【限定色オーバーライト】 第3話

 授業中。バシャり、水を浴びせられる。つまらない授業でうつらうつらしていた意識が吹き飛ぶ。私の中に立ち昇るのは赤色一号、敵意の感情。ふざけんな、と。

「……え」

 緑。苔の雨でも降ったかのように。それから静寂。紙の擦れも、チョークの足音も、教科書を読み上げるクラスメイトの声も。一時停止ボタンを押したかのようにピタリ。
 無機質な蛍光灯が、赤色に変わっている。教室中にぶちまけられているのは緑色。静止したクラスメイトや数学教師にぶちまけられ、混じりあっていく。
 ただ一人の例外。私だけ、毛の一本すら染められることはなく。
 もぞもぞと動き出したペンキに、咄嗟に距離を取る。すぐに、ペンキはマネキンに変わった。記憶通り。違うのはペンキの色くらい。そして、私には構うことなくどこかに駆けていく。
 二回目ともなると、少しは慣れる。前回と同じだとするのであれば、向かう先は検討つく。

「また……この状況。私が何したっての。真面目だったでしょうがぁ」

 いや、ちょっと居眠りしかけたけどさ。それにしたって異世界みたいなのに飛ばすほどじゃないでしょ。
 夢かどうかを確認するのに最適な手垢塗れの確認方法……頬を抓る。ちくりと鋭い痛み。手を離しても、じわじわ、熱にも似た感覚が頬にじんわり。

「気は進まない、けど。念には念を入れて」

 鞄から携帯裁縫セット……一本の針を取り出す。

「んっ」

 左手の人差し指の先に先端を落とす……と、赤い雫が小さく玉を作っていた。少しずつ膨らんでいく。

「……夢、じゃない」

 痛覚はきちんと仕事をしていて、きっちり生々しい赤を吐き出していた。その赤は、ペンキと違って、制服の端に小さな小さなシミを作り……この世界から解放され、授業中の教室に戻されても残っていた。
 
◆◇◆◇◆

 ある日の昼休憩時間。使われることの少ない西校舎四階の階段に腰掛け、弁当箱をつつきながら、溜め息ひとつ。亜桜ちゃんお手製出汁巻きは今日も美味しいのに、気分は憂鬱。
 一度なら夢だと割り切って忘れる。二度なら珍しい偶然。けれど、三度も四度も続くのなら何か手を打たないと。
 現実的な所で私が精神的な疾患を抱えていて、異世界の正体は私が見ているだけの譫妄というのが一番濃厚。が、烏羽原亜桜本人としては出来ればそれを認めたくない。
 自分が精神不安定者ではない理由を並べるため、なんとか状況を整理しようとした
 暫定異世界はある程度の一貫性を持っている。自分自身が負った傷は現実に引き戻された後も残っているから、夢では無い……のだと思う。
 仮に謎世界で死んでしまったらどうなるのか。知りたくもないが……どれだけ好意的に見ても、仲良くできそうにない異形が蔓延っている中、襲われてしまったらひとたまりも無い。少なくとも、ちょっかいを出すと普通に抵抗されるのは確認した。あとは、時偶、進行方向に壁を作られ邪魔をされたりしたこともある。
 あと、魔法や超能力なんて、特別な力は今のところ目覚めていない。至って普通の女子高生のまま。
 一人で調べてもすぐに限界が来た。分かったことは殆ど無い。

「聴きにいく……以外は無いんだろうけどさぁ」

 ペンキマネキンは、意思疎通のいの字も図れそうにない。じゃあ他に意思疎通が取れそうな相手は? 思いつくのはたった一人。

「……背に腹かぁ」

 謎世界で謎ペンキと謎理由で戦っている謎女教師。逃げて隠れ続けているのだけれど、いい加減、踏み出すべきか。いやけど……と懊悩。

『烏羽原、お前は知ってはならないことを知った。規則に従って処置させてもらおう……とか言いそうだし』

 問答無用で拳銃を向けられる可能性だってあり得る。拳銃を持って暴れる相性最悪女の危険度は高い。ただ、マネキンの気紛れで襲われかねないので気が気でない。
 少なくとも会話が成立するのが何よりも大事。そろそろあの空間に一人で巻き込まれ続けるのに精神的に限界。

 人も物も、殆どすっからかんの西校舎は物静か。スピーカーからこぼれるザリザリといったノイズもよく響く。

『3年C組元木。3年C組元木、生徒指導室まで来い。以上』

 校内放送がある度に身構えてしまうようになっていた。
 聞き慣れた声は、私の名を呼ぶことなく、知らない上級生の名前を呼んだだけ。

「せふせふ」

 お気に入りのきんぴらごぼうをもぐもぐ、気分が少し紛れる。素朴な味わいとほどほどの塩味が雑穀ご飯を掻き込めと箸を急かす。ご飯を口に放り込むと塩味が米の柔らかな甘みと中和されて、たまらない。

