【限定色オーバーライト】 第6話

 気付けば、亜桜の住んでいるアパート近くのコンビニに到着。数時間の帰路もあっという間。全ッ然、時間が足りない。
 名残惜しくて、車から降りず。センセにお喋りし続ける。
 ふぅ、と一息。喋りすぎて喉が渇いたなんて思ったときのこと。
 ぶるり。膝の上に置いていたスマートフォンが揺れる。
 特に意識したわけではなかった。丁度会話の隙間だったから、何気なく、液晶を見た。ただそれだけ。

『速報。○○高校で男子生徒が屋上から転落』

「えっ」

 思考が固まる。私の通っている高校だったから……だけじゃない。
 最近ずっと、私とセンセの二人で対処していた……ミーム伝染の元となっているウワサと紐付いたから。
 どうすれば、広まる噂を……くだらない陰謀論をひっくり返せるのか。考えつかない。ただ、この最悪の偶然はきっともう広がっているのだけは間違いない。

 サングラスを外したセンセに画面を見せると……一瞬固まった後、眉間に皺。

「センセ、これ、ヤバいんじゃ」
「……あぁ、最悪だな」

 目を合わせようと顔を横に向け

「んぁ!?」
「ぐッ」

 られなかった。押し潰される。
 大瀑布が落ちてくる。
 どうしようもない。じっと堪えるだけ。分かっていても、怖い。世界が書き換わろうとしている。
 終わらない。終わらない。終わらない。ただ、耐えるのがしんどくて、一秒、二秒、三秒、四秒。数字を数え始めていた。それが百を越えた時、ようやく気付く。全身を叩く飛沫以外の痛みに。
 右手がギュウと潰されてしまいそうなほど、骨が、軋む。痛いけれど、暖かい。曖昧な世界で、たった一人の揺らがない人。
 強く握り返す。流されてしまわないように。潰されてしまわないように。
 視界は見えない。動くことも出来ない。
 始めてペンキに押し潰された時よりも更に強く重く、激しい。呼吸一つするのすらろくに出来ない。けれど、ただ一つ。右手の痛みだけが、私が一人ではないことを教えてくれる。
 教えてくれているんだ。

 ふっ、と。止む。嘘みたいに。

「ひゅ、か、はッ」

 吸い過ぎて、咽せて。咽せては、吸い過ぎる。

「あっ、かふ、くッ」

 今、どっち? 吸ってるの? 吐いてるの?
 分からない? 吐けばいいの? 吸えばいいの?

「亜桜!! 息を止めろ!!」

 よく通る声が、鼓膜を走り抜けた。
 ぴしゃり、両頬を叩かれる痛み……さっきまでの痛みに比べれば生やさしい。

「私の目を見ろ亜桜」

 エメラルドのような翠の瞳に真っ直ぐ、射貫かれる。

「何も考えずに、私の真似をしろ……ふぅぅぅぅ……」

 生温かな吐息がかかる中、言われるがまま、真似をする。

「すぅぅぅ」

 回ってきた久しぶりの酸素を、脳が、身体が我先にと取り込んでいき……纏まらなかった思考が、追いついてくる。

「落ち着いたか?」
「な、なんとか……」

 巨大な滝に押し潰されている中で必死に呼吸をしていたから……突然、その圧力が消えてしまった時に吸い過ぎて……今みたいになってしまったのか。
 車から降りたセンセの後を追って、私も降りると……

「世界の終わり、みたい」
「縁起でも無いこと言うな。世界は終わらないさ……変わりはするがな」

 街中、そこかしこから学校が生えている。そして、そこから一定間隔で飛び降り続ける真っ赤なペンキマネキン。リピート再生のように淡々と、列をなして飛び降り続けている。
 これまでのミーム伝染で一番規模が大きくて……ダントツでワーストに趣味が悪い。

「亜桜」

 変わり果てた街。変わらないのは後ろから声をかけてくれる金糸雀色だけ。片手にはいつもの拳銃。反対の手には無骨なナイフ。カーディガンに隠れた腰にはパンパンに弾丸が詰め込まれているだろうウエストポーチ。

「お前はどこかに隠れていろ」

 私はセンセと違ってギリギリ異物と見なされていない。だから襲われることもないから隠れていれば安全は保証される。裏を返せば異物と判断されているセンセは、どこに隠れても無駄。追いかけられ襲われる。この街中を埋め尽くすであろう異形の群れに。

「ここまで来て? 私が言うとおりにすると思う?」

 傍観者として逃げ隠れる。そんな選択を取る段階はとうに過ぎている。
 私はとっくに、当事者。センセだって分かっているだろうに。

「……なら、これまで通りサポートを頼む」
「りょーかい。長い戦いになりそうだね」

 センセはくるくると両手の武器の具合を確かめ、ジャグリングのように交互に持ち替えながら、背筋を伸ばす。

「丁度良い。解散するには惜しいと思っていたんだ」

 凜とした声は、耳に馴染む心地いい声。今日イチ嬉しい台詞が、ベストなタイミングで飛んでくる。

「九十点」
「いい点数だが……残りは?」
「伸びしろ」
「……お前、教師向いてないよ」

 さっ、終わりの見えない、一歩間違えば取り返しの付かない、マンツーマンのはじまりはじまり。

 センセと二人、変わり果てた街中を走る。そこら辺に生えた学校だとか、チグハグになった街。車で移動できないから苦渋の判断。
 目的地はたった一つ。爆発的なミーム伝染の切っ掛けとなった学校……事故が起きたであろう校舎。
 私が先行して状況を把握。センセが対処している間に、活用できそうな建物を探して進路を決める。状況はいつもと違うけれど、やることは同じ。

