見出し画像

大人と子どもの違い-結婚できない男の構造分析

1.  ドラマ「結婚できない男」

 Amazon Prime Videoに「結婚できない男」「まだ結婚できない男」がアップされていたので、ついつい観てしまいました。数年前にリアルタイムでみた時には、手を叩いて楽しんだ記憶があります。しかし、今回、結婚できないシリーズを観て、なんとなく違う考えを抱いたので記してみます。

 この作品の主人公は、阿部寛演じる結婚できない男:桑野信介です。桑野は、一級建築士で、収入も、信用もあり、高身長で、社会的評価も得ているという魅力的なステータスで描かれています。そのため、一般論としては、「結婚できる」んです。ところが、周囲からの判断は「結婚できない」となっています。結論から申し上げると、桑野が子どもだからです。というのも、嫌味で、神経質で、空気が読めず、みずからのこだわりを他者に押し付ける傾向があるからです。ただし、本人は「結婚できないのではなく、結婚しないんだ」と主張しています。

 作中、桑野は、いたずらで婚活サイトに登録されることになります。その後、桑野本人がそのアカウントで婚活を自発的に行うという描写があります。そして、実際にマッチングした相手と会うことになると、案外まんざらでもない様子で、待ち合わせ場所のホテルに向かうんです(結局、相手は現れない)。ここで桑野は実のところ「結婚したい」のだということが描写されています。しかし、ことあるごとに、桑野は結婚の非効用を言い募り、結婚はすべきでないとし、結婚しないことを合理化することになります。そのため、彼の思考がねじれていく、またはねじれているように見えます(そのせいでより一層結婚できない)。この作品は、そのような形で構造化されています。

 なるほど確かに、この自己と他者における認知の歪みは、考察の対象として、極めておもしろいと思います。その根元に、晩婚化や非婚化、ひいては少子化といった問題についての社会学的示唆を含むよう構想されたのだろうと推測します。

 ただ、桑野は気づいていないのかもしれませんが、「-したい」「-すべき」と「-できる」は、その発生の仕方が違うんです。前者は際立って個人的に成り立つもので、後者は人との関係性の中で成り立つものなんです。どういうことか以下で見ていきましょう。

2. want、shouldとcanの起源

 wantは「-したい」、shouldは「-すべきだ」、canは「-できる」という意味です。文法用語では、順番に願望、当為(あるいは義務)、可能と言います。

 自分ひとりしかいない部屋の中では、願望と当為は発語され得ますが、可能文は発語されません。たとえば、とある部屋に独居している人でも、お腹が空いた時に「ご飯が食べたい」と感じます。それに、あまりに物を食べていないとなったら、これはいよいよまずいぞ、と「ご飯を食べなきゃ」となります。でも、その状況で「私はご飯が食べられます」という発語はなされません。だって、意味がないから。なんの意味内容も構成しないから。canというのは、発話者だけでは成立しません。それを受け取る人との、関係性や比較の中で、やっと生まれるものなんです。

画像1

 もちろん、事実認知的なレベルであれば、孤絶した部屋の住人も、可能文を用いることができます。でも普通そんなこと言いません。想像してください。小学2年生の子どもが学校から帰ってきて、お母さんに「お腹すいた〜」という場面を。お母さんは、「ちょっと待っててね。いまホットケーキ(パンケーキって呼ぶんですか?)焼くからね」などと応じることになります。この時、お母さんは

①お腹が空いた(want)子供に対して
②パンケーキを焼ける(can)という与件を以て

③パンケーキを焼く(do)

という行動をとることになります。

 つまり、この場合、欠如を生じた子どもに対して、その不足を埋めるという形ではじめて可能文が生起するんです。

 ほかの場合も考えてみましょう。たとえば、「お腹が空いた」という発語をできない赤ちゃんに対して、「ご飯あげたのが3時間前だから、そろそろあげなきゃな」と考えて、ご飯を作ります。これも作用の機序は先ほどとほとんど同じです。お母さんは、

①お腹が空いている(want)であろう赤ちゃんに対して
②ご飯を準備することができる(can)ことを以て
③ご飯をあげる(do)

ことになります。先ほどと同じように、不足・欠如を埋める際に、可能文が出来するんです。

3.  発語者の属性がわかる

 お分かりいただけたと思いますが、願望・当為(want、should)だけを選択的に語る人のことを「子ども」と呼びます。反対に、それに応えて、可能(can)を語れる人のことを「大人」と呼びます。したがって、不足に対して、「その不足を埋められますよ」と可能文で応じられる度合いが高ければ高いほど、大人としての成熟度が高いということになります。(オルテガたちがそう言っているんです。私の創見ではありません。)

画像2

(不健康状態という不足を改善しようとする大人と抵抗する子ども)

 お気づきになりましたか。この社会で可能文をより多く発しているのは、女性なんです。それも子育てをしている/していた女性です。この社会における大人のほとんどは女性です(ただし、女性≠大人)。考えてみてください。仕事から帰ってきた旦那が「母さん、飯」「母さん、風呂の準備はできてるか?」と言うのは、小学校から帰ってきて開口一番「お腹すいた」と言う、小学2年生と同じなんです。男のほとんどは子どもです(ただし、男性≠子ども)。

 女性が子育てで忙しい時期に、不貞行為に及ぶのだって、セックスをしたい(want)を重点的に選択している結果なんです。疲れているから休みたいと育児に参画しないのだって、休みたい(want)を追求しているだけなんです。言ってしまえば、ただの子どもです。話はそれだけ。でも、なんだか随分パセティックな話ですね。

 そして、いまの社会だって、その集積の結果です。女性が子どもを育てたり、食事を用意したりといった尊い営みをしている間に、男たちは、「名誉が欲しい」「金が欲しい」「歴史に名を残したい」「成功したい」といった願望(want)に邁進していました。その結果が、現在の陰惨な格差社会です。いまの格差社会は、様々な社会問題を生んでしまう原因ではないんです。この社会状況は、これまで願望に汲々としてきた男たちの貪婪さ・愚かさの集積です。そして、その宿痾の結果なんです。原因と結果を取り違えてはいけません。

4.  「結婚できない男」の説話構造

 閑話休題。「結婚できない男」という作品が、「結婚できない男」な時点で、桑野の幼児性が描写されることが予見的に示されています。で、実際、そうなっています。繰り返しになりますが、桑野は「結婚しない」のではなく、「結婚できない」んです。だって、子どもだから。それだけです。桑野に共感している人は気をつけたほうがいいですよ。

この番組の構造的な示唆は、

①少子化や晩婚化といった現象は
②日本に成熟していない大人が増えた結果だ

という点にあります。

5.  最後に

 ここまで来るのに、だいぶかかってしましました。でも、あれ? この文章に取り掛かった時って、私は、こんなこと書こうと思っていたんでしたっけ。このように、書き終わってみてはじめて、人間は自分を発見するんです。書き終わって読み直してみると、自分はこんなことを考えていたのか! と喫驚するのですが、文章には私の手跡(エクリチュール)が明らかにあります。そうかぁ、こんな風に考えていたのかぁと事後的に認知するんです。

 これはソシュールらが遺してくれた言語観・思考枠組みです。でも、残念ながら、その知的な卓越性とは裏腹に、日本ではあまり浸透していません。今回の記事は、紹介までに、その思考法で書いてみました。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?