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異言語のBGM

自分の理解できない言葉に囲まれているのが心地よい。
まるでBGMが流れているように。

言語って理解できると楽しいけど、まったく理解できないのも悪くない。

完全にわかる言語はそれを元に余計なことを考えてしまうし、中途半端にわかる言語は理解しようと不必要に脳みそを回転させてしまう。

余計な情報が耳に入ってこないから、ただただ自分のことだけに集中できる。

だからなんにも解せない言葉たちに囲まれて過ごすのも、たまには良い。

初めて渋谷のスタバのカウンターで友達を待っていた時、隣の男女からなんとも聞き心地の悪い会話が聞こえてきて、聞き耳を立ててしまったこちらも悪いけど、ああ聞きたくなかった、という経験がある。

これが理解できない異言語でBGM化していれば、モヤモヤすることもなかったのに、と非常に勝手ながら思った。

異言語を理解して操らなければならない状況というのは、何かしらのミッションがあるわけなので、常に楽しいわけではない。

その言葉を自分が理解できるかできないかは関係ないシチュエーションって、何気にとっても贅沢なんではないだろうか。

聞いたこともない言葉が飛び交う東南アジアの島のビーチや、ヨーロッパの街角のカフェ。どんな形の文字でこの言葉たちが表記されるかもわからないまま、ただただ自分のしたいことに集中する。

異言語のBGMを求めて、次はどこに旅に出よう。


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