 一度、重い銃声が響く。
 九体、マネキンが同時に弾ける。
 空気を裂く黒刃が、残っている数体を的確になます切り。

 一騎当千、万夫不当。
 それこそ、私のセンセ。生徒指導の鬼看守。墨波金糸雀。
 けれど、無限に動けるわけじゃない。本人曰く、人間らしいのだから

「センセ!! こっち!! 自転車屋!!」

 だからこそ休息と補給のために私が居る。センセは近くに居たマネキンを屠りはしたが……焼け石に水。河川に小石を一つ投げ込んだ程度のもの。その小石で出来た僅かな隙間を抜け、弾丸と刃の暴風雨となりながら……亜桜がバリケードを構築した自転車屋に向かって駆けてきて……スライディング。
 私の横を通り抜けた瞬間。

「せいッ!!」

 力一杯シャッターを振り下ろす。
 ガシャンガシャンガシャン、間隙なくシャッターが揺れて歪んでいく。センセに休憩させてあげたいけど……余裕が無い。バックヤードへ侵入し、そのまま裏口を抜ける。

「一応、バリケード作ってるけど……あの多さだとあってないようなもの、このまま走って!!」
「了解っ」
「……商店街なら、私の庭!!」

 絶望的だから、大口叩く。奮い立たせて、理性なんて余計な物は麻痺させる。
 マネキンに先回りなんて知性はない。水が低きに流れるように、センセがどこ居たって流れてくる。それが分かっているから、コソコソなんてしない。ただひたすら、目的地である学校にひた走る。

「んなぁ!! こっちにも来てる!!」

 裏口から出て真っ直ぐ。北ある学校に向かって走る予定だったのに、既にマネキンが大挙。国民的アイドルの追っかけだってここまで多くない。

「チィッ!!」

 火を噴くリボルバー。チカっと、マネキン集団に埋もれていたガスボンベが瞬き……地面が揺れるほどの衝撃。空気が焼かれ、波となる。

「わっ、ぐぇ!!」

 思わず転びそうになったところ、鞄を引っ張られてなんとか踏みとどまる。近くで爆発したのに無事なのは、大量のマネキンが壁になって、衝撃の殆どを緩和していた。

「亜桜、次はどっちだ!!」

 北にただ真っ直ぐ突っ込むのはリスキー。いずれ数に呑み込まれる。
 何か良い案がないか考える時間すら惜しい。正解か不正解か検算なんかしてられない。
 思いつきでも、実行するしか道は無い。

「……こっち!!」

 方向転換。
 商店街の店伝いに進むために。店をボトルネックにして、迫ってくる数と勢いを絞り込む。それが考えつく精一杯。一歩間違えれば袋の鼠。

「もー!! どんだけいんの!!」
「諦めて隠れててもいいぞ……!!」

 センセはマネキンの障害になるように、自転車だとか鉢植えだとかを薙ぎ倒しながら走り、更には後方へ的確な銃撃でガスボンベを爆破したり、配管を打ち落としたり。それでも私の全力疾走に平然と並んでいるのだから、身体能力が違いすぎる。ほんとに人間?

「隠れませーん!! それはそれとしてちゃんと文句も言うのが私なのっ」

 嫌なことはすぐに吐き出し、溜め込まない。それが私。
 マネキンに直接狙われなくたって、こうまでセンセと一緒に居たら普通に巻きこまれてオダブツ。自分で戦うことを選んだ。その蛮勇が齎してくれる高揚感は衰えていない。いや、高揚感なんてカッコイイもんじゃない。きっと、恐怖心を麻痺させる脳内物質がドバドバ出ているだけ。

「センセ!! 根比べになるけど、私より先に泣きべそかかないでよねっ」
「いい減らず口だ、反省文で許してやる……!!」

 マネキン達に知性は無い。ただ、ゆっくりと人々に染み込むだけの現象。そして、染み込まない外部から来た異物を排除する白血球みたいなもの。

「向かってくる方向を誘導できそうな店に入ってバリケードを作る。そしたら、センセが削るッ」
「いつも通りってことだな」
「プラスっ、さっきみたいにガスボンベがありそうなとこに誘導して吹き飛ばす!! 運べそうなヤツはバリケードの中に設置して罠にするっ」

 立地を最大限に活かす……といえば聞こえはいいが実際は、付け焼き刃の思いつき。
 目的はマネキン達の母数を減らすこと。そのために、狭い建物を使い潰して削っていく……場合によっては爆破して次の店に。
 但し、数を減らすことの優先度はそこまで高くない。一番優先するのはルート取り。誤った途端に囲まれて一巻の終わりということ。
 水は低きに流れるように、ペンキはセンセに向かって流れていく。一方向から流れてくるように誘導できる店を選ばないとたちまち袋の鼠。
 ルート取りこそ全ての要。

「それを商店街を使い潰すまで繰り返せば、数は減らせる……はず。少なくとも、学校には近づけるっ」
「それで構わん」

 提案した私自身が、勝算の見えない作戦に自信ゼロ。だというのにセンセは即答。それが私の自信になる。心の準備という贅沢品は与えられず、即、作戦開始。
 障害物を先行して即席で築き上げ、センセへ伝達。経路及び次の店を見繕いながら、爆発物や可燃物などの火力となるべきものを押さえておく。
 ここが通い慣れている商店街というのが幸いした。商店街の構造はチグハグになっていても、元が分かるから混乱しない。店内の作りも分かれば、逃げ道も分かる。
 私の思っている以上に作戦は上手くいっており、今のところ四方八方から囲まれて逃げられない……という詰みパターンは避けることが出来ている。
 出来ている、のだけれど……

「これ、ほんとに数減ってるぅ!?」

 銃声を聞きながら、慌ただしく障害物やら簡易的な罠を作り上げる。センセはいつも以上に獅子奮迅、嵐のような戦いっぷりは弱まるところを知らない。だというのに、押し寄せる波もまた弱くならない。

「……終わりが見えないってきっついなぁ」

 銃とナイフでは到底間に合わない。時々、ガスタンクを活用して爆発でしっちゃかめっちゃかにしてギリギリ捌けている。もっと、都合良く爆発物があればいいのに……爆発が危険なのは分かっているけれど、それしか道が無い。
 侵入路であろう正面のシャッター、センセが滑り込めるようにその一部分だけを開けておく。
 センセが戦っている内に、諦めるなんて言語道断。私が根比べと言ったのだから、根っこが腐るまでは意地を張らないと。
 それなり大規模な商店街……それを丸々一つ使い潰すほどに何度も何度も何度も何度も繰り返して、波が一時的に収まった。

