳内の各部位で順次処理されていく。この一連の処理は、入力→処理→出力のサイクルを形成しているのだ。

この情報処理の連続性は、意識の階層性と密接に関係していると考えられる。意識の各階層は、連続する情報処理の異なる段階に対応しているのではないだろうか。例えば、知覚は入力情報が脳内で一巡する段階、体験はその情報がさらに複雑な処理を経る段階と見なすことができるかもしれない。

以下では、この情報処理の連続性という観点から、意識のメカニズムを探っていきたい。意識の主観的な性質がどのように生み出されるのか、脳内の連続的な情報処理との関係に注目しながら考察していこう。この考察を通じて、意識のハードプロブレムを構成するとされた主観的な性質も、究極的には脳の情報処理の特性として理解できる可能性が見えてくるはずだ。

情報処理主義の枠組みで考えると、意識は一連の情報処理のサイクルとして捉えることができる。意識の階層性とあわせて考えれば、情報処理のサイクル数が多いほど、意識はより高次で主観的なものになる、と言うことができるだろう。

例えば、「ばか」という言葉を聞いたときの体験について考えてみよう。

「ばか」という言葉には、以下のような複数の意味がある。

  1. 知能が低く、物事の判断や理解力に欠ける人やその様子を指す。例えば、「バカな発言」のように、愚かで思慮に欠ける言動を表す。

  2. 社会的な常識やマナーから著しく外れている人やその行為を指す。「親バカ」のように、常識の範囲を超えた行動を取る様子を表現する。

  3. 無意味で役に立たないことを指して使われる。「バカなまねはやめろ」のように、無益で意味のない行為を表す。

  4. 程度が著しく過剰であることを表す。「バカ高い」「バカ騒ぎ」のように、通常の範囲を大きく超えている状態を指す。

  5. 機能や役割を十分に果たさないこと、またはその状態を表す。「体調がバカになる」のように、本来の性能や働きが損なわれている様子を表現する。

「ばか」という言葉を聞いたときの体験は、以下のような情報処理のサイクルとして記述できる。

サイクル1:音声として知覚
サイクル2:「ばか」の辞書的な意味を理解
サイクル3:誰に言われたかの関係性の認識
サイクル4:どのようなタイミングで言われたかという文脈の解釈

サイクル2の段階では、「ばか」の意味の数だけ、体験の質感の種類が限定される。つまり、「ばか」の意味を1つしか知らない人は、5つ知っている人に比べ、体験の幅が限られてしまうのだ。

しかし、サイクル3に進むと、「ばか」の意味と、それを言った人との関係性が組み合わされることで、体験の質感の種類は飛躍的に増大する。例えば、「ばか」の意味を5つ知っていて、関係性の種類が5種類(家族、友人、恋人、同僚、他人)あるとすれば、体験の質感は5×5で25通りに広がるのだ。

さらに、サイクル4では、「ばか」の意味、関係性、そして発言のタイミングや文脈が組み合わされ、体験の質感はさらに多様なものとなる。つまり、情報処理のサイクルが進むほど、解釈の可能性は無限に広がっていくのである。

ただし、情報処理のサイクル数が多いことが、直ちに豊かな体験に結びつくわけではない。考えが同じ所を反復するだけでは、いくらサイクルを重ねても、体験の質的な深まりは望めない。豊かな体験のためには、各サイクルが新しい情報を取り込み、柔軟に更新されていく必要がある。

また、各サイクルの処理の質も重要だ。例えば、「ばか」という言葉の意味を1つしか知らない人は、「バカなまねはやめろ」と言われたとき、それを侮辱としてしか受け取れない。一方、5つの意味を理解している人は、文脈を踏まえて、その言葉が無益な行為をたしなめていると解釈できるのだ。このように、情報処理の各段階で、いかに多様で質の高い処理がなされるかが、体験の豊かさを左右するのである。

以上のように、「ばか」という言葉を聞いたときの体験は、複数の情報処理サイクルを経て、徐々に主観的な意味合いを帯びていく。つまり、意識の主観的な性質は、脳内の情報処理が連続的に行われることと密接に関わっているのだ。サイクルを重ねるごとに、解釈の可能性は無限に広がり、意識体験はより豊かで複雑なものへと深化していく。