「ありがとう。八百屋のおじさん。おまけしてくれたゴボウはこんなに素敵に生まれ変わりました」

 どうしてこんな辺鄙で埃っぽい場所で昼食を採っているのか。その理由は、今しがたの放送にある。
 墨波金糸雀とかいう美人鬼看守モンスター女軍人教師は、学校教師に非ず。一教師であるが、立場としては学校ではなく国にある。らしい。
 私にもわかりやすく噛み砕いて言うと、派遣とか、一時的なお手伝いみたいな立場なのだとか。
 つまるところ他の先生に助けを求めたところで、動いてくれない。
 出汁巻きの最後の一切れを箸でつまみ上げ、視線の高さに持ち上げる。

「なんとか弱みを握らないと……」

 ぱくり。出汁巻きサイコー。
 センセと会話するにしても丸腰で行った日には、脅されて銃を突きつけられれば為す術なし。
 無い知恵を絞った末に辿り着いたのがココ。中庭を挟んで生徒指導室を見下ろせる穴場。やたらと勘のいいセンセにバレないように細心の注意を払って、昼休憩はこの場から観察していた。

「やっぱ、そんなに都合良く弱みなんか掴めないかぁ。もういっそ、色仕掛けでも……っていっても、センセの方が顔いいもんなぁ」

 今のところ釣果はゼロ。真面目なセンセは人が居なければデスクに向かって仕事しているし、生徒を呼び出しては指導しているだけ。
 なにより、カーテンという障害物で中の様子は中々見えない。結果どころか手がかり一つ掴めないので、モチベーションは右肩下がり。そろそろ、損切りを考えるべき時期だろうか。
 弁当箱を仕舞い、短い廊下の突き当たり。窓の左下端から顔を出す。
 呼び出されたであろう男子生徒が生徒指導室へ。カーテンは閉まっていたが、開いた窓から流れこんだであろう風が、僅かに隙間を作っていた。丁度、私の居る西校舎四階から見やすいように。

「サッカー部?」

 ここ最近、サッカー部はちょっとした話題の中心。ワールドカップだかオリンピックだかで、日本が歴史的快挙を成し遂げたのと、珍しい地区大会での優勝が重なって、注目の的、らしい。
 私がサッカー部だと気づけたのはユニフォームを着ていたという単純な理由だけ。

「いっそ、生徒に手でも出してくれれば……いやでも、なんかヤだなぁ……」

 ぎりぎり見える位置、センセとサッカー部員が向き合う。いっそ、最近人気のサッカー部を誘惑でもしてくれれば交渉材料としては最上級。『生徒に手を出すなんてこれが世間に知られたら……』なんて分かりやすい脅し文句が浮かんでくる。
 惜しむらくは、そういう画が浮かばないこと。センセ程の美人であれば、生徒どころかプロ選手だって袖にできるだろう。

「んあぁ、徒労って認めたくなぃぃ……」

 こんなところでこそこそと覗き見を日課にして無駄骨を折るくらいならば、とっとと覚悟を決めろと、頭の中、賢い方の亜桜が語りかけてくる。

「あっ」

 風が一瞬強く吹き、カーテンが揺れる。ほんの数秒だけ、隙間ではない、中の全景がさらけ出される。
 切り出された窓枠一枚画。

「ほんとに、手を出した……」

 言霊というのは、あるのかもしれない。

「……いや、違う。そうじゃないでしょ」

 高速の手刀が、吸い込まれるように打ち据えられた。
 センセがサッカー部員に手を出していた……言霊というのは、文脈を汲んでくれないらしい。読んで字のごとく、物理的に再現。ものの見事、一発でぐらり。意識を刈り取っていた。
 女性としては高めの身長も運動部には及ばず、骨格に至っては言わずもがな。フィジカルに恵まれているとは思えないけれど、そんなの関係ないことはとっくに分かっていたこと。 

「いきなり暴力なんて珍しい。機嫌悪いのかな……」

 昏倒した生徒を固い床へ横たえている。センセの印象的な髪がチラチラと映るばかりで全景は見えない。けど、しゃがみ込んで何かをしている様子は、カタギじゃない。

「まぶし」

 不意に視界がホワイトアウト。センセが取り出して手に持つ、細い円筒状の何かが日光を反射して、網膜への嫌がらせ。
 その程度の障害でこの一大スクープ……かもしれないシーンを逃してなるものか。咄嗟、スマートフォンのカメラ機能でシャッター、シャッター、シャッター。仕上げにレコーディングもスタート。