「センセ、怪我は……」
「動きに支障がでるようなものはない」

 商店街の北側入り口近くの肉屋に籠もり、途中かっぱらってきた水とコロッケを、手早く流し込むようにして食べながら、状況を確認する。
 その間も、散発的に襲われるのを的確に撃ち抜いてみせるセンセ。疲労と傷を全身に浴びても精度に影響は無い。

「数で来られていると一発逆転が見えないのが厳しいな」

 複雑な構造になればなるほどマネキン一体当たりに使われるペンキの量が増える。逆にシンプルであれば大量生産も出来るみたい。私的にはどちらも勘弁願いたいが……単純な数で圧殺されるのは、終わりが見えなくて心が折れそうになる。ニュースで見る同人即売会の待機列のような、どこまでいっても途切れることのない人海は、意志を持った大波のようで。

「ここまで来たら、学校まではすぐだな」
「センセ、サッサと行こ。商店街を使い潰して凌げたけど……次はどうにもなんないと思う」

 私の慣れ親しんだ場所だったからなんとか切り抜けられたが、馴染みの薄い住宅街で同じように立ち回れる自信は、ない。
 波が途切れている今、進まなければジリ貧。
 視線を合わせて小さく頷き……お肉屋さんのシャッター、僅かに開けておいた隙間から飛び出し、アーチ状の商店街北口へ真っ直ぐ走る。
 すぐに辿り着いた北アーチ……そこを真っ直ぐ進んだ先は大きな道路に繋がっている。その道路の真ん中に、ビルやコンビニを押し退けて校舎が生えている。迂回をするか、突破するか、どちらが早いか……悩むより先に、足が止まった。

 べちゃり。

 校舎から落ちてきたマネキンが、地面にぶつかってバラバラになって潰れる。腕や、足や、頭が、その辺に転がって、おまけに地面に大きな血溜まりのよな赤を広げている。テラテラ、浮いた脂が光を反射する。
 人間どころか、生き物ですらない。共通無意識が形を持っただけの現象。そこに命はないんだって分かっていても、人の形をした物が身投げをして飛び散っているのを見せつけられ、嫌悪が背筋をぞろぞろと這い上がってくる。

 べちゃり。

 きちんと栓を閉めなかった蛇口からこぼれる一滴のように。一定間隔に、落ちてくる真っ赤なヒトガタ。

 べちゃり。

 近づけば近づくほど、倫理的嫌悪感が心に住み着く。

 べちゃり。

 千切れた四肢が折り重なり山となる。

 べちゃり。
 べちゃり。
 べちゃり。

 落ちてくるペースがドンドンと速くなって、ふっ、と足が止まる。

「センセ、これおかしくない?」

 後ろを着いてきていたセンセが、訝しげな目。口を一文字に結び、私を横目で見る。
 形を持ったペンキ。色々な形になるし厄介だけれど、どこかにダメージさえ与えれば弾けてペンキごと揮発。水風船みたいなもの。
 口を開きかけたと同時、舌が凍り、全身の筋肉が強ばる。

「……そういうことか」

 センセの顔が青くなっていて、脂汗が滲む。視線の先は同じ、マネキン達の四肢の山。

 バラバラの手足胴体頭。毒々しい赤が、血肉を連想させるそれらが、蛆の群れのように、うぞうぞと蠢いて近くの四肢と適当に結合して膨れ上がっていく。
 まるで、生きた肉塊。

「クソッ」

 銃声が、一つ。即座に、手首をスウィングすると同時、弾倉から六つの薬莢が吐き出される。
 同時、巨体に着弾。複数箇所が同時に弾け飛び、ペンキが揮発。

「効いてはいるけど……」

 効果はほぼない。きちんと当たっている。でも、その銃弾は精々が、表面の腕や足を少し削っただけ。百や二百は優に超えている肉塊……いや、液塊にとっては痛くも痒くもない。
 ここに来て、得体の知れないバケモノ。生理的嫌悪の権化に全身の血が冷えて、思考が、遅れる。

「亜桜!! 離れろ!!」

 反射だった。その場から飛び退けたのは。

「あっっっっぶ、なぁ!!」
「ボーッとするな!!」

 センセの声に思考も挟まず身体が動いた。トラックのような巨体が、先ほどまで私たちがいた道路の中央を通り過ぎている。思考が追いついて、背中から気持ちの悪い汗がどぱり。噴き出る。
 遅れていたら、挽き潰されていた。
 ドクドクドク。耳元で心臓が鳴っているんじゃないかってくらい、五月蠅い。

「き、キモ……!!」

 センセと道路を挟んで分かれた。丁度、液塊が真ん中を突っ切った形。
 生き物としても無機物としても成立していない、子供が無茶苦茶にパズルしたような見た目。だというのに理不尽な早さ。大量の手足でその巨体を引き摺り、押し潰しに来ていた。文字通りの百足のバケモノ。停止した巨体が方向転換すること無く、センセに向かって走り出す。無造作に引っ付いたバケモノには当然、頭部も全身余すことなく付属。全方位正面の異形は、ミーム伝染世界ですら理外のバケモノ。
 加えて普通のマネキン達は変わらず襲いかかってくる。私たちはマネキンを対処しながら逃げないといけないのに、液塊はマネキン達ごと挽き潰し、飲み込み、雪だるま式に大きくなりながら暴れ回る。
 理性が液塊の悍ましさにアラートを鳴らすことに必死。こんがらがっていた頭の中。

「亜桜!! いつも通りだ!!」
「……うん、任せて!!」

 動揺、パニック、困惑。それらを即座に抑えるのは、明確で分かりやすい指示。
 異形で異常、意味不明なバケモノだったけれど。法則性は、変わらない。狙われているのはセンセ。私は眼中にない。
 いつも通り。いつも通りに、やればいい。やらなくちゃ。
 頑丈そうな建物を見つけ、入り口を絞り、障害物を設置する。そして、センセが誘導して時間を稼ぐ。

