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「地球市民」と「民主主義」を考えてみる

(1)地球市民とは何か?

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 「地球市民」とは、世界市民(コスモポリタン)とも言い、すべての社会的なしがらみから解放されて、地球全体をひとつのコミュニティとみなし、その集団の一員として行動する市民のことです。

 日本、ドイツ、中国、南アフリカ、アメリカ、インド、イラン、スウェーデン、ロシア、アイスランド、オーストラリアなど、世界には様々な国ないし地域があるわけですが、その一定の地理的区分を乗り越えて地球にすまう市民―活動する主体―としての在り方のことです。

 したがって、一人ひとりは各地域のためでなく、地球全体・世界全体の福利のために行動することが求められることになります。それは、日本の代議士が地域の代表ではなく、国全体の代表として活動することと似ていますが、地理的な境界が世界全体、つまりほとんどないことから、無境界性があると言えます。


①古代ギリシア世界のポリス

 この地球市民・世界市民がどのように生まれたのかと言えば、その起源は古代ギリシアにあると言われています。

 民主主義の故郷ともいえる古代ギリシアには、ポリスと呼ばれる政治共同体がありました。ペルシャ戦争で勝利し、古代ギリシアは繁栄を極めていましたが、その後アテネとラケダイモン(スパルタ)が対立するようになり内紛が絶えなくなってしまいました。その時に、北方のマケドニア帝国が勢力を伸張させ、紀元前338 カイロネイアの戦いでポリスはマケドニア帝国の軍門に下ることになります。その後、マケドニア帝国のアレクサンドロス大王の遠征により世界線が広がっていくことになり、ギリシア文化とオリエント文化が融合するヘレニズム文化が勃興します。

 このことにより、古代ギリシアで政治参加との間で前提となっていた「ポリス空間」が瓦解し、独立と自由が奪われる結果になりました。したがって、「市民」は活動の場を失い漂流してしまうことになりました。この時にうまれたのが「地球市民」概念です。

 このように、地球市民は、活動に際して当たり前に存在していた領域や境界が喪失してしまったことにより、無境界的に活動するしかなくなったという歴史的状況・危機的時代のもとに成立しました。


②キュニコス派

 世界市民という単語の初出は、シノペのディオゲネスだと言われています。彼は、マケドニア帝国に屈したあとのギリシアで以下のように、ポリス社会からの離脱を唱えます。

「ディオゲネスは、社会の慣習的な価値よりも、動物の自然なふるまいを讃えたという。彼によってポリスやその法は拘束以外の何ものでもなかった。政治参加に自由を見るよりも、いかに政治の世界から個人の自由を守るかが大切だったのである。」
(宇野、2013)

 このような発言をした結果として、「ではあなたはどんな人間なの?」と問われ、「わたしはコスモポリーテスです」と返答しました。この「コスモポリーテス」という単語が、地球市民のはじまりです。それまでのポリスに拘束された市民のことをポリーテス(πολίτης)と言います。「コスモポリーテス」は、古代ギリシア語では「κόσμοπολίτης」と表現される造語で、「宇宙・世界・秩序(κόσμος)」+「ポリス(πόλις)」の合わさったものです。ポリスは、一定の地理的空間にしばられるものですが、そうではなく世界をポリスとみなします。ポリスから脱して、地理的な制約をとっぱらっちゃいましょうと言うのです。


③ストア派

 そして、他にもキティオンのゼノンという人がいます。このゼノンは、ストア派の祖と言われ、キュニコス派のクラテスに学び、その考え方を発展させていった哲学者です。ストア派の名前は、ストア・ポイキレ( Ποικίλη στοά)というアテナイのアゴラ内の施設から来たものですが、このストア( στοά)という単語から、ストイックという単語が生まれてきます。このことからも分かる通り、ストア派の学説はストイック(禁欲的)なものです。一人ひとりが自らの快・不快という感情から離れて、心の平穏を保ちなさいと主張します。そして、それによって自らの情念から解放され、普遍的な価値観から行動ができるようになることを目指しています。

「ゼノンは、すべての人間は自然の法によって支配される普遍的な世界(コスモポリス)の一員であると主張した」
「自らの情念を抑制し(アパテイア)、世界の摂理に従うことを説いた」
「奴隷も含めた人間の平等と自然法の主張は後生に大きな影響を残した」
(宇野、2013)