「生徒指導室で、墨波カナリアセンセが取り出したのは注射器。一体、何をしようと言うのでしょうか」

 ひそひそと意味も無く声のボリュームを落としているのは、パパラッチ的不道徳行為の自覚があったから。吹き込む言葉までも安っぽいレポーター気取り。
 たこ焼き器が出てきたのならたこ焼きが。
 喫茶店に行ったのならコーヒーが。
 注射器が出てきたのなら、どう使うのかなんて二つに一つ。
 針は細くて見えないけれど、手元の動きで十分伝わる。

「刺しましたっ。迷いなく、サッカー部員三年の男子生徒である、えーっと。なんだ……なんとかっていう先輩の腕に注射針を突き刺しましたっ」

 血管の位置を探るとか、説明書を読むとか。そんな寄り道ゼロ。センセは注射針を生徒へと挿入し、何かを強制摂取させる。
 心臓がバク、バク、バク。周りで殆ど音がしないのと合わさって、よく聞こえる。
 風がもう一度吹き、カーテンが大きく揺れ……

「ヤバっ」

 咄嗟、窓から離れ、呼吸を止める。離れるほんの一瞬……顔がこちらへと向こうとしていた。ような、気がする。

「大丈夫、大丈夫」

 角度と位置的に、殆ど死角。カーテンが揺れる一瞬で、西校舎の四階、その片隅の窓の端。そこにいる人影を捉えられるとは思えない。
 仮に、超人的動体視力で捉えたとしても、判別をつけることはできないはず。

「どういう勘してるんだか、あの鬼看守。野生動物かっての」

 悪態と息を一緒に吐く。録画中になっていた液晶画面をタップ、撮影終了。壁に背を預け、スカートが汚れるのもお構いなく座り込む。撮影した写真と動画をすぐに保存。自動的にクラウドサービスにも連携を確認。端末を取り上げられたとしても、証拠は残る。

「……こんなに上手く行くなんて」

 思ってもいなかった。
 撮影した写真がブレていたり、カーテンに遮られて見えなかったりと使えない物が多くを占めていた。けれど、センセの秘め事を数インチの液晶に映し出している数枚も存在。

『生徒指導室で、墨波カナリア先生が取り出したのは注射器。一体、何をしようと言うのでしょうか』
「注射に決まってるじゃん」

 へたくそなレポートにセルフツッコミ。写真ほどハッキリとは映っていなくとも、一部始終を抑えている動画形式にしたのは正解だった。

『どういう勘してるんだか、あの鬼か』

 再生終了。最後は後でカットしよう。とにもかくにも、証拠としては十二分。

「よし」

 少なくとも、丸腰ではなくなった。校則とか、教師指導要領だとかをすっとばして、間違いなくに犯罪。法律を勉強していなくとも、気絶させた相手に注射器で薬剤を流し込むのが罪に問われることくらい分かる。
 そろり、と窓際から離れ、反対側の空き教室の壁近くで立ち上がる。
 証拠は手に入れたけれどどう有効活用すべきか。釣り上げた魚は想定外のビッグサイズ。

「何を聞き出してやるかな」

 動かぬ証拠という武器を手に入れたことで、脳内は皮算用一色。とんとんとん、と小気味よく階段を叩く上履きも上機嫌。
 謎その1、そもそもあの世界って何? その2、なんで戦っているの? その3、私はなんで無事なのか。
 まとめて暫定回答。わからん。けれど、知っていそうな人との交渉材料が手に入った。

「いっそ、聞き出すだけじゃ無くて、見逃せって言ってみようかなぁ。いや、こんなに都合良く見つかるなんて。一旦教室に戻って、そっから作戦を」

 声が止まる。止められる。降り注ぐ、ペンキの豪雨に潰されて。

「うわっ、ぷ」

 屋根の下、校舎の中。そんなこともお構いなしな、この現象。

「ぅ、う、っといっ!!」

 いつもより長い。瞬き一つ分の時間しか落ちてこないペンキが今日は止まらない。十秒、二十秒、三十秒。まるで滝行。呼吸するのが、苦しくて、階段で、ダンゴムシみたいに蹲る。
 色水が背中をバチバチと叩きつける。濡れることも、塗れることもなくても。思いっきり叩きつけるように降る滝に晒され続け……もし、これが永遠に続くことになったのなら、なんて最悪の想定が浮かぶ。
 そんなことはない。少し長いだけで、すぐに止む。自分に言い聞かせる。体感数分。実際のところは……分からない。

