日本型謝罪テクノロジー(6)『週刊ポスト』の差別煽動を許した、2018年に休刊した『新潮45』の日本型謝罪の検証

この連載では、『週刊ポスト』9月13日号が部数アップのため、嫌韓ネタで差別煽動広告を出した事件をたびたび批判してきました。

『週刊ポスト』には、直後に作家が週刊ポストへの寄稿を拒否するという形で抗議の意思を示したり(三回目の記事)、9月5日に小学館本社前で抗議デモが行われる(神奈川新聞記事)など、差別を批判する動きが様々な形で出てきました。しかし『週刊ポスト』側は、9月2日にとりあえずアタマを下げてメディアと世間を騙す日本型謝罪テクノロジーを使ったまま、逃げ切ろうとしているようです。

みなさん、この光景に、見覚えはありませんか? 

つまり、

1)出版社が部数アップのため、差別煽動を使った広告・記事掲載に走る
 ↓
2)大々的に炎上、世間の批判を浴びる
 ↓
3)出版社がとりあえずアタマを下げる日本型謝罪テクノロジーでメディアと世間を騙す

という流れです。

この流れはまさに昨年、2018年夏に自民党の国会議員である杉田水脈氏がLGBTに「生産性がない」などと差別を煽動する記事を掲載して休刊に追い込まれた『新潮45』の謝罪と、ほとんど同じパターンです。

つまり今回の『週刊ポスト』の差別事件は、昨年の『新潮45』の差別事件が出版社側の日本型謝罪テクノロジーにメディアと世間が騙されたから、起きている事件だったのです。

今回の記事では、去年の『新潮45』の事件と出版社側の謝罪の何が問題だったのかを、簡単に解説したいと思います。

『新潮45』の謝罪

発端は、去年2018年7月に新潮社から販売された『新潮45』8月号で、自民党・衆議院議員の杉田水脈氏が「「LGBT」支援の度が過ぎる」というタイトルで記事を寄稿し、セクシュアルマイノリティは「子供を作らない、つまり「生産性」がない」などと差別煽動を行った事件でした。

これにより『新潮45』に対する批判が殺到したのです。

しかし『新潮45』編集部も新潮社も、当初はこの批判に全く耳を傾けませんでした。むしろその後、9月に発売された『新潮45』10月号では、「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」という企画が組まれました。

単に差別煽動でカネを儲けようとしていたのではありません。差別を批判する世間の声さえも、炎上商法に逆利用するという、非常に悪質なものでした。

このような『新潮45』の態度はさらに批判を浴びたのですが、その後、2018年9月21日に新潮社の社長から「「新潮45」2018年10月号特別企画について」という社長名の下記見解が公表され、その後同月25日には『新潮45』の休刊が発表されました。

 弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。
 しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました〔A〕
 差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。
 弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です〔B〕。
(太字修飾は引用者。以下同)

この9月21日付の声明について朝日新聞記事によると新潮社は「謝罪ではない」としていたものの、その4日後の25日付「「新潮45」休刊のお知らせ」では、21日付社長の声明について言及した上で、「このような事態を招いたことについてお詫び致します」との謝罪が公表されました。

 弊社発行の「新潮45」は1985年の創刊以来、手記、日記、伝記などのノンフィクションや多様なオピニオンを掲載する総合月刊誌として、言論活動を続けてまいりました。
 しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた〔C〕ことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました〔D〕このような事態を招いたことについてお詫び致します〔E〕。
 会社として十分な編集体制を整備しないまま「新潮45」の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思いを込めて、このたび休刊を決断しました〔F〕。
 これまでご支援・ご協力いただいた読者や関係者の方々には感謝の気持ちと、申し訳ないという思いしかありません。
 今後は社内の編集体制をいま一度見直し、信頼に値する出版活動をしていく所存です。

『新潮45』の謝罪も、日本型謝罪テクノロジーだった

この一連の新潮社の声明・謝罪の中にも、これまでの記事で紹介してきたような日本型謝罪テクノロジーの特徴が多く含まれています。
(日本型謝罪の特徴についてはこちらを参照:「責任逃れのための日本型謝罪を見破る方法──ゴゴスマのヘイトスピーチについての謝罪を例に」

わかりやすくいえば、日本型謝罪テクノロジーの特徴は下記表のとおりです。

誠実に責任を果たすなら謝罪とは、①事実を調査し、②それがルール違反かどうかを判断し、③その結果に応じた処罰・賠償・謝罪を行い、④究明された原因に対処する形で再発防止策をとる、という4つの要素が必ず伴うでしょう。しかし日本型謝罪テクノロジーは、これらを回避するための形式的な「お詫び」なのです。つまり、