 数分後には総毛立つ嫌悪と、ありったけの悪態を吐き出していた。

「なんなの!? なんなのアレ……!!」
「クソッ、気色の悪い!!」

 いつも通りでは、意味が無かった。堰き止めてもバリケードの隙間から、大量の手足や頭が雪崩れ込んでくる。コンクリートの建物だろうが関係ない。不定形の巨体は、形を変えて隙間という隙間から、押し寄せる。私が作るバリケードなんて、時間稼ぎにすらならずに押し流され……逆にこっちが潰されそうになる始末。
 銃弾は数百とある手足の数本を削るに過ぎず、ナイフによる接近戦などもってのほか。
 ガスタンクによる爆破は表面を削り、構成パーツを吹き飛ばし足止めは出来る。けれど、マネキン達を呑み込み巨体化していく。削る速度よりも、大きくなる速度の方が早い。
 ガソリンタンクを用意してなんとか炎上させても、燃えた部分だけを切り離す。
 後退しながら、思いつく限りの手を試して試して試して……脳裏にちらつく。
 決定打が、ない。

「亜桜!! もう一度、だ!!」

 たった一度でも捕まればゲームオーバーの中、指示が飛んでくる。私がパニックにならないように。
 けれど、ダメだ。それじゃ、ジリ貧。センセという異物を排除すれば、現象は終わる。そして、このままだと近いうちにそうなる。
 気付けば、最初に居たコンビニにまで押し返され、追い込まれている。

「今更、安全圏に逃げれるかっての」

 いつだって、私は危険のキの字もない場所に逃げられる。巻き込まれているだけの私が、どうしてここまで必死になっているのか。そんなの、わかりきっていた、
 私は、私の好きなものを見捨てない。誰になんと言われようとも。
 私は私を信じている。誰に言われてもこの髪は最高にキマっていて、ネイルは誰よりも可愛くって、鞄もカラコンもメイクも全部、私の好きな、私の価値。

『十二分に似合っているだろ』

 私とセンセは同じ社会不適合者。
 紀元前でも、千年先でも。周りの価値観に混ざれないセンセは、私を見て、そう思ってくれる。

「私は、私の好きな物と心中する」

 そういう生き物なんだから。

◆◇◆

 引き金を引く。
 咄嗟に逃げ込んだホームセンターは、銃声が反響して、耳に障る。

「あぁクソッ!!」

 握る回転式拳銃から放たれた音裂く弾頭の結果を確認する間もなく、その場から飛び退くと、手足をミンチでつなぎ合わせたような巨体が通り過ぎていく。幾つもの棚を暴力的に薙ぎ倒しながら。
 金槌やドライバーが散乱。その余波をまともに受けてしまったら、致命傷。
 絶え間なく動き続けた全身は余すことなく酸素不足の危険信号。だが、足を止めれば死ぬ。判断が遅れるだけで磨り潰され、暴れ回る巨大ミンチと見分けがつかなくなることだろう。呆気なく、プチりと。

「亜桜」

 息継ぎの間、呼気と一緒に零れた。一人の教え子。どこに居るのかは分からない。いっそ、逃げ隠れていてくれれば、私がミンチにされる直前、後悔せずに済む。
 だが、アイツは逃げない。逃げてくれない。
 どこかで健気に障害物を拵えている。意味のあるなしではなく、道理が通るかどうかでもない。
 亜桜は私と同じ、社会不適合者。空気が読めないバカ。

「チッ」

 死ぬつもりはないが、いつ死んでも問題ないと備わっていた覚悟……が薄まる。私が死んだら、亜桜がどうするのかというただ一点によって。復讐者としてではない、指導者というオマケの肩書きが、私の足を動かす最後の燃料になっていた。
 逃げ場のなくなってきたホームセンターから飛び出る。
 障害物のない屋外では、すぐに追いつかれる。近くにあった、雑貨屋か何かに飛び込むと案の定……バリケードが張られていた。

「強情だよ、ほんと」

 液塊からすれば、紙細工のような障害物。たった数秒稼ぐだけで精一杯のソレを、私の逃げやすい場所に今だって築いている。大して意味の無いことだって分かっていながら。
 そのたった数秒のお陰で、生きながらえている。息継ぎが出来ている。
 死に物狂いの速射。六の弾頭は三倍以上の数の手足を破裂させるが……それだけ。幾つかの手足を貫くと運動エネルギーを失い、止まる。中に詰まっているのが空気であれば、打ち倒せただろうがペンキという質量の前に銃弾はすぐに勢いを落とす。
 瞬きを二度……両腿に全霊を込めて、飛び退く。
 押し潰される陳列棚の壁。私に向かって伸びてくる大量の手足。カウンターに放たれた鉛玉は、外れることはない。大型トラックのような巨体相手に、外しようがない。
 数えるのも億劫になるほど繰り返した逃走劇の回数が、また一つカウントアップ。
 逃げる、撃つ、逃げる。手が伸びてくるから、切り裂く。
 早く、早く、距離を離せ。時間を稼げ。
 動け、止まるな、動き続けろ。

「ハァ……ハァ……」

 ヒュウヒュウと鳴る、喉が喧しい。思考が回らない。足が動かない。引き金を一度引くだけの力を捻出するのが精一杯。
 限界だった。僅かの希望。たった数秒でもいい。立ち止まって思いっきり深呼吸を。
 そして、案の定私が求めるタイミング、逃げ込みたい場所にバリケードを張ってくれていた。ひたすら早く積み上げたのだろう。入り口すら塞がれている片手落ちの出来。
 飛び込もうとした足が止まり、勘違いをした身体が思い切り酸素を取り込んだ。猛追してきている赤に、気付いていながら。

