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語学の散歩道#番外編 夏の汀に
クラムボンはわらったよ。
クラムボンはかぷかぷわらったよ。
初夏になると、ふと「クラムボン」という言葉がぷかりと心に浮かんでくる。
「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です」
という一文で始まる宮沢賢治の『やまなし』を読んだのは学校の教科書だった。クラスの中で、「クラムボン」とは何か、という先生の質問について、班に分かれて皆で話し合った。
二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話している。上の方や横の方は青く暗い鋼のようで、そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行くという情景が描かれている。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
生徒たちからどんな答えが出たのか、今となってはもう覚えてはいないが、「クラムボン」とは「泡」のことだろうと言うので、その話はそれでおしまいになった。
「クラムボン」の正体とは、一体何だったのだろうか。
つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
クラムボンは死んだ。
これを「泡」が擬人化された表現だと受け取ることもできるが、魚が通り過ぎたことでクラムボンが死んだと考えると、クラムボンは泡ではなく、むしろ有機体である可能性の方が高い。
英語でカニのことはcrabで、魚の餌になる有機体としてまず考えられるのはplankton プランクトンだから、作者がこの2つを結びつけて「クラムボン」という言葉遊びをしたのだとも受け取れる。しかし、流れる川面に、遊泳力の低いプランクトンがどれだけ止まることができるのかはわからない。
にわかにパッと明るくなり、日光の黄金は夢のように水の中に降って来ました。
波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影の棒が、斜めに水の中に並んで立ちました。
静かな初夏の川底の様子がひたすら美しい。
これだけ透明度が高いとプランクトンが川面を漂っているというのはやはり違うような気もする。
実は最近、このクラムボンの正体が「トビケラ」であるという情報を知った。トビケラとはオケラの仲間だろうか、と新たな生き物との遭遇でまたまたクラムボンの謎が深まったわけだが、私は生物図鑑を調べることもせず、そのままほったらかにしてしまった。そもそもクラムボンの正体を知る必要があるとも思えなくなり、結局、クラムボンは「クラムボン」のまま、相変わらず私の心の中にプカプカ浮いている。
『お魚は……。』
その時です。俄に天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のようなものが、いきなり飛込んで来ました。
兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖っているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
二疋はまるで声も出ず居すくまってしまいました。
そこへお父さん蟹が出てきて、怖がっている蟹の兄弟たちにこう問いかける。
『そいつの眼が赤かったかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』
この「かわせみ」について、当時これはカワセミではなく、カワセミ科のアカショウビンであると習った記憶がある。今にして思えば、不思議なことが多い。アカショウビンの羽は赤いが、目は黒い。水に飛び込んできたのは青びかりする鉄砲玉のようなものなので、むしろ本来の翡翠に近い。アカショウビンのクチバシは赤く、カワセミのは黒い。カワセミは眼も黒い。眼が赤い鳥とは、果たしてアカショウビンなのだろうか。
実家の横手に小さな川が流れているのだが、10年程前の集中豪雨では猛威を振るい、アスファルト敷の下の土砂をえぐって、道を陥没させたことがある。いつまでも降り続く長雨に、私は初めて恐ろしさを感じた。
その後、上流で鉄砲水が発生する可能性が高いという話が自治体から持ち出され、川の一部がコンクリートで三面舗装されることになった。しかし、そのコンクリートの川底は、むしろ増水時に流れを加速させるような様子をしており、私には余計に恐ろしく思われた。
ある日、父がそのコンクリートの川底に落ち込んで動けなくなった鹿を発見した。近所の人と連れ立って再び様子を見に行った父が、「脚を骨折している。どうしようもない」と言った。
川底から引き上げることもできず、脚が折れているのでは自然の中で生きていくこともできない。猟銃の免許を持った知人に連絡が行き、鹿の運命が決まった。
翌日、その知人から鹿肉をもらった。
母は冷蔵庫が嵩張ると言いながらも、鹿肉に手をつけない。鹿の最期を見届けた父も、さすがに今回ばかりは食べる気がしないと言う。私は、チルド室で赤光りする肉を見て、このままでは鹿も成仏できなかろうと思い、適当に合わせた漬け汁に2日程漬け込んだものを薄く切って焼き、一人で黙々と食べた。
食べながら、もしあの川がコンクリートの川底ではなく自然の砂底であったならば、鹿の脚は折れなかったのだろうか、と考えてみた。
もちろんそれは誰にもわからないが、あの日以来鹿が川に落ちたという話を聞かないので、鹿のほうでも用心するようになったとみえる。
私は、自己犠牲の精神が多く描かれる宮沢賢治の作品をあまり好いてはいないのだが、この『やまなし』という作品にはこうした思い出とともにある種の郷愁があって、夏が近づくと決まって思い出す。そして、自然の中に生きるということについて静かに考える。
『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
『魚かい。魚はこわい所へ行った』
『こわいよ、お父さん。』
『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺かばの花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』
泡と一緒いっしょに、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。
『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云いました。
光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。
本格的な夏を迎える前に、「クラムボン」という不思議な響きが、一服の清涼感と静かな諦観を私の元へ運んでくる。
<語学の散歩道>シリーズ 番外編
※このシリーズの過去記事はこちら↓
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