①事実を調査して確定することを回避し、
②問題の事案がどんなルールに、どう反していたかの判断も回避し、
③(①事実を曖昧にし②何が悪かったのかの基準も提示せずに)とりあえずアタマだけ下げることで
④再発防止の具体策を取ることも回避する

というものです。

以下、①事実調査、②ルール違反判定、③処罰・謝罪・賠償、④再発防止の4つの点について、新潮社側の謝罪を検証していきましょう。

検証①事実の調査、検証はなされたか。新潮社はどんな事実を認めたか。

結論からいえば、新潮社は事実を全くきちんと調査をしていません。調査せずに済むことで、事実関係を不明なままにすることが、『新潮45』と新潮社の責任回避戦略のカナメだったといえます(この事実隠蔽こそが日本型謝罪テクノロジーの核心です)。

新潮社側が認めた事実とは、では何だったか。9月21日付社長声明ではこの箇所だけです。

弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。
今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました〔A〕

とありますが、具体的にどの記事の、どの文章が、どのように問題であったのか、などは曖昧なままです。

そもそもこの社長声明は10月号についてだけであり、自民議員杉田水脈氏のセクシュアルマイノリティ差別を掲載した8月号については何ら言及はありません。

つまり新潮社は、ただ10月号の「「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分」に偏見があったことだけを認め、具体的に何が問題だったのかを一切公表しないまま、逃げ切ったのです。これは安倍首相と近い、与党国会議員である杉田水脈氏に問題を波及させないための絶対的必要条件でした。

それ以外で新潮社が認めたのは、休刊を公表した9月25日付の声明の次の部分だけです。編集体制が不十分だったということだけです。

しかしここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていた〔C〕ことは否めません。その結果、「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」(9月21日の社長声明)を掲載してしまいました〔D〕このような事態を招いたことについてお詫び致します〔E〕。
 

ですから休刊公表時も、やはり差別したとは認めていません。また新潮社は編集体制が不十分だったと言いつつ、具体的にどんな問題が編集体制にあったのかも、事実関係を一切も隠蔽しています〔C〕。ですから社長声明を繰り返し(D)、「お詫び」していても(E)、いったい何が問題でお詫びしているのか、何度読んでも読み取れないようになっているのです。

新潮社の「お詫び」戦略の核心は、このように事実関係の隠蔽に成功することで、後述する通り、責任を最小限に回避可能にするところにあったのです。(それにより『新潮45』8月号の杉田水脈議員の差別問題や、『週刊新潮』など新潮社一般の出版物に深刻な差別がなかったかという問題には波及せずに済んだのです)

検証②ルールに違反していたか否かの判断はあったか。

これもありません。本来は人種差別撤廃条約などの国際人権基準に準じたルールで差別や人権侵害がなかったかどうか、検証すべきでした(また不十分ながらヘイトスピーチ解消法や日本国憲法など参照に足るルールが国内法にないわけでもありません)。

つまり新潮社は、差別だと批判を浴びたけれど、何が差別で何がそうでないかというルールに照らして『新潮45』の記事・特集・広告を検証する、という義務を怠ったのです。

ちなみにもしもそのルールに照らして、差別でないといえるのなら、どうどうと反論すべきでした。

新潮社は①事実調査をしなかっただけでなく、②ルール違反の判断もしなかったことが問題なのです。

新潮社側の声明で唯一ルールめいたものは次のものです。

弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。
今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました〔A〕

つまり「偏見と認識不足に満ちた表現」とは、新潮社が「尊重」する「言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性など」からしても逸脱したもの、らしいのです。

しかしこれは差別や人権侵害を判断する客観的なルールにはなりえません。

新潮社はじつは声明で、自社が差別や人権侵害を判断する客観的なモノサシをなんら持っていないことを露呈させているのです。

検証③処罰・謝罪・賠償はなされたか。

なされていません。既に述べた通り、「お詫び」がなされましたが、それはまさしく、アタマだけ下げてメディアと世間を騙す日本型謝罪テクノロジーにほかなりません。

検証④再発防止策はとられたか。

再発防止策も取られませんでした。9月21日付社長声明では、

弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です〔B〕

と言いますが、具体的な再発防止策については一切言及がありません。

新潮社の日本型謝罪テクノロジーのカナメは①事実関係の隠蔽と②差別禁止ルールの不在にある。

以上の分析から、一年前の2018年9月の『新潮45』の休刊時に、新潮社は見事に日本型謝罪テクノロジーを駆使して、メディアと世間を騙したことが明らかとなりました。

①事実関係を隠蔽し、②差別禁止ルールに反したという判断を回避させることに成功した新潮社は、コストのかかる『新潮45』を休刊させる一方で、もちろん未だに外国人差別や嫌韓ネタを駆使した愛国差別ビジネスで儲け続けています。