「……落第だな」

 私だけが限界なんじゃない。適度の休憩を挟めと言えればよかったのだが……厳しくする以外の指導は、得意じゃない。

 押し潰される瞬間。考えたのは、バカな教え子。
 視界に迫ってくる深紅。それから

 爆走する白の軽トラ。

「一発免停マンだぁぁぁああああーーーーッ!!」

 エンジン音を凌駕する、意味不明な咆哮。
 巨大染色塊の横合いに衝突する純粋質量。盛大にぶつかり、進行方向がズレる。
 思考が真っ白。もうとっくに動けるだけの酸素は取り戻したはずなのに。
 ぶつかる直前、運転席から飛び出た一つの影が、ゴロゴロゴロゴロ。猛速軽トラから飛び出した慣性は、全く止まる気配はない。
 その勢いのまま、近くの電柱に衝突……したのだが。

「ヨイショォい!!」

 何事もないように、勢いよく立ち上がった。

「センセぇ!!」

 全身あちこち、至る所に擦過傷を作って痛々しいというのに……その表情は晴れやかで
 狙われるというのにどうして手を出した。車で突っ込むなんて無茶苦茶するな。
 傷だらけで無理をするな。どこを打ったのかも分からないのだから動くな。
 あらゆる言葉が頭の中を駆け巡って出てきたのはたった一つ。

「最初から無免許だろうが!!」
「知ってる!! 撃って!!」

 傷だらけの教え子が指差す先は軽トラ……その荷台に積まれている、ガソリンタンク。
 伏せろ、と声をかけるよりも先、とっくに電柱の裏に這いつくばっていた。準備の良さに、何故だか笑いが込み上げる。
 悲壮感が少しも無い。きっと、脳味噌がバカになっている。バカの所為で。
 伏せながら引き金を引くと

 轟音。瞬間、空気が焼け付く。

 芯まで響く衝撃に次ぐ熱風、鼓膜が破れたのじゃないかと錯覚。軽トラだった物が飛散し、それらの殆どが液塊に叩きつけられる。痛くなる頭、混乱している三半規管に鞭を打つ。

「行ける……か?」

 最大級の爆発。さらには液塊を延焼……更に体積を減らす。
 拳銃を握り、弾を込め直す。
 大きく削れたといっても、それでも車ほどのサイズ……それらの構成物を全て撃ち抜けるかは、半分賭け。
 いや賭けが成立している時点で、先ほどとは比べ物にならない最高のシチュエーション。

「センセ、プレゼント!!」

 大バカの教え子が最高のチャンスをプレゼントしてくれた。だというのに、私の方に滑ってきたボックスタイプの鞄……ガンケース。これ以上無い贈り物。
 思わず、眉間に手を添えた。

「あぁ……クソ!! 本当にいい教え子を持ったな!!」

 愛車に積んでいるハズだった、もう一つの愛銃だった。
 削り飛ばされた染色塊はすぐに立て直して此方に向かってくるが……構わない。準備はすぐに終わる。
 ガンケースから取り出した散弾銃。装弾するのは十二ゲージ。
 膝立ちに構えて、深く息を吸って……止める。迫ってくる赤。いつ撃ったって当たる。それでも尚引きつける。赤々と燃える火も、焼けた空気も、痛みを訴える鼓膜の内も。それら全てが消え失せて、最後には狙うという思考すら消え失せる。
 時間の概念すら消失した極限の中。私という内面に一滴の雫が落ちる。

 引き金を絞る。結果は弾丸が放たれるよりも先に分かっていた。
 放射状に散る全ての鉛弾は命中する、と。

 大量の手足が破裂。大きく数を減らされた巨体がバランスを崩し、アスファルトを滑る。
 まだ呼吸は止めたまま。
 撃つ。撃つ。撃つ。
 そして、思い切り息を吐く。

 まだ、異形は手足を残しているが……集中の必要すら無い。

「ここまで手を焼かされたのは人生で二番目かもな」

 もはや、体積は通常のマネキンよりも小さく、段ボール箱ほどしかない。銃弾が勿体ない。近くに寄って、無造作にナイフを振るう。
 ここまでの乱暴狼藉が嘘のように、呆気なく破裂して、揮発。

 一息吐こうとするのを邪魔するようにエンジン音。軽トラよりも軽くて、そしてうるさい。
 目の前で止まった一台のスクーター。

 一番手を焼くのがやってきた。

「こっちはちゃんと免許持ってるから」

 ピンクインナーカラーが揺れて、座席の後ろ半分をバシバシと叩く。
 律儀にヘルメットを被っているのが、彼女らしい。

「今度はお前の運転でドライブか」
「何、不安?」
「あぁ、今日一番にな」

 言いながら、後ろの席に座る。ヘルメットを脱ごうとした頭を抑える。

「私は頭がとんでもなく固いらしい」
「それはそう」

 ヘルメットを叩く。コン、と。小気味よい音。どこに余裕の在庫が残っていたのか。顔を見合わせて笑い合う。
 進み出したスクーター……亜桜がプリマと名付けたとかいう50CCが変わり果てた道を走り抜ける。
 不幸中の幸い、先ほどの液塊があらゆるマネキンを巻き込みんでいたお陰か、バイクに乗りながらでも対処できる程度のマネキンしか現れない。

「センセー!! 次は、テントに泊まってみたい!!」

 ハンドルを握る亜桜が風切り音に負けない大声。人影はあっても、人気の無い街に響く。
 数少ない趣味らしい趣味を気に入ってくれたのならば嬉しい。亜桜の好きは、何者にも左右されない純然たる好意、なのだから。気遣いなんて存在しない。
 あちこちに爆破跡、液塊が暴れ回った爪痕が残っている街中はお世辞にも走りやすいとは言えないのにスイスイと走り抜けていく。二人乗りで重心が取り難いだろうに。軽トラといい、運転センスを感じる。

「食べたいもの、考えておけよ……!!」

 あちこちに生えている校舎を避けながら、学校に向かう。そこにいるであろう原色持ちに対して漂白上書き剤を打ち込めば、少なくともこの局面は乗り切れる。

 時間も分からないミーム伝染の中、延々と押し寄せてくる波を捌き続け、雪だるまのように巨大化し続けるバケモノも打倒した。
 どうしようもないほど疲弊しているけれど、立ち尽くすしかなかった壁も亜桜という爆薬が吹き飛ばしてくれた。目と鼻の先にあった死を乗り越えたことで、脳内麻薬が出ているのか高揚感が湧いてくる。
 そうして、街中に乱立した校舎の中を原付で突っ切ったりしてようやく辿り着いた学校。
 その校門にバイクから降りて二人、立ち尽くす。