「やん、だ?」

 ピタリ。蛇口を閉めたように止まる暴水。大質量に押しつぶされることから解放され、最初に感じた呼吸のしやすさに安堵。

「うっわ……」

 顔を上げた先には、赤。赤。真っ赤。どこもかしこも濃い赤色ペンキでまみれていた。
 分かりやすい原色……百人居たら九十九人はこの光景におぞましさを覚える。赤には濃淡、テラテラと浮いた油分が光を生々しく反射しているから、本当に血が降り注いだみたい。

「なんで、こんな時に」

 或いは、こんな時だから? でも、私には突き止める手段がない。出来るのはただ、逃げ隠れて、終わるのを待つだけ。
 立ち上がると、背中に乗っていたペンキが、滑り落ちて、ぱしゃりぱしゃ。足下へ落下。大量に降ったペンキは階段の下へ下へと流れていく。見上げた階段から赤がシトシト静かに流れてくる。蛍光灯からも、赤がテラテラと降りてくる。
 階段を登るか、降りるか。判断材料はナシ。ここは現実とはかけ離れた、信頼性のない曖昧な場所。真面目に悩んでいてもキリがないのなら進むだけ。

「……気持ち悪い」

 ぱしゃ。ぱしゃ。一歩一歩、降りる度に水音が響く。
 手すりを強く握って足を取られないように。ペンキは靴の中に入り込むこともなく、髪も濡らさず、弾かれる。今回も変わりない。汚れるのを気にしないでいい分、滑って転ばないように集中。こんな場所、こんな世界で転んで血を流しても誰にも気付かれず……その先は考えたくもない。
 注意深く階段を降りて、降りて、降り続ける。たった四階建て……それも、ペンキの滝に晒されるまでは二階まで降りてきていた。だというのに下り階段はまだまだ続く。

 終わりがハッキリしないという不安の種が、芽に変わった頃合い、ようやく変化が訪れた。一枚のドア。あれだけ流れ落ちていたはずのペンキは終点に辿り着いたのに溜まっていない。ドアの先に何があるのか。不安は山盛り……けれど引き返す元気もない。

「なにも起きませんように」

 ドアノブを握り、力いっぱい引く。建て付けが悪いのか異様に重たい。両手で握って、体重を使って開く。
 下り階段の終点、扉を開いた。その先は、屋上。
 本校舎の屋上に横付けされる形で、数十階建てに増量された西校舎が生えていた。原木から顔を出すキノコみたい。違法建築どころではない。物理法則がまともに仕事をしていたら、ぽっきりと折れているに違いない。
 太陽はいつも通りに明るく居座っているのだけがいつも通り。
 降り注いだのは学校だけでは収まっていない。どこもかしこも赤ペンキで塗れていて、街中に校舎が生えていたり、学校内に信号機や交差点が突き刺さっていたり……無茶苦茶。
 

「聞くことが増えたなぁ」

 空元気に呟く。盗撮をしてすぐ起きた異常事態。意図的にセンセが起こしたのかもしれない……なんて憶測。

「ううん。多分、違う」

 首を横に振って憶測を一先ず否定のラベルをぺたり。
 ペンキは様々な形でセンセに襲いかかっていた。現に、今も目の前ではペンキが蠢き集まり膨らんでいく。
 そうこうしていく内に出来上がっていくペンキマネキン。血肉をミキサーしたドロドロを固めたみたいなマネキンに、生理的嫌悪が止まらない。一色で作り上げられた人型は等身大の食玩。全員の顔が同じようにのっぺり。表情なんて一切ない。
 手には警棒のようなものだとか、パイプ状のものだとか……果てには長銃までもが握られているのが少々。仕上げに腹や全身に何かを括り付けている異様なのも居る。
 テロリストが学校に占拠してくる……みたいな妄想を半端に再現したようなのが光景が目の前に現れていた。
 いつもと違うこの状況、慌てて周りを見回すけれど屋上には隠れられそうな場所はない。食玩みたいな銃を向けられ、撃たれたらどうなるのか。
 最悪の想像が浮かんだのと同時。ペンキ部隊は機敏に走り出した。いつも通り、私を無視して。

