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未完の大器?「民主主義」ってなんだ

「民主主義とは何か?」

 この問は、つねに考えられてきた。もう二千数百年問われてきたのではないだろうか。それだけでなく、つねに民主主義には疑義が呈されてきた。あたりまえである。主権者たる国民は自分のことを考えれば、主権者たるに値する知性を持ち合わせていない事実に直面するのだから。

 もちろん、一方では他者を見て、「自分よりバカだから、あんなやつに主権があるのがおかしい」と考える者もいよう。白痴とはそういうものである。

 さて、民主主義とは何か。古代ギリシアにおける「デモクラティア(民衆の支配)」が出どころである。「デーモス(民衆)」と「クラティア(支配・権力)」が合わさった単語である。みんなで政治を行いましょうということを意味しており、政治体制であり、生活の姿勢であり、状態のことを意味する。注意しておかなければいけないことは、民主主義は思想ではありえないということである。

 すなわち、民主主義は主義(ism)ではないため、それによって一定の政治的意見を生みだすものではない。あったとしても、姿勢や状態に呼応して出来するものである。それは、たとえば、「みんなの話をしっかり聞こう」とか「だれでも発言できるようにしよう」といった種の”要請”である。(であるからして、デモクラティアに「主義」という訳語があてられていることは紛らわしく、また誤解を招く。民主政とそのまま訳した方が妥当なのではないだろうか。)

 ところが、ここに大きな陥穽がある。話を聞いたり、発言できるような仕組みを整えても、あんがい、そのことが実行されないということである。私たち自身(民衆)が自分たちのことを決める(政)状態であるにも関わらず、私たちはなんだか様々な繫縛によって発言できなかったり、人の話を聞けなかったりする。みずからを統治するのは存外むずかしいのである。

 これが冒頭に記した「主権者たるに値する知性を持ち合わせていない事実」のことである。私たちは、自分たちが自分たちのことを決める仕組みを採用していながら、それによってみずからに対してなされる「要請」に応えられないことが、往々にしてあるのだ。

 以上のことより、民主政がどのようなものなのか推測ができる。それは「民主政とは、愚かな私たちが賢くなることで完成される政体」ということである。民主政はそれを構成する全員に「賢くある」ことを求めているのである。

 しかし、私たちはどこまで研鑽を積んでも、努力をしても「完璧な知性」を得ることができない。賢くなりきれないのである。というのも、様々なアンコンシャス・バイアスが存在するし、この世のすべてのことを知ることができないからである。それに世界のことを知悉しても、さらに「思考する」という階梯が必要となる。それは、事象や現実を自らの中で再構成することを意味する。これがまた相当な困難を伴う。

 わたしたちの知性は完璧ではありえない。言い換えれば、つねに発展段階にある。この事実と、わたしたちが取り決めた「民主政」という様態には相似の関係が成り立つ。それはつまり「民主政とはつねに発展段階である」ということである。「人の話をしっかり聞く」「誰でも発言できるようにする」といった当然の要請に応えられない事実が傍証となる。私たちが社会を運営する上で「理想とする状態」を目指すために、そこに向かって不断に前進する、その遂行的な表明が民主政であると言えよう。

 民主政とは、全人が互いに認め合い、共存していくための決意なのである。そんなことをふと考えたので書き留めておいた。わたしたちは、永遠に未完のままである民主政・民主主義に疑問を抱きながらそれでも進歩させていく意思を固めている。ゆめゆめ忘れてはいけない。難しさは厳然とある。それでも前に進むのだ。


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