「パーティの準備をしてるなら先に言ってほしいんだがな」
「四十点」

 二人とも声が引きつっていた。全身から脱力。
 冗談を言ったつもりはない。ただ、リノリウムのグラウンドを挟んだ向こうにある現実が冗談のようだったから、つい零れた本音。諦めて泣き喚く精神構造はしていない。精神の防衛機構は壊れていて……たとえ、不可能だと分かっていても逃避が選択肢に上がらない。
 冗長性も可用性も存在しない心は折れない。一度戦うと手に取った銃が離れない。

「亜桜、話を聞く気はあるか?」

 敵わないと分かっていて挑むような異常者に、付き合わせるワケにはいかない。だが、逃げろと伝えて従ってくれる性分なら、この小娘はとっくにこの場にいない。

「一緒に逃げよう、なら考えてあげる。駆け落ちっぽくてポイント高いし」

 墨波金糸雀という私怨で動く人間と違い、烏羽原亜桜は戦うことへの固執はない。亜桜が拘っているのは私ひとり。

「一緒に逃げたら意味が無いんだよ、大バカ者」
「一人で逃げるなんて異議しか無いけど? 頑固者」

 この現象にとってのウイルスは金糸雀。亜桜が言うところのマネキンに排除されない限り、ミーム伝染は終わらない。倒すどころか、一矢報いることすら、もう選択肢には上がらない。

 二人、立ち尽くした視線の先。
 本校舎そのものに巻き付いた蛇。あるいは長大な腸のバケモノ。這いずり回って、締め付けられ校舎の窓が割れ、硝子片がキラキラ、あちこち落ちる。大蛇の構成物は手足に頭。神々しさや、雄々しさは全くなく、悍ましさの権化。
 理屈としては先ほど倒した液塊と同じ。ただ、比するのも烏滸がましいほど大きいだけ。

 常識外れの巨体からボトボト、戸建てほどの大きさのペンキ……一体、二体、三体……数えるのがバカらしくなる。その一滴一滴が先ほど死に物狂いで倒すことが出来た液塊よりも巨大。

 愛用の散弾銃に数えるほどしかない12ゲージを突っ込み、リボルバーの装弾数を確認。
  数で押し潰されるのも耐え、質で挽き潰されるのも乗り越えた。
 その結果がこれ。質と量、両方を揃えられて呆気なく磨り潰される。蜘蛛の糸のような勝算すら見あたらない。

「センセ、私だけに逃げろっていうのは聞き飽きたからナシ。それ以外の口説き文句を考えてよ」

 ゆっくりじっくり迫ってくる強大で血肉を寄せ集めたようなバケモノ。もはや敵だとすら認識されていない。そして、それは正しい。その現実が亜桜にだって見えているはずなのに、暢気な言葉。

「そんなに無駄死にしたいのか……?」
「無駄死にかどうかを決めるのは私。世界の危機を救うために命を捧げることよりも、なーんにも残せなくてもセンセと一緒に潰される方が私は好き」

 巻き込んでしまった苦み九割に、嬉しさ一割を抱く私の浅ましさ。最期の時には、誰もいない世界でひっそりと消えるのだろうと思っていたのに、孤独では無いことに安堵。自分の嫌いなところが今際の際に増えて溜め息。
 猟銃を構えていた肩から力が抜ける。亜桜の価値観の純粋さは嫌というほど知っている。少しの強がりも無く、一緒に虫ケラのように潰されることに価値を感じている。世界中の敵になっても変わらず好きで居てくれるような……一昔前のありきたりな邦楽を地で行く大バカ。

「センセ? はい」

 両手を広げる亜桜。何かを期待しているのか、ジッと見つめてくる。

「私、結構ベタなのも嫌いじゃ無いんだよね」

 こんな時にと言えばいいのか。こんな時だからと言うべきなのか。

「ほらほら、愛しい生徒の可愛いお願いくらい叶えてくれたっていいでしょ?」
「……自惚れすぎだ、バカ」
「センセがバカっていうの、私だけなの気付いてた? 好きな子にはそう言っちゃうんだよね」

 言葉に詰まる。指摘されて始めて気付いたから。
 これ以上、何を言っても墓穴を掘るだけ。嗚呼、クソ。生徒に言い負けるなんて情けない。
 優しくなんて、してやるものか。

「んきゃぅ」

 腕の中から、小さい悲鳴が聞こえてきた。年上を揶揄うからこうなる。力は緩めず、ぎちぎちと痛くなるほど身体を包んでやる。互いの間に、紙切れ一枚挟まる余地がないほど、布が触れ、肉が歪んで、体温が混ざる。
 背中をバシバシと叩く弱々しい力。一切歪まない性分を詰め込むには、頼りなさ過ぎる小柄さ。背をタップする手のひらはすぐに大人しくなって、きゅっと、弱々しくオフホワイトのカーディガンを握るだけ。
 勝った。確信して力を緩める。

「いつつ……センセ、情熱的過ぎない?」
「別に? ただの教育的指導だよ……大バカへのな」

 学校ではどこか斜に構えている亜桜も、溝さえ埋めてしまえば頬を膨らまして文句を垂れる。見た目よりずっと朴訥で可愛げがある。

「照れ隠し頂きましたー」

 前言撤回。可愛げよりもずっとクソ生意気が主成分だ。

「あとこれもね」
「は?」

 先ほどまで、私の背中をタップしていたはずの手に握られていたもの。本来、亜桜の手には握られるはずのないもので、私だけが持っていなければおかしいハズのもの。
 遅れて、理解。生意気さすら愛おしく感じ始めていた……絆されていた感情がたった一秒で木っ端微塵に吹き飛んだ。

