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ありがとうごめんなさいとその意味

本日3月9日はサンキューにからめてありがとうの日だそうで。
そこにちょっとだけ絡めての話を。

お礼や謝罪を言うことに意味はある?

言うだけでまた同じことを繰り返すってのが、とても嫌いな私です。これはありがとうよりも、ごめんなさいを言う状況の方が当てはまると思いますが…。結局何度も繰り返すのに、その都度ごめんねって言うことに、意味はあるのでしょうか?

極論を言わせてもらうなら、何も言わないし仏頂面でも、2度と同じ過ちはしないと態度で示せる人の方が、私はとても好感が持てます。ごめんごめん、またやっちゃったと言うだけの人は、どんなに顔が悲しそうでも、私の眼はその人の中に反省の色を見ることができません。

もちろん、ごめんと言ってなおかつ、態度でも示せる人がベストですし、ごめんもなく、何度もやらかす人はアウトですが。

お礼や謝罪は自分の意識改革と宣誓ではないのか?

言わないよりは言うだけマシなんて話も聞きますが、言うだけで行動が伴わないほど、意味のないことはないなーと思っています。言い換えれば、言えばそれで万事OKってことと同義です。相手の苦労とかそういうの全部無視なのですかー?と。
もし逆に、違うという、言うだけにマジで意味があるなら知りたいです。

少なくとも本当に反省しているのあれば、ごめんなさいの中に、次はきちんと改善しますという相手への宣誓、同時に自分との約束のようなものがあってしかるべきなのではないでしょうか?ちゃんと反省してるならばなおのこと、次の過ちはない、あるいは緩和できるだけの対策はしてしかるべきですよね。

いやそれとも、反省・宣誓はあっても、自分に約束を課してはいないという人が多いのかな。自分の中で、これはダメなこと・これは良いことというルールを、その時作ったりしないのでしょうか。しっかり記憶する・忘れないようにするということでもよいのですが。

もちろん、とりあえずごめんと言っておけばいいだろうと、相手に対してまた過ちをくりかえしても問題ないと、考えているなら話は別ですが。

軽い言葉と重い言葉

言葉は刃物とか、言霊とか、自分や相手を縛り付ける強制力があるとか、色々言われますけど、こういうケースがあるにつけ、信ぴょう性ってどうなのかしらねーと思ってしまったり。

いやでも結局、これらも発する人が重みを意識して、同時に受け取る人も重さを理解しているからこそ、効力を発揮するものであって。
と考えると、やはり、反省の色がない人のごめんというのは、意味がないものと言ってよいのかなーと考えてしまいます。

あなたの言葉は、どれぐらいの重さがありますか?
それは発する相手によって違うのでしょうか?
軽い言葉を発したことはありますか?


ともあれ、こんな皮肉屋の与太話にお付き合いくださったことには、それ相応の重みある感謝を。

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