「完全に油断してた……ってか、隠れても意味ないんだろうけどさぁ」

 襲われなかったことに安堵。力が抜けて、へたり込む。

「どうやって見つけてるんだろ」

 テロリスト達が向かう先はいつも通り。センセなのだろう。マネキン同士は意思疎通を取っている素振りナシ。それでも、一方向に向かって進んでいく姿はやっぱり薄気味悪い。

「いやいやいやいや……どんだけ出てくんの。無限じゃん」

 私が降りてきていた西校舎から、この屋上に向かって大量の人間が溢れ続けていた。まるで工場か何かのように、扉から出てきた等身大食玩テロリスト達が吐き出されていく。

「原材料は山盛りあるもんねぇ」

 普段とは比べ物にならない謎ペンキが降り注いだ。結果、数が増える。単純明快な理屈。
 それこそ、本物の軍隊でも動員したのかと思うほどに。多すぎる数に呑まれながらも、誰一人が私に向かってこない。一瞥すらしないことに安心。

「私は大丈夫。私は関係ない。私は気付かれない」

 コイツらは私を相手にしない。相手にするのは、センセだけ。

「私は、大丈夫。大丈夫……私、は」

 なら、センセは? 形を持ったペンキが向かっていく先は決まっている。後を追うだけでセンセには辿り着ける。
 どこからか、乾いた音が響いて、跳ねて、ここまで届く。

「はぁー、私には関係ないって。ただ数が多いだけなんだから別に心配する必要なんかないんだってば。武器持ってないセンセでも、半グレだかヤクザだかを一人でボコボコにしてるんでしょ? 銃とかナイフとか持ってたら鬼に金棒なんだから……」

 センセは負けない。負けている姿は想像できない。

「鬼強いセンセが、モブの雑魚敵になんかやられるわけ……」

 そこまで呟いて、すとん。肩から力が抜けた。
 なんで、センセが負けるわけない、とか。絶対に勝つから問題ない、とか。
 自分に言い聞かせようとしているのだろう。

「いやいやいやいや、そセンセがどうなったって関係ないって。むしろ、居なくなってくれた方が……」

 口を閉じて、ため息を吐いた。

「誰に言い訳してるんだか」

 墓穴を掘る、間抜けな一人相撲。
 これまでとは二倍や三倍では利かないほどの数。その上、明確に殺傷武器を模したものを持っている異形。

「手助けしたら、ほら、少しは甘くなって見逃したり……は、なさそうだよねぇ」

 打算じゃない。感化されたわけでもない。もっと分かりやすい理由を、私の中に見つけろ。それでやっと私は歩き出せる。

「うん。顔が、好み。私メンクイだから」

 それでいい。私の好み。私の基準。烏羽原亜桜を動かすのはいつだって、烏羽原亜桜だけなんだから。

 歩く。もどかしい。速度を上げる。
 小走り。遠すぎる。もう少し頑張ってみる。
 走る。全力で。ペラペラの上履き、踵が痛いって悲鳴を上げる。
 細い紐の鞄が右へ左へ揺れてうっとい。お弁当を食べた後で良かった。ぐちゃぐちゃになって、見栄え最悪になっていた。
 降り注いだペンキは殆どがなくなっていた。つまるところ、全部が全部、センセに向かって殺到しているということ。
 講堂を両手で持って思いっっっっっ切り引き延ばしたようなだだっ広い廊下を走り抜ける。壁にはスーパーの特売チラシと、校内新聞が並んでいたりする。

「うっわ」

 銃声……だけではない。時折聞こえてくるのは空気を震わせる爆発音。この世界は静かだからこそ、唯一の音源が嫌ほど目立つ。

「……助ける必要あるかなぁ」

 目前にマネキンで出来た人垣は、まるで、テーマパークの開演前のように講堂廊下に押し寄せている。
 深呼吸一つ。ほんの少し、火薬の匂いが混じる。制汗剤の匂いも、弁当の匂いも。学校に居れば嫌でも触れるソレらは何もない。
 迂回できるような分かれ道はパッと目に付かないし……無茶苦茶な構造になっている校内を移動できる自信も無い。と、なれば残された手段はただ一つ。正面突破。

「よっしゃい……!!」

 意を決して、踏み出す。

「うわっ、ごめんってばっ!!」

 割って入るように進むと鬱陶しそうに振るわれた腕が、頭の上をぶん、と通り過ぎる。その腕が、別のマネキンへとぶつかる。同士討ちで崩れた隙間に身体を捻じ込む。咄嗟に謝る自分の小心さに呆れ一つ。どうせ何言ったって聞こえないんだったら気を遣う必要なんてない。

「通してって、言ってんのっ!! 邪魔!!」

 邪魔なのはお互い様。すり抜けようとする私が鬱陶しいに違いない。払いのけようとしてくるけれど、それ以上の攻撃は無い。センセと違って、貧弱だから敵と認識されていないのか。