「お……お前!! ほんっっっっっとに!!」

 簡単なミスディレクションに引っかかった自分自身への苛立ちが小匙一杯。手癖の悪い教え子への怒りが大鍋いっぱい。
 とんとんとん、私から距離を取る亜桜。すぐに取り返せるが……怒りが、足を鈍らせる。
 ひらひらと、プリーツスカートを揺らし、ピンク色を覗かせながら、その手に握っているのは円筒。注射器。

「センセと一緒に潰されるよりももっと楽しそうなこと思いついちゃった」

 亜桜は嘘を吐かない。殊更、自分の好き嫌いに関しては、誰よりも……この世界の何よりも誠実。裏切ったわけでは無いのは、嫌でも分かる。

「センセの危機を救った方がもっと気持ちいいって」

 こいつはこういうヤツだ。ロマンチックさも、感傷も、関係ない。
 自分自身が好きなものを貫き通すためなら、曲がらない。曲がれない、だから此処に居る。

「ほら、注射器してそうな見た目通りでしょ?」

 耐衝撃性のキャップを外し針が空気に触れている。世間一般で言うところの地雷系と呼ばれるセンスへの、自覚はあったらしい。

「……あぁ。お前らしくはないがな」
「うひひ、知ってる」

 注射針が細かく、震えている。本来打ち込むべきターゲットは此処には居ない。
 となれば、針が向く先は二つに一つ。

「貸せ」
「ヤ。センセ、自分に打つでしょ」

 言われて、笑う。亜桜の懸念は尤もだったが……見通しが甘い。減点。

「いや、もう試したさ。だが、見ての通り」

 何も変わらず。私に打ったところでどうにもならなかった。私自身に打ち込み、認識を暴走させて上書きしようとした。けれど、この現象にとって最初から異物である私に打ったところで、上書きなんて出来ない。
 可愛らしい顔立ちを台無しにする眉間に皺。不快そうな瞳。盛大な舌打ち。それから呆れを濃縮還元した溜め息。

「人にはやめろとか逃げろとか死ぬなとかいうクセにさぁ……」
「生徒を守るのがだな」
「あーはいはい分かった分かった」

 亜桜が不機嫌の山頂に腰掛けている。自棄っぱちに渡された注射器を受け取り、亜桜の手を取る。当然、そこには注射跡も、自傷跡も、一つとして無い。綺麗で白く細いままの烏羽原亜桜。

「ね、センセ」
「なんだ」
「もし、なんとかなったらさ。今度からは見逃してくれる?」

 鋭い針が、肌に沈む直前かけられた言葉に、思わず笑う。

 ぷつり。柔らかくハリのある皮を突き破り、亜桜の命が巡っている血管に侵入した針。一瞬だけ、瞼がピクリと揺れる。
 ひと呼吸。そして、注入。透明な薬剤が、亜桜に沈み混んでいく。

「するワケないだろう。お前がどうなろうと、なんとかしようと、知ったこっちゃない」

 瞳の中、桜が咲いた。

「うひ。やっぱ、うっといセンセだ」

 亜桜からこぼれる。象徴するようなピンク色。

「これ、もしかして……セリフとか……言えちゃう……?」

 亜桜の呟きは、小さすぎて聞こえなかった。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ。髪から滴る蛍光色。一滴落ちては揮発して、二滴落ちては蒸発して、三滴落ちる頃には視界いっぱいにピンクが翳る。

 何かを決意したように表情が引き締まり、背筋が伸びている。
 亜桜が深呼吸。渾身の溜めから、大きく一歩。

「花に嵐!!」

 彼女が思い切りよく手を挙げると、呼応するのは花信風。
 嵐の中心が纏うは散る散る廻る桜吹雪。

「芽吹きの波!!」

 両脚を揃えて高く飛び、地面に着くと広がる波紋。
広がり広がり生い茂る。青々とした緑の大地が、アスファルトさえ塗り替えて。

「青葉と桜が交差する、輝く希望の咲く季節!!」

 くるくる回る桜吹雪と、さざめき広がる青葉の大地。
 明るく優しい二色が、毒々しい紅を上書きしていく。

 塗って、染めて、広がって。

 拳銃に見立てて二本指を立てた手が、校舎に向かって突きつけてピタリと止まる。喜色満面、最高の笑顔。

「亜桜《わたし》色に染めちゃうよ!!」

 現実離れした光景は幾度となく見てきた。非常識なことに首を突っ込んだ回数なんて両手の指でも数え切れない。
 それでも、反応できなかった。
 亜桜が染色塊……ペンキを生み出してそれを操っていることへの驚き……ではない。

「薬で頭が……?」

 私の知っている亜桜からは絶対に連想できない決め台詞とポーズ。即興で考えたとはとても思えないクオリティ。
 呟くと、ピクリ、と口の端が震えて……耳に朱が差していた。

「うっさい!!」

 温かみと羞恥心の混ざり合った分かりやすい朱。

「こーゆーのがずーっと好きなの!! 昔も今も!!」

 ペンキを生み出しているのは兎も角、セリフやポーズの数々は素の亜桜がやっているらしい。

「……はー、これで変身できてたらカンペキだったのにさぁ」

 いじいじと、ピンク色に染まっている毛先を弄んでいる。色の理由がチラリと覗く。綺麗に染められていた。

「ま、そこまで贅沢言っても仕方ないか。兎に角、行ってくる!!」

 やりたいことはやりきった。憑き物が落ちたようにスッキリした表情で、走り出した背中。本人が言うところの、青葉と桜の交錯する亜桜色。なによりも真っ直ぐで清々しい。
 だが、その色は一回こっきりの限定色。

 他を染めることが出来るというのは、他に染められるということ。
 もう、絶対値の烏羽原亜桜はいない。

 異物……いや、この現象を上書きしようとする亜桜は明確な外敵。
 ゆっくり迫ってきていた巨大マネキンは、一気呵成、シンクロするように走り出した。亜桜を塗り潰すために。
 私なんかには目もくれずに。

