尼崎のスラムから東京藝大、そして詐欺師と疑わない母 / 「尼人」を読んで書き綴った3538文字のこと
美術家の松田修さんの半生を綴った「尼人」を一気読みしてしまいました。今年もやれフランス哲学だのなんだの小難しい本を色々読みましたが、そんなもの飛び越えてぶっちぎりに良かった。なんでだろう。「尼人」は美術に興味ある・志してる人じゃなくても本気でオススメします。「尼崎のスラム街から東京藝大へ」という字面だけ見ると対象を狭めそうですが、全くそこに留まってません(というか一部に過ぎない)。階級・貧困・福祉的な話でもあるし、何より、側から見たら困難なこともボケといじりで生き抜いていこうとする尼人の「強かさ」をビシビシと感じました。読みながら「あいつに読んで欲しいな」と思い浮かぶ人が何人もいました。そいつらも片親だったり、日本のスラム的なところやマイノリティ出身だったり。でもなんとか、あらゆる「芸」を学んでサバイブしてきた人たち。そういう人が読んだら泣いてしまのかなぁ。反対に、いままさに局地の状況にいる人がこれを読んだら希望になるかもしれない。そういった反応含め知りたいと思いました。
ここからは僕が読みながら感じたことつらつら綴っていきたいと思います。
現代美術家=詐欺師であるかどうか
この本が「現代美術家として活動している息子を"詐欺師"と信じて疑わないおかんに向けた本」前提としてるのが非常に面白いです。しかし本書でも触れられている通り、それっぽい作品を作り、理屈っぽく説明してお金持ちに何十万、時には何億円の価格で売買されるアートは詐欺の手口とほぼ同じではなかろうか。
以前、近松門左衛門の言葉を引いてそのようなブログも書いたことあります。
人が生きていく強さ/芸の強さ
著者が阪神淡路大震災で被災した日の話がめちゃくちゃ尼崎っぽくて(知らんけど)印象深かったです。
尼崎の避難所では酒盛りがはじまり、上半身裸でストリップショーしてチップを稼ぐ踊り子と、それを泣きそうな顔で拝む人、ラリってオナニーするオッサン。なんか「芸」の強さというか、生きていく強かさみたいなものを感じました。「この世界の片隅に」とか思い出してましたね。メディアの報道で作られるイメージと、実際の現場で起こっていることは実は違う的な。
翌日報道の取材では、オネェチャンの裸見ながらオナニーしてたオッサンが「不安で眠れませんでした」と名優ばりに語っていたそうな。実際、著者もおかんから「絶対によそでは言うな」と固く口止めされていたそう。つまり、そんなこと知られると援助が来なくなってしまうよと。
自分も常々、メディアで深刻な現場が報道されるたびに「実際そこにいる人は今何を感じているんだろう」と思うのです。もちろん悲しんでいる/苦しんでる人もいるでしょうが、非日常感による発生するエネルギーがあることもまた事実です。知人のアーティストは、東日本大震災の津波で実家に二軒隣の居酒屋の看板が刺さってたことに興奮したことが原体験となってると語ってました。ダミアン・ハーストの911のテロに対して不謹慎極まりないのですが、「それ自体が一種の芸術作品のようなものだと信じている」みたいなことを言ってたのも思い出しました。
自分は「天才ではない」ことにどう気づくか
著者は東京藝術大学の油画科に入るために、トラックの運転手のアルバイトをしながら美術予備校でデッサンを習います。
しかし「藝大の試験=天才性を測るもの」と勘違いをし、予備校の講評ではデッサン紙を破いたり舐めたりしてたそうです…笑 最初の2年は無駄にしたと。ようやく「藝大の試験=長く努力できる人かどうかを見極めるもの」と理解し、「傾向と対策」を練り、見事合格しそのまま大学院まで進みます。
はい、とても大事なことなのですが「自分は天才ではない」と早い段階でどうやって気づくand認めることができるかが何事においても肝になります。はじめは皆んな「自分は特別なんだ」と信じて疑わないものです。著者は予備校にいる「天才たち」に感化されて試験の傾向を勘違いした節もありますが。
「自分は特別」と思ってる人たちはプライドが高く、手癖がなかなか抜けないので指導しても全然上手くならない傾向にあると思います。デッサンは筋トレと同じで、伸びるスピードの差はあれど、基本的にやれば絶対に、誰でも上手くなるはずです。本当に「行きたい場所」があるなら、自分なんてものを真っ先に疑い、捨てて空っぽになることです。これは歳を取れば取るほど難しくなるのですが…。
そして大学院から入ってまだ1年半しかいない分際で言うのもなんですが…藝大に天才はいないと感じます。
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