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【書評】ドストエフスキー『罪と罰』

書評」というと大げさだけど、感じたことを。


世界的な文学作品だが、20代後半になってようやく読んだ。

100年くらい前の本なので、「古典」として扱って差し支えないだろう。

ちなみに「古典」とは「長く評価され続けてきた」から価値があるのであって、ただ古いものという意味ではない。


あらすじをざっと書くと、こうだ。

主人公ラスコーリニコフはロシアの首都・サンクトペテルブルクで酷い暑さの夏を過ごしていた。

貧乏青年の彼は、都市の暑さや汚さ、臭いにまみれながらある思想を抱く。

それは以下の2つであった。

1つの悪行は、100の善行によって償われる

優れた人間は、新時代を切り拓くために現行の法を乗り越えることが許される

一見それっぽいけど、もちろんどちらもダメだろう。


彼は自ら発見したこれらの思想に憑りつかれて、高利貸しの老女を殺し金を奪い、それを元手に社会のために活動しようとする。

これは読んでいてちょっと疑問だったのだが、ラスコーリニコフは

こんな嫌われ者の老女が1人いなくなったところで、世間は一切気にしないだろう

と考え犯行に及んだけど、蓋を開けてみれば警察や刑事に追われまくりなのは彼の判断が甘かっただけ?

そもそもこんな思想をもつだけあって、そのあたりの感覚がズレていたということだろうか?


いずれにせよ、ラスコーリニコフは老女殺しを実行したのだが、不運にもその場に居合わせてしまった老女の義妹も殺すことになってしまう。

この「もう1つの殺人」が、ラスコーリニコフを罪の意識で苦しめることになる。

食欲不振、幻覚幻聴などいろいろと発症し消耗していくなかで、幾度も自首することを考えるが、自らの思想を戦わせることでなんとか耐え忍ぶ。

やがて彼はある居酒屋で知り合っていたマルメラードフの娘・ソーニャと出会う。

ソーニャは、娼婦をしながら家族のために金を送り続ける献身的な少女で、ラスコーリニコフなんかよりも悲惨な生活をしていた。

母のカテリーナ・イワーノヴナは最後には発狂してしまうが、ソーニャは固く神を信じていたためにそうならなかった。

ラスコーリニコフは、ソーニャの信じる神の存在を否定しようと論争をふっかけるが、結局ソーニャの懐の深さによって逆に自分の罪を告白してしまう

そしてソーニャと一緒に警察へ自首しにいくラスコーリニコフ。

それまでのいくつかの善行によって減刑された彼は、シベリア行きとなるが、ソーニャはなんとその後を追ってきてくれる!

そうしてようやくソーニャの愛をおぼえ、ラスコーリニコフはすべてから解放され救われた、というお話だ。


今でいえば「ソーニャまじ女神」「ソーニャは俺の嫁」といった状況で、当時の鬱屈した青年たちも彼女の底抜けの愛によって救われたのだった。

ちなみに青年期は誰だって鬱屈していて、心のなかはいつでもドロドロしていてヤバい状態になっているもの。

一見さわやか青年にみえる奴だって、部屋で1人のときは血走った目で壁に向かってブツブツ言っているはずなのだ。

そんな彼らを救うのは愛だけが、ただ唯一のものだろう。

くだらん思想をこねくり回してないで、自分にとってのたった1つの愛を見つけられれば、それだけで万々歳なのだ。

『罪と罰』は、

「世界のために~」とか「社会のために~」とか考えてばかりいないで、目の前の1人の女性を愛することの尊さを知れ!

ということを表現した、愛を語る上で最良の1冊なのだ。


今回はここまで。




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