「うっといんだってっ」

 すり抜け、くぐり抜ける。多すぎるマネキンはそのまま、私の盾にもなってくれていた。なんとか、前方集団にまで紛れ込んで足が止まる。

 おどろおどろしい赤色の境界、金糸雀色が美しく暴れ狂う。

 左手には銃を。右手にはナイフを。
 一度の銃声、数体が弾け飛ぶ。
 それでも尚、押し寄せる赤。銀閃が数条奔り……四散する。

 何体かが銃を構えた瞬間、センセは近くに居たマネキンを引っ掴んで蹴り飛ばす。最前列がドミノ倒し。少し後ろに居た私の近くまで揺れが波及。

「うわわっ……!?」

 更には別のマネキンを盾にしながら数度の炸裂音。的確に銃を持ったマネキンを撃ち抜く。赤いペンキ弾はセンセにはかすりもしない。
 視界の端、身体中に何かを大量に巻き付けていた赤いマネキンがセンセに向かって走り出し……

「ひゃっ!?」

 衝撃。尻餅。視界がホワイトアウト。慌てて立ち上がる。状況に追いつけない。

「センセ!?」

 居ない。もう、何が何だか!! 私に理解できるのは、爆発、と思われる衝撃……爆発?
 直前に見えたマネキンからの、簡単な連想ゲーム。

「じ、自爆……」

 再び響いた銃声からセンセの姿を見つけるけれど……無事ではなさそう。
 それでも、センセは強かった。噂が誇張でないと理解できるほどに。けれど多勢に無勢。数に押されて徐々に精彩さが薄れる。
 何より、厄介なのが爆発マネキン。どれだけ他のマネキンを盾にしても……衝撃そのものはどうにも出来ない。再び衝撃。吹き飛ばされて床に転がるセンセ。

「あぁ、もうっ」

 痛々しい。ヒールは片方が脱げていたし、吹き飛ばされて擦れたストッキングが破れ、少なくはない範囲が赤が滲んでいた。ペンキ以外の生きた赤が。
 もどかしい。いつでも走り出せる距離。けれど、走った先が、ない。

 悩むだけ悩んで動き出せない中、多数の自爆マネキンが同時に走り出すのが見えて

「ヤッ……バ」

 咄嗟、伏せる。身体が地面に着くより先に、轟音。衝撃に転げ、耳が痛い。平衡感覚がグチャグチャにかき乱される。なんとか落ち着くまで待ってから、ふらふら、立ち上がると、均衡は崩壊。

「……終わり、じゃない、よね」

 とんでもない爆発は、近くにいたマネキンを軒並み巻き込んで全滅。でも、これで打ち止めとは考えられない。すぐに第二波、第三波が来る。
 走り出す。地面に転がり気を失う金糸雀色がくすむのに耐えられなくて。

「センセ!!」

 反応はない。打ち所が悪いのか意識もない。顔色も良くない。すぐ近くにある教室扉が目に入る。

「怒んないでよね」

 ボロボロのカーディガンに血が滲んでいる。自分より背の高いセンセを運ぶにはなりふり構ってられない。後ろから脇の下を通すように両手を通し、胸の前で手を組み合わせて引き摺るように運ぶ。

「かるっ!!」

 センセは、想像よりも軽かった。女性としては高身長で筋肉もついてるはずなのに……ちゃんと食べているのか不安になる。
 一先ず、飛び込んだ教室。その黒板近く、リノリウムの固い床にセンセを横に。

「とにかく、時間を稼がないと」

 理路整然と並べられた机と椅子が、私達のことを他人事に見ているようでなんだか腹立つ。
 教室扉を閉めて鍵を閉める。けれど足りない。鍵如きでアイツらは止まってくれない。扉近くにあった椅子やら机やらを乱雑に掴んで、扉につっかえるように積み上げていく。ただひたすら邪魔になるように。
 前扉の次は、後扉。後方の机やら椅子やらを積み上げて同じように障害物の山、バリケードを作り上げる。
 一通り、乱雑に積み上げ終えて息を吐く。重労働は、得意じゃ無い。ネイルが剥がれたりした日には最悪。

「……意味ないかもしんないけどさ」

 バリケードに意味は無くても、何かをしたという事実が精神安定剤。一仕事を終えると、亜桜意外の色がゆらり、揺れていた。透き通る鮮やかな金糸雀色。

 さっきまで一騎当千していたのを思い出すと、腰が引ける。でも、フラフラで倒れそうな今、猫の手だって借りたいはず。
 握れ、主導権を。誰が挙動不審で自信の無いヤツに頼る。
 虚勢でもハリボテでも良い。対等であるために。
 地毛じゃなくたって私だって、綺麗で自慢の色なんだから。