 ゼノンは、このように整理しました。自然法に立脚して思考しようというのです。この「自然法」とは、時の流れによって変わらない永遠・不変の法のことです。古代ギリシアにおいては、自然法は神や人間の理性、自然から得られるものとされて、様々な理解がありますが、基本的に倫理・道徳的なものと同一のものとして理解されます。そのため、

①いつでもどこでも通用する
②人間によって変えることができない
③理性によって認識される

の3つが特徴となります。


③カントによるコスモポリタニズム

 これらの流れが、カントによる『永遠平和のために』『啓蒙とは何か』につながっていきます。

 カントは、理性を用いることを重視しました。理性には私的利用と公的利用のふたつがあり、「私的利用」は、自らの立場に基づいて発言することを言い、「公的利用」はみずからの立場や地位を離れて、世界市民社会の一員として考えて発言することを意味します。

 ですから、たとえば官僚が官僚として国家のために仕事をするのは、理性の私的利用です。なぜならば、官僚が仕事をするのは、官僚という職務上求められる行動であって、それは彼の立場に基づくものに過ぎず、「公的」には該当しないからです。では、どのようなものが「公的」なのかと言えば、カントは「学者として」という言い方をしています。

 甲田によれば、この「学者」は、大学教員などの職業として学問に携わっている人をかならずしも意味しません。在野の研究者や識者もその対象に含まれます。ですから、大学教員以外でも、そのように振る舞える人を意味すると考えられます(大学教員でも知性の公的利用をしていないことも想定されます)。彼の啓蒙主義的スローガンが「敢えて賢かれ!」(あえて賢くありなさい)でしたから、理知的に考える存在でありなさいということであろうと理解できます。


④ジョン=ロールズの「無知のヴェール」

 またべつのかたちとして、ジョン=ロールズによる「無知のヴェール」という装置があります。「無知のヴェール」とは、一般的な社会状況などについては知っているけれど、自分の立場や地位については、まったく知らない状況を仮定する思考的装置です。

 この場合、もし無知のヴェールが外れた時に、自分が強者であるか弱者であるか分からないため、万人は弱者にも強者にも優しい、バランスのとれた社会を目指すと考えられます(新自由主義の土台となっている功利主義に対するカウンターアーギュメントです)。

 こういう場合には、わたしたちは、みずからの利益を最大化するものではなく、普遍的な価値観に立脚して行動すると想定されます。自らの立場から離れて物事を考えて行動することが求められるのです。

 このような考え方が、啓蒙主義(理性重視の在り方)の発展を生み、ルーズベルト大統領「平和連盟構想」、列国議会同盟、1914年 ディキンソン「League of Nations(国際連盟)」、1915年 ウィリアム・タフト「League to Enforce Peace」、1916年 ロイド・ジョージ内閣による戦後のための国際組織、1918年 ウッドロウ・ウィルソン「14か条の平和原則」、1920年 国際連盟の創設につながっていきます。

(2)民主主義とは何か?

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 「民主主義」とは、δημοκρατία(δημος + κρατία)の訳語で、「民衆の支配」を意味しています。デモクラティアは、ソクラテスの刑死を典型として批判の対象とされてきています。というのも、民衆が支配を行う場合、かならずしも理性的な判断を下すことができないことが想定されるというのです。そのような状況で、政治的決定が行われるため、衆愚政治に堕すると指摘されてきました。

 現代的な民主主義を象徴する言葉にリンカーンによる「ゲティスバーグ演説」のものがあります。

 ”The government of the people, by the people, for the people.
           ―人民の人民による人民のための統治

 この文章を平叙文に直すと以下の通りになります。

 "The people govern the people for the people. " 
                                        ―人民が人民のために人民を統治する

 これは、カール・シュミットのいうところの「治者(the ruler)と被治者(the ruled)の自同性」を意味します。「治者と被治者の自同性」とは、統治者たる政治家や行政官と、被統治者たる国民や市民がおのずから同じになるということです。つまり、統治者と被統治者は同じ集団から出てくるということです。