「止まって!!」

 普段とは大違い、腹から出ている力強い声。青葉の大地がマネキンに絡みつき、勢いを削ぎ落とす。

「染まって!!」

 呼応するように吹雪いた桜が血のバケモノを押し留め、桜吹雪を浴びせる。
 一人の少女を押し潰そうと学校中から襲いかかった怪物は、瞬く間に全て消えて、きらきらと優しい亜桜色に上書き。
 止めどなくボコボコと生み出されるマネキンを、生み出す端からすぐに染め上げていく。亜桜色に。

「あとは、あなただけ。さっ、覚悟しなさい」

 見た目こそ、いつもと変わらない制服。それでも、変身したヒーローに見えるほどに、生き生きと輝いていた。
 先まで私を敵とすら見出していなかった手足が寄り集まって出来た大蛇が、その先端を亜桜に向けていた。これ以上、生み出しても無意味と悟ったかのようにジッと止まり、動きを見るように。

「センセ、約束通り、助けてあげるから」

 大蛇に向かって走り出す亜桜。速度は別に速くもない。あくまで、漂白上書き剤が亜桜に齎した影響は暴走ただ一つ。身体能力は変わらず平均以下のまま。
 それでも、大蛇は亜桜を最大の脅威と見なし、押し潰さんと鳴動。
 大蛇に比べると亜桜はまるで豆粒。
 動き出したら最後、瞬く間に亜桜に届く。

 世界が割れたとすら、錯覚する衝撃。地面に叩きつけられてから、赤と亜桜がぶつかっているという事実に脳が追いつく。視線の先、両手を前にかざした亜桜が、校舎すら霞む大蛇を受け止めている。
 桜と青葉の嵐が両手の中で圧縮され、意志を持った津波を片端から染め上げて、花弁へ還す。

「ぐ、うぅぅぅうう……!!」

 吹き荒れる亜桜色と赤色の鬩ぎ合い。余波で飛沫を上げるペンキに、姿が見えなくなる。
 あの小さな両手が。自分のことなど厭わずに、押しとどめている。
 
 走っていた。
 正気の沙汰ではない。理性が足を止めろと叫んでくる。ただの一人間が今更、何をしたところで、大河に砂粒を落とすが如き影響もないだろう。
 そんなの解りきっている。分かっていながら動くんだ。判断基準が絶対値のバカは別にアイツ一人ではない。

 裏付けなんてありはしない。ただ、なんてことはない根拠のない確信。亜桜色は私を傷つけない。
 嵐の中に、僅かの逡巡も見せずに飛び込む。

「あぁ、クソ!! 本当にいいオンナだよアイツは!!」

 欠片だって反省しない教え子は、言葉の一つも交わしていないのに、赤の奔流から守るように桜吹雪の膜で私を包んでくれている。
 前も後ろも見えない、ペンキの大渦を駆けて……駆け抜けて
 視界が、開けた。

 ぶつかり合うそこは極限まで圧縮された赤い巨手が、亜桜色を握りつぶそうとしていた。
 ネイルが割れ、鞄は千切れ、綺麗に染められていたピンク色に、赤ペンキが混じっている。制服の下、肌の、そこかしこにも赤が沈み込んでいる。

「亜桜!!」

 余裕の欠片もない亜桜が、笑った。なにをすれば、亜桜の力になれるのか。
 分かっているさ。いちいち言わなくても、お前の好き嫌いは変わらないから分かりやすい。

 気分を盛り上げてやればいいんだろう?
 
 相棒を構え、引き金に指を添える。装弾数は満タン。
 生徒に手を出す不届き者を、問答無用で吹き飛ばす。
 亜桜に赤は似合わない。

「ぶっ殺してやるぜベイビー」
「九十点」

 一発だって残さず、全てを打ち尽くす。こっちだって暇じゃ無い。
 残りの十点の内訳を聞かなきゃいけないのだから。

 世界が、染まる。毒々しい赤は、桜が舞い、青葉に満ちて、呑まれていく。

「センセ、どうする? 私を撃つ?」

 両手を広げる亜桜。先ほどの抱きしめられ待ちしていたときと同じように。

「お前こそ、私を排除しないのか?」

 赤という外敵を失い、後は上書きするだけ。亜桜から止めどなく零れる暖色ペンキが世界に染みて、広がっていく。

「センセはとっくに内側だから、できないよ」
「お前、そんなに私のことが好きなのか?」
「まぁね。顔とか……」

 肩を竦める亜桜。歯切れが悪い……いや、照れている、のか。

「私を好きなとことか」
「……気のせいだよ」

 どこまでも広がっていく亜桜色を止めるには簡単だ。

「私、どうなるのかな?」
「さあな。少なくとも、もうこんなことには巻き込まれないだろうさ」

 亜桜が互いに影響し合う社会に溶け込めるように……人と響き合う機能を獲得したということに他ならない。

「社会不適合者からの卒業ってことか」
「残念ながら、証書の持ち合わせは無いからな」

 苦笑いを交わす。頭も身体も限界でガス欠寸前なことだけは、変わらず同じ。

「止めないの?」
「なくなったからな」

 ひらひらと、残弾がなくなったリボルバーを見せる。ポーチに一発だけ残っているのには気付かないふり。
 放っておけば、世界は書き換わる。止められるのは私だけ。銃もナイフもいらない。亜桜一人を捻るのに、素手で十分。

「バカのすることだ。底なんてしれている」

 沸いてこなかった。亜桜が書き換える世界への抵抗感が。
 大多数の認識で書き換わる現象を止めるのが私の範疇。個人が意識的に書き換えるケースへの処置は、どこにも書いていないから、構わない。

「そっか」

 興味なさげに頷く亜桜。もう間もなく、世界は書き換えを終える。

「なぁ、亜桜」

 その前に一個だけ聞いておかなければならないことがある。

「ん?」
「なんで満点じゃなかったんだ?」

 私からの問いに目を丸くして固まった数秒後。
 楽しげに、生意気に。笑って、ほざく。

「好みじゃなかったから」




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第1話

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第4話

第5話

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