ほんの一例をあげれば、たとえば下記『週刊新潮』9月12日号では「外国人に食い物にされる「国民健康保険」」なる差別煽動を使った扇情的なタイトルの記事を掲載しています。

繰り返し指摘してきた通り、本来新潮社が取るべきであった対応は、

①事実関係の調査。差別が起きた原因についての調査
②ルール違反の判断。ルールがないのなら、差別禁止ルールをつくる。
③(①明らかにした事実関係が②ルール違反だと判断された上でそれに応じた)責任の履行。責任者の処分、差別を行ったことについての明確な謝罪。
④差別の原因に対応する再発防止措置とその公表

だったはずです。

問題は、なによりもメディアが、日本型謝罪テクノロジーにまんまと騙されたことです。

本当はメディアは新潮社の「お詫び」が不十分であることを、とくに本稿で繰り返し述べた4点に即して新潮社側の対応の問題点を追及すべきでした(とくに①真相究明の調査さえしていないこと、②調査したうえでルール違反か否かを判断すべきなのにしていないこと)。

今日の『週刊ポスト』やゴゴスマの差別煽動を繰り返させているのは、新潮社の日本型謝罪テクノロジーを批判できなかったメディアの責任だ。

この連載で批判している『週刊ポスト』やゴゴスマなどの差別が、なぜ繰り返されるか、おわかりいただけたと思います。

あれほど大きな社会問題となり、休刊まで追い込まれた『新潮45』事件は、まったく何の教訓も残していないのです。

日本社会の慣習となっている日本型謝罪テクノロジーにメディアが無批判的だからです。

『新潮45』事件で新潮社が「お詫び」したらメディアが報道しなくなったため、一年後に『週刊ポスト』やゴゴスマの差別が起きています。

ということは、今回『週刊ポスト』やゴゴスマの「お詫び」で、またしてもメディアが後追い取材も追求も行わないならば、また同じことが酷い形で繰り返されるでしょう。ですから私はこの連載で日本型謝罪テクノロジーの危険性を繰り返ししてきしているのです(9月6日の新聞労連の差別を批判する声明は素晴らしいものですが、しかしメディアが差別した企業や政治家の日本型謝罪テクノロジーの共犯者として責任追及をやめてしまう業界慣行を改めなければ声明はあまり意味のないものとなると思い、下記の記事を書いています)。

今回分析した新潮社の戦略にみられるように、差別した政治家や企業の不祥事対応としての日本型謝罪テクノロジーの最大の狙いは、①事実関係を隠蔽し(調査させず)、②普遍的な人権規範・差別禁止規範(ルール)に照らして問題を判断することを回避する、というものです。①と②に成功するからこそ政治家や企業は何の責任もとらずにすむのです(③も「お詫び」ですむし、④再発防止も要らない)。

ということだけ知っていれば、メディアの皆さんが日本型謝罪テクノロジーに対してとるべき戦略は明らかです。つまり政治家と企業が隠蔽したがる①事実関係を徹底追及し、かつ政治家や企業がその事実を調査するか/しないかを明らかにし大々的に世に問うことと、②政治家・企業がルール違反を認めるかどうかを追求しそのルールが国際人権基準を満たす普遍的人権規範に準じているか否かを追求することなのです。

良心あるメディアのみなさんが、『週刊ポスト』やゴゴスマや、今後おきる差別加害主体に、この①と②を徹底追及されることを強く望みます。

最後に。

差別を禁止することは、もはや日本の表現の自由を守るために、ぜったいに必要な条件だ、ということを強調しておきます。

この記事で繰り返しましたが、『新潮45』が①事実関係を調査し、②差別禁止ルールに違反していたか否かを判断することを行っていれば、その後も徹底的に差別を防止する体制を整えていれば、『新潮45』は休刊する必要はなかったかもしれないのです。

差別を禁止することと表現の自由を守ることは全く矛盾することではなく、差別を禁止するルールの整備はむしろ差別による社会の破壊を防止し、表現の自由を守るために必要な措置なのです。

下記第三回記事に詳しく書いた論点ですが、これはあいちトリエンナーレ展示中止事件問題にも通じる問題です。次々回にでも改めて書くようにします。


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