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“期待値を高く見積りすぎない”という人生のコツ

自分で会社をやっていたときの教訓をふと思い出す。

他者は変えられないけど、自分は常に変えられる。

だから、過度に他者が変わることを期待するのではなく、まずは自分が良い方向に変わる努力をする。その姿をみて、その他者が変わってくれれば、とささやかに祈る。それくらいしか、できることはない。

人生を賢く生きるコツとして、何事においても期待値を高く見積りすぎないことがあると思う。

韓国でベストセラーになったというエッセイ本『あやうく一生懸命生きるところだった』にこんな一節がある。

期待しなければ、基準がないから心も寛大になる。少しでも良ければ満足につながる。つまり、期待しなければ、良いことが起きる確率が上がるということだ。ほんのちっぽけなラッキーでも、想定外の出来事なら十分に満足できる。もし人生も、期待せずに生きられたら、毎日がラッキーの連続、すべてがサプライズプレゼントみたいに感じられるかもしれない。

これから行くレストランにせよ、今から観る映画にせよ、ハードルさえ上げなければ、結果として大いに楽しめることが少ない。これはそのまま、人生をご機嫌に過ごすための、ライフハックになる視点というか発想だ。

一方、冒頭で述べた諦念にも似た「他者は変えられないけど、自分は常に変えられる」との気づきの背景にはなにがあるか。他者を信じた結果、自分の期待していた結果や基準が満たされることなく、失望を覚え、極端なケースでは「裏切られた」とまで感じた経験があるのだった。

つまり、どうすれば自分が傷を負わずに居続けられるか、その自己防衛的な視点から導き出されたのが、一種の“諦め”であり“慰め”である=「他者は変えられないけど、自分は常に変えられる」であった。

歳をとるごとに、ぼくらは失望の経験を重ね、未知の明日への興奮を失い、どんどんと不感症になっていくのだろうか。

三十路を超えた自分の揺らぎに、十六歳になった芦田愛菜さんの言葉が突き刺さる。

裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました。

揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました。

「信じること」への持論を語った芦田さんの言明は短いけれど、とても多層的でかつ本質的に、人間のコミュニケーションの核心を突いている。

他者に期待する自分、失望する自分、そして諦める自分。その自己像を外側から眺めてみるなら、その目線は一方向でかつ、力点はどこまでいっても自分自身にしかない。

けれど、芦田さんがいう「見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」に込められたメッセージは間主観性を感じさせる。自分と他者の往還によって、それぞれの信念やアイデンティティが相互定義されるような深い洞察がある。

自分が他者に投げかける期待、他者が自分に投げかける期待。その交錯や矛盾や満たされなさを、どうやって受け止めればいいのか。芦田さんの言葉は、期待しない、諦める、その一辺倒で思考停止していたぼくの価値観を揺さぶる契機を与えてくれた。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。