 このようにすることで、統治者は統治される側にまわった時にも、安心して生活できるような政治を行うようなるでしょう。また、被治者は統治者が好き勝手やることをおさえこむことができる権利(参政権)を有することになります。

 民主主義の要諦は、惰性をはたらかせることにあると言えそうです。どういうことかと言うと、治者と被治者の間に均衡関係を成立させることで、両者がせめぎ合い、ものごとが変わりづらくしようとしているのです。治者は権力がありますが、被治者にはありません。そのため、ここで重要になってくるのはメディアの存在です。メディアが不断に治者の行為を報じ、被治者が把握できるようにしているのです。「与党に対する野党」と同じような構図の、「治者に対する被治者」の伴走者と考えると分かりやすいでしょうか。

 加えて、権力分立という制度をあわせて、惰性をつよくし、また不当な法律を是正することをシステム化しています。言い換えると、法律の変更を比較的むずかしくすることで、社会が一気に変わることを抑制し、安定した社会をつくりあげようとしているのです。

 人間には、変わりやすかったり、流されやすい面があります。そのため、そういう面があっても、社会におおきな激変が起きないようにシステムがつくられています。まとめると、私たちは私たち自身を統治するのですが、私たちは結構まちがいを犯すので、間違ってしまっても社会が一変してしまうのを防ぐような社会構造を先んじて作ってあるのです(いやいや、一気に変えなきゃだめだよというのが革命主義です)。

 ですから、基本的に私たちの社会が良きにつけ悪しきにつけ変化する際には、ジワジワと事態が変化するように構造化されているのです。したがって、そのちょっとずつの変化を覚知できないという事態も想定されます。それを防ぐには、つねに社会や政治について情報をキャッチして咀嚼することがもとめられます。そうでなければ、私たちは私たち自身を統治することができなくなってしまうからです。なぜ「無知のヴェール」をかぶっても、社会に関する一般的情報は付与されているのか考えてみてください。


(3)地球市民と民主主義とは何か?

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 以上のような議論からも導けるかと思いますが、民主主義は「自己統治の場」と言われています。つまり、自分で自分を支配する場所ということです。自らのことを自らで律するのが大変なのは、実感としても分かると思います。だからこそ、「自分で自分を統治するなんて可能なのだろうか」という疑問がでてきます。そのため、民主主義にはつねに先鋭的な批判が飛び交います。

けっこう間違える人たちに政治なんてできるの?

という疑問です。でも、さきほども確認した通り、ものごとがちょっとずつ変わるように惰性を利かせておけば、ある時点で「これやっぱりだめだね」と船首を転じることができますよね。この点において専制君主と違って「ひっこみがつかない」という恐れを―わずかであっても―消していることが、ポイントと言えるかもしれません。

 そして、世界について論じる際にもこの構造を拡張してみてはどうか、という考え方が「地球市民」論です。私たちが息をしているのは、一定の国家という枠組みのなかではなく、地球という広大な沃野なのだ、と。一定の地域の利益のためでなく、私たちが暮らす地球全体の利益のために活動していこうじゃないか、ということです。上記のような文脈から生じてきている単語が「宇宙船地球号」です。

 「宇宙船地球号」とは、地球にある資源は有限なのだから、その適切な配分と使用についてみんなで一緒に取り組もうというパスペクティヴ(視点)です。宇宙を航海する地球が困難にある(遭難している)としたら、船上(地球)にあるものを、人類やその他の生命全体のために最適化しようと言うのです。だからこそ、一定の利益ではなく、俯瞰的な視点で地球全体のためにアクションを起こそう、と。したがって、理性や普遍性(いつでもどこでも成立する考え方)に基づいた思考を確立しなければいけないよね、という話がでてくるのです。

 「地球市民と民主主義」について、重要なことは、地球という広大な世界で、ひとりの力が実感できないかもしれない中で、それでも社会をすこしずつでもよりよくしていこう(改良主義)という姿勢なのではないかと、筆者は推量しています。


照宇一隅 此則国法



~参考文献~
・甲田純生「「理性の公的使用」とは何か」
・イマニュエル・カント『永遠平和のために』
・ジョン・ロールズ『正義論』
・宇野重規『西洋政治思想史』
※今回具体的に参照していないだけで、影響を受けた著作は他にもあると思います。

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