このように考えると、意識の主観的な質感、つまり私たちが感じている経験の質的な豊かさ(著者としても、「経験の質的な豊かさ」という表現は不本意なのです。「感情の豊かさ」と書いても、そう大きな間違いはないはずです。ただ、感情だけではなく、感覚、思考、イメージなど、多様な側面を排除したくないので、このような分かりにくい表現となっています。)は、脳の情報処理の連続性と各サイクルの処理の質によって決定づけられていると言える。情報処理が連続的に行われ、各サイクルの処理の質が高ければ高いほど、私たちの主観的な経験は、無限に広がり深まる可能性を秘めているのだ。

以上の議論は、なぜ意識がハードプロブレムだと思われてきたのかを説明してくれる。私たちの主観的な経験は、脳内の情報処理が生み出す複雑で多様な現象だ。その無限に広がる複雑さゆえに、意識の全てを捉えることは、確かに難しい問題だ。難しい問題、すなわちハードプロブレム。

しかし、ここで重要なのは、その複雑さの背後にある仕組み自体は、原理的には解明可能だということだ。意識の主観的な性質は、脳の情報処理の特性として理解できる。つまり、意識のハードプロブレムは、実はイージープロブレムの複合体なのだ。

6.まとめと結論

意識のハードプロブレムとは、物理的な脳のプロセスがどのようにして主観的な意識体験を生み出すのかという問題だ。このコラムでは、この難問に情報処理の観点から挑んだ。

鍵となったのは、知覚と体験の本質的な同一性である。夢の例から明らかなように、体験もまた脳内の情報処理の産物なのだ。知覚と体験の違いは、関与する情報処理の複雑さの違い、すなわち意識の階層性として説明できる。

私はここで、意識を一連の情報処理のサイクルとして捉える情報処理主義の立場を導入した。そして、意識の理解に欠かせないのが、その情報処理の連続性だと主張する。

脳内で情報処理が連続的に行われることで、意識は無限に広がる。この複雑さゆえに、意識はハードプロブレムと見なされてきた。

しかし、情報処理の連続性に着目すれば、意識のハードプロブレムは消散する。意識の主観的な性質も、脳の情報処理の特性の現れに他ならない。

確かに、意識と脳の関係の完全解明は容易ではない。だが、情報処理の連続性という視座は、意識の謎に新たな地平を拓いたずだ。

結論として、仮説を提示する。意識のハードプロブレムは複雑な絡み合いとは言え、イージープロブレムの複合体である。意識のハードプロブレムは決して解決不能な「ハードプロブレム」ではない。原理的には解決可能なのだ。

7.おわりに

私は、自転車に乗ってみせることができたでしょうか?主観的には、乗れてる、と感じているんですが。えっ、典型的なダニング=クルーガー効果?そうかも知れません。

私自身は、このコラムで主張したことは、意識の神秘に対する私たちの見方を変える可能性を秘めている、なんて思っています。もちろん、ここで提示したのはあくまで仮説であり、実証されたわけではないんですけど。

ええ、そうです。主張の妥当性はともかく、意識のハードプロブレムに対して、情報処理の連続性という観点から、一つの仮説を提示できたのではないかと思うのです。

情報処理の連続性という視点から意識の問題を考えることの意義は、大きく二つあると思います。一つは、意識のハードプロブレムとイージープロブレムの間の溝を埋める可能性を示したことです。意識の主観的な性質も、脳の情報処理の特性として理解できるのだと考えれば、ハードプロブレムは解消へと向かうでしょう。これは、意識の統一的な理解に向けた重要な一歩となるはずです。

もう一つは、意識の多様性と連続性を、情報処理の観点から捉え直したことです。意識を断片的な状態ではなく、連続的な情報処理のスペクトラムとして理解することで、意識の階層性や主観性など、これまで謎とされてきた特徴の多くを説明できる可能性が開けました。この視点は、意識のメカニズムの解明に新しい道を拓くでしょう。

ハードプロブレムもイージープロブレムの積み重なりだと思うんだけどな。

ただまあ、私は専門家ではないので、ここで述べたことはすべて、素人の思いつきに過ぎません。専門家から見れば、それがどんな立場の専門家であっても、論外なのかもしれません。それでもなお、このコラムが、何か少しくらい、意識の謎に近づくための、ヒントにでもなってくれると嬉しいんですけど。

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