#3 コペンハーゲン警察本部
特捜部Xでも特捜部Zでもなく、特捜部Qというベタな名称は人を喰ったような感がある、というようなことがその本の解説で述べられていた。
同感である。
そんなわけで、本屋の海外ミステリーコーナーに行く度に気になりながらも長い間手に取らなかったのだ。なんだかふざけている、という理由で。
ミステリー好きの友人からはなかなか面白いというお墨付きをもらっていた。それでも半信半疑だったので、ある日近くの図書館で借りてみることにした。そして… ハマった。
そもそもデンマークと聞いても、アンデルセンやレゴランド、内村鑑三、ハムレット、酪農国、風力発電、高福祉国家といった片言の単語しか想起できなかった。洒落たところでアルネ・ヤコブセンやロイヤル・コペンハーゲンを思いつく程度で、バルト海と北海を繋ぐ要衝にありながら、食指が動くことはなかった。
ところが、この本が私の味覚を変えた。
翻訳本はドイツ語からの重訳だが、訳者が交替しても文体に違和感を感じさせないところが凄い。私はドイツ語もデンマーク語も解さないが、非常に上手い翻訳なのではないかと推察する。
同じ友人から勧められたスティーグ・ラーソンのミレニアムシリーズにのめり込んで以来、北欧ミステリーは私の愛読書となった。マルティン・ベックシリーズは邦訳が手に入らなかったため(5巻までは柳沢由実子さんの新訳あり)、全巻英語版で購入した。読後、このシリーズは4巻までで十分だと思ったが、当時のストックホルムの空気が体感できるこのシリーズは私のお気に入りである。
それが高じて、ストックホルムへ行った。
一番の目当ては、クングスホルメン島にある警察本部である。
その日は朝から天気が良く、早朝の夏の陽光が爽やかに降り注いでいた。島の河岸沿いに朝の散歩を楽しんでから、警察本部へと向かった。やがて、Polisenと青字で書かれた建物が見えてきた。
週末だったからか、周囲には誰もいない。パトカーが遠くに1台駐車しているだけで、車内に警官がいる様子もない。しかしながら、用もないのに警察を訪れるわけにはいかない。なんとか雰囲気だけでも味わおうと正面入り口まで近づいてみたが、監視カメラが設置してある。そこで建物の周囲を見て回ったが、随所に監視カメラがあるわ、建物上部の柵には螺旋状の有刺鉄線が張り巡らされているわで、なんだか警察本部というより刑務所といった物々しさに圧倒されてしまった。観光初日に不審者だと疑われて拘置所に入るわけにはいかない。せめて写真だけでも、と監視カメラを避けながらこっそり被写体をフィルムに納め、その後は観光者然として街へ繰り出した。
もう一つの目的は、マルティン・ベックシリーズのスウェーデン語版を買うことだった。ところが、どこの本屋へ行っても見つからない。ミレニアムシリーズは見つけたが、これだけでは物足りない。見ると、特捜部Qシリーズが書棚に並んでいる。葛藤である。確か空港にデンマーク語版が置いてあった。デンマーク語で買うべきか、スウェーデン語で買うべきか。しかし、ストックホルムにいるのに、デンマーク語版を買ってもよいものだろうか? デンマーク語版はデンマークに行った時に買うのが正しい選択ではないのか? 一大事である。ここは真剣に考えなければ。3日間本屋へ通い続け、ついにスウェーデン語版を購入することに決めた。
レジで、「スウェーデン語を勉強したくて本を買うのだけれど、原作がデンマークっていうのもね」と言うと、「確かにね」と店員が軽く笑いながら本を手渡してくれた。
実は、デンマーク語も勉強したいのである。それで、ポッドキャストで同時に単語を覚えようとしたこともあるのだが、文字が似ているので混乱してしまった。「どうもありがとう」はデンマーク語がMange takで、スウェーデン語が Tack så mycket 。いや、それとも逆だったか。
一体デンマーク語の何が好きかといって、øの文字である。この一文字が私のハートに刺さったのだ。主人公の名前にもCarl Mørckと、このøが含まれている。シビレる。
それにしても、この程度の語学力で何故原書など買うのかと訝る方もおられるだろう。実に鋭い指摘である。反論の余地もない。しかし、söndag 29 maj はSunday 29th Mayで、Jag ringer mamma lite senareは I’ll phone mum a little laterのことだろうか、などと「推理」しながら読むと、謎解きが二倍楽しめるのである。
ところで、特捜部Qの映画で登場したコペンハーゲン警察本部の円形広場は、映画のセットだと思っていたら、どうやら実物らしい。なんという美しさだろう。まるで劇場だ。行きたい。
そうだ、今度の夏はコペンハーゲンに行こう。
オリンピック開催で通常とは異なる祝日を翌年のカレンダーで何度も確かめながら、逸る気持ちを抑えつつ年明け早々に飛行機のチケットとホテルをネットで予約した。
ところが、である。突然のパンデミックでフィンエアーが全線休航。そして、コペンハーゲンのロックダウン宣言が続いた。泣く泣く渡航を断念。航空券代は全額返金してもらったが、ホテル代はキャンセル不可のネット予約だったため、旅行サイトの問い合わせ先へ連絡しても、日程の変更はできるが返金はできないという。直接ホテルへ掛け合ってみたが、予約した旅行サイトか保険会社へ問い合わせてほしいとの回答であった。ホテル側の対応は親切であったが、どうにもならなかった。いつ運航が再開されるかもわからないフライトを予約するわけにもいかない。仕方なくホテル代は諦めた。
後日、ホテルからメールが届いた。デンマーク語だ。øの字もある。胸を躍らせながら画面をスクロールすると、英語が併記されていた。期待したのも束の間、それは単なるホテルの宣伝だった。
あれから、もう二年になる。相変わらずヨーロッパは遠い。
もちろんコペンハーゲンに行けたとしても、あの円形の広場へは一般人は入ることができない。どうすればいいのか。財布を盗られたと言って、警察本部へ赴く。案内されている時に、麻薬のニオイを嗅ぎつけ、ふと見ると賄賂を受け取る警官に気づく。そして、それに気づいた警官に取調室へ連行され…。
妄想は膨らむ。
<一度は行きたいあの場所>シリーズ(3)