「センセ、助けてあげよっか」

 覚束ない足が、止まった。

「おま、え」

 手に握られている銃。反対の手には銃弾。
 カチリ。時間が止まったかのように。見つめ合う。

 理解不能、敵か味方か。撃っていいのか、ダメなのか。あらゆる思考が高速で駆け巡っているのか。ただでさえ気を失っていて悪かった顔色が悪化。青くなっていく。自分よりも余裕のない人がいると不思議なもので、何故か余裕が出てくる。

「ピンチなんでしょ。助けてあげる」

 教卓を挟んで向かい合う。教卓に両肘をついて、センセを見上げる。
 やっぱり、助けて正解。脂汗が滲んで、青くなっても、メイクが滲んでいても……それでも、人生で見てきた誰よりも好みの顔立ち。ずっと眺めていられる。目が逢うだけで嬉しい美人さん。

「お前は、あの、烏羽原か? なんで、ここに」
「さてどうしてでしょう? 私以外の烏羽原って知ってるの? 結構珍しい名字なんだけど」
「ふざけ……てはいないのか。いや、こいつなら或いは……」

 なんにでも即断即決即罰の普段からは想像つかない歯切れの悪い姿。ぶつぶつと呟き何かを逡巡しながら、弾丸を黙々と装填するのは止めてほしい。怖い。表には余裕の笑み、背筋には冷や汗ダラダラ。
 私よりも事情に精通しているであろうセンセ。その事情通をして想定外の困惑。

「助け、いるの? いらないの?」

 質問攻めにしたいのは私だって同じだけれど、時間的余裕は皆無。

「いらん」

 即答。センセらしい。
 今の今まで気を失っていたのに、弱々しさの欠片もない。もう少し弱みを見せてくれたってバチは当たらないだろうに。ただ、私だって『はいそうですか』と引き下がってられない。

「ボッロボロにやられてたじゃん。まだまだ来るよ、あのマネキン軍団」
「やられてない。まだ戦える」
「センセ、バカぁ? 自分の姿見てみたら分かるでしょ?」

 助けを受け容れようとしないセンセに対する呆れと苛立ち。意固地になっている場合じゃないのに。

「教師はな、生徒を危険な目から遠ざける責任がある」

 ボロボロになってるのに、規則だとか責任だとかを並べる。センセらしいと言えば、らしいけど。

「残念でした。烏羽原亜桜ちゃんはね、規則だとかを平気で無視する社会不適合者なんですよ。それとも何? 退学して生徒じゃなくなればいいのならすぐにでもそうするけど」
「……違う。そうじゃない。私がそうすべきだと判断したからだ。誰に何を言われようと変わらん」
「私もそう。私が先生を助けたいから助ける」

 自分の価値観に従う。自分を疑わない。強情っぱりの、分からず屋。
 髪やネイルと同じ。私がしたいからする。流行っているからは関係ない。私が良いと思っている限り終わらない。

「見返りに、学校で見逃してくれたらいいなとは思うけど……どーせ、聞いてくれなさそうだし」
「あぁ。不平等は私が許さん。我が身可愛さに動くくらいなら、野垂れ死んだ方がマシだ」

 ほらやっぱり。ゴリ岡が逃げ出すほどのガンコ鬼教師は聞く耳持たない。もしかしたら、今日撮った強請りも効かないかもしれない……けれど、構わない。
 
「それで、お前には何が出来るんだ?」

 ほんの少しだけ、顔色が良くなりはじめたセンセからの質問。
 鼓膜に届いて、そのまま頭の中へ。亜桜という引き出しの中から質問への答えを必死に引っ張り出して、なんとか絞りに絞る。渾身の力で絞りきり、ようやく零れだした一滴。

「…………料理とネイル?」
「は?」
「あっ、あと、穴場の喫茶店も知ってる。原付で色々見つけて……」
「ふざけてるのか?」

 廊下の先、響いてくるのは波のような群の足音。睨まれて背筋が伸びる。申し訳ないけれど、至って真剣。100パーセント本気のマジ。

「私が、戦えるわけないじゃん!! 変身できるなら、とっくにそうしてるって!!」

 開き直る。私が最後に殴る蹴るの喧嘩をしたのなんて保育園が最後。銃やナイフの武器なんて握ったことは当然ナシ。

「お前……」

 睨んでいた目元が弛み……怒りの代わりに哀れみが灯る。目が語っていた『何をしに来たんだコイツ』と。

「そんな目で見ないでほしいんだけど。考えなしなのは分かってるし、戦えないから見てることしか出来なかったし……えぇ、そうですよ。亜桜ちゃんは考えなしの役立たずですよ、はい」
「まてまて悪かったから、拗ねるな……いや、ちょっとまて」

 超能力や魔法に目覚めることもなく、小悪魔な鞄を背負っているだけで悪魔が力を貸したりもしてくれない。

「どうして無傷なんだ?」
「えっ」
「ブラシ……あぁ、呼び名は何でもいい。烏羽原が言うところのマネキンのことだ。バカみたいに大量に居たのは知っているんだろう?」
「そりゃ、まぁ。目の前で見てましたし」
「どうやって?」
「普通に」
「何をした?」
「何も」

 普段と同じ、一人、ふらふら、ちょろちょろ動いていただけ。

「まどろっこしいっ。つまりだ、烏羽原。お前はアイツらに襲われないってことでいいんだな?」
「あっ」

 言われて気付く。最初からそうだったから、気付かなかった。
 遠かった地響きがカタカタ、積み上げた机を揺らし始める。背筋が、本能が、さっさと逃げろと声を挙げる。

「う、うんっ。そう、それ!! それが言いたかったんだよね」
「目が泳いでるぞ」

 図星は無視。

「理由や原理は私も分かってるワケじゃないからね」
「構わん。事実だけを端的に並べろ」

 私の能力……というか特性を頭の中で整理。いや、整理するほど大したものでもない。要約すると立った一行。

「単純に、マネキン達に無視されるってだけ」
「ヤツらに認識されてない……ということか?」
「うーん、っていうより、相手にされてないってカンジ。ちょっかい出すと普通に殴られかけたし」
「お前な……危ない真似をするなバカが」

 戦力にはなれないが、この特性を活かせば何かの足しにはなるだろう。

「相手にされない、か」

 どう足しにするかは、墨波金糸雀大センセー頼みだけれど。

「ね? 力になれそうでしょ」

 自信満々に笑う。半分以上が虚勢。向かい側からも同じ笑みが返ってきた。強がりばかりの。

「あぁ。多少は、な。精々、足を引っ張るなよ」

 ようやく、助けを受け容れてくれたセンセ。でも、物足りない。やる気は十二分……高揚感が腹八分。

「もっと小洒落た言い回ししてほしいな。折角美人さんなんだから」
「小洒落たって……それに、顔は関係ないだろ」
「あと、名字で呼ぶの長いから名前で呼んでよ。私、自分の名前好きなんだよね」

 眉を顰めるのを見て、いける、と確信。一つだけ分かったことがある。

「生徒を名前で呼んじゃダメ……なんて縛りはないと思うんだけど」
「それは、そうだが」
「ほら、短い方が咄嗟に呼びやすいでしょ?」

 センセは本気で断るときは即断即答。間が空いたと言うことは、勝算があると言うこと。

「…………亜桜」

 呼ばれ、ぞくぞくと背筋に走る爽快な優越感。きっと、学校の誰に対しても名前を呼んだことはないだろう。

「これで満足か?」

 固く、冷たい、墨波金糸雀という人間に、亜桜色が一滴、割って入ったみたいで堪らない。

「まだまだ足りないなぁ。ほら、いい感じの台詞も。モチベーションを上げると私が頑張れるって思ってさ?」

 大きな……おーきなため息。

「……亜桜、校外学習の時間だ」
「うーん、65点」

 内訳。台詞のセンスが5点。顔立ちの素晴らしさ40点。残り20点は、センセに対して逆に採点をするという爽快感。おまけの加点。
 顰めた眉に、眉間の皺が加わっていた。

「抜き打ちテストで、苦手なところだけ出してやってもいいんだぞ」
「やさしー。それ、私だけ対策できるってことよね」
「……クソガキが」

 これが正解だったのかは分からない。けれど、後悔なんて何もない。少なくとも、私自身に嘘は吐いていない。

「一個だけ答えろ。亜桜、お前はどうして私を助ける」

 右肩上がりしていたテンショングラフがピタリ停止。嘘は吐きたくない。かといって答えたくもない。

「言わなきゃ、ダメ?」
「理由が分からん相手を信頼できん」
「伝えたら信頼なくなりそうなバカみたいな理由でも?」
「バカみたいな理由……生徒指導を見逃してもらえそうだったから、とかか?」

 首を横に振るう。あわよくば……とは思ったけれど、根っこはそこじゃない。

「顔が、好きだったから。美人っていいじゃん」
「顔? 私の……?」
「うん、顔。センセの」
「顔、かぁ……」

 私は、私の価値観に従って動けている。呆れられても、理解されなくても。私は、私だ。

「お前、バカだろ」

 自覚はしてる。それも私だって。



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