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エッセイ【喉元を過ぎても炎の熱さは覚えていたい】

私が書くことにおいて、耽美という永遠の主題の他に、書こうと思っていることがいくつかあります。

その一つが、


『私が泣いていた頃に欲しかった言葉を、昔の私が歩いていた道を今歩いてくるひとに渡せるような物語を書くこと』


これが、もう一つの主題です。この主題にいかに美を落とし込んでいくかを、今は試行錯誤しています。


私が苦しんでいたことと同じことに苦しんでいるひとは、何処かに必ずいると思っています。

何て言われていたら、私は泣かなくて良かったのか。

どんな言葉があれば、支えになったのか。

誰かを救いたいという高尚な意味はないのです。でも、そんなメッセージを創作のテーマに織り込んで書けたらどんなに素晴らしいことかと思ったのです。

数年前の私に贈る、物語。

もう数年前に私に会いに行って、あなたは大丈夫だからと、私が私に伝えにいくことはできません。だから、今私と同じ道を泣いて歩いている誰かに、届けられるものを書きたい。私に手渡せなかった想いを、受け取ってほしい。


私は私の苦しかった日々を、喉元を過ぎたひとからの無責任なアドバイスにはしたくないのです。

苦しかった日々を何の重みもなく軽々しくしてしまうことは、病み苦しみ、憎み彷徨った私自身を、蔑ろにすることだから。


炎のような思いを飲み、炎のような想いを吐くことを繰り返し、呻いていた頃。

まるで感情の摂食障害のような時間が、私にはありました。

助けてくれるなら、どんなに醜いものが救世主でもよかった。

綺麗なものも、愛していたものも、私を救ってはくれなかったから。

結局私を救ってくれたのは、もっと強く賢くなった私自身と、もう一つの皮肉なものでした。もう一つの、詳細は割愛します、話題が変わるので……


苦しみを乗り越えた後に、経験を語る人の言葉には2種類あると思っています。

『苦しかったことを有益で分かりやすくシェアできるひとの言葉』

『苦しかったことが喉元を過ぎたことになってしまったひとの言葉』

この2つです。


前者は、自分の痛みや苦しみに基づいてその感覚や経験を他者にも分かる形で寄り添うような共有の仕方ができるひとです。とても望ましい形で、同じことに苦しんでいる人の励ましや支えになることを自分の経験から「伝える側」の存在になれている人の言葉です。


後者は、自分が苦しんだこと・悩んだことと他人になってしまったひとです。済んでしまったひと、と表すといいかもしれません。苦しんだことを忘れてしまって、自分の経験を誰かの処方箋にすることができないひとの言葉です。


苦しみを越えてからが大切で、越えた後に得た経験を誰かのために活かせるか否か。

分かれ道は、当事者でいるか、他人になってしまうか。

このどちらに行くかによって変わってしまいます。


これは一例ですが、自分が今まさに苦しみの中にいるときに、同じことに過去苦しんだ経験のあるひとから、

『苦しいのは今だけだよ』

と言われたら、どう思いますか。

……私だったら、この一言に対して、

「励ますつもりで言っていたとしたら軽薄だな」と思います。

「じゃあ、いつ苦しくなくなる?」

「今って、いつまで続くの?」

……と、そのひとを問い詰めると思います。

苦痛が終わる日時を答えろと怒りだすと思います。


「苦しみ」と括れば同じことです。

でも、その内容・内訳・経緯が同じひとは一人もいない。辿り着く場所が同じでも。

苦しみの定義が辞書を引けば分かるけれど、誰もが定義上の症状で懊悩しているわけではないのと同じです。


これは私が勝手に思っていることなのですが、苦しみに限らず『個人』というものを再定義するなら、

『トッピングが自由なハンバーガー』

みたいなものだと思っています。

自分で具をカスタムできるやつ、ちょっと高いハンバーガーショップでありますよね。オプションをつけて自分だけのハンバーガーをオーダーできるお店のやつです。

「ハンバーガー」は大体こういうもの、というイメージは誰もが分かると思いますが、実際に同じものはないというイメージで言っています。

「人間」「日本人」こんな具合に大雑把に同じ部分はあっても、厳密に同じものは一つもないということを想像していただけると嬉しいです。


誰も他人のことなんて分かりません。自分のコントロールもできなくて周りを困らせているひとだっているくらいです。私だって、偉そうに書いているけれども自分が何よりも面倒くさくて、私をぶん回しているのは他の誰でもない私なのだと思うことだってあります。自分の面倒を見るだけで大変なのです。


その分からない他人の群れに、自分と同じ思いに涙している誰かを見つけたとして、私は絶対に『苦しいのは今だけだからね』なんて言いたくない。苦しんだ私をばかにしたような言葉なんて、苦しみ損みたいな安い言葉なんて、恥ずかし過ぎて誰にも言えない。

それに、私がその誰かのことを完全に理解できないのと同じように、その誰かも私のことなんて分からないですから、喉元を過ぎた済んでいるひとの安い言葉だけが伝わります。

私が苦しんだ過去も、励ましたいと思っての発言だったという想いも伝わらず、『このひとは私の苦しみとはもう縁がない存在なんだ』『分かってなんてくれないんだ』と思われて悲しく終わるだけです。

言っても無駄だと思われることが、一番怖いことです。もうその人から諦められて、何も言われなくなることでしょう。相談されることも、何かを打ち明けられることも。


分からないなりに出来ることがあるというのなら、「伝える」ことの前に、自分の立場がどこにあるのか確認することができると思います。

私は自分が苦しみの「被害者」という立場で無くなったら、そのあとは「当事者」でいたいと思うのです。苦しみとの関わり方は今までとは違うけれども、他人にならない道を私は選びます。


それが、苦しみが喉を焼いていた時の熱さを、激痛を忘れずに、苦しみを供養するためにできる唯一のことなのではないかと思います。

当事者でいれば、見て見ぬ振りができないことが増えると思います。自分の過去の苦しみに今悲しんでいる誰かの存在が、心の琴線に触れると思います。

その感覚が腑に落ちた時、


『苦しいのは今だけだよ』


とは、言えない自分がいると、私は思っています。

苦痛なのは今だけだと告げていいのは、過去の自分に対してだけです。それも、会いに行ければの話です。心を全て理解することができない他者を相手に喉元が過ぎた「他者」になってしまった言葉をかけるくらいなら、いっそ何も言わない方がいいです。ただの無責任に成り下がるよりは、ましです。


数年前の私が今の私を見たら、何て思うのかは分からないです。

でも、誰かに無責任になることは自分への不誠実になると思ってそれを嫌って当事者でいることを選んでいる私を、過去の私に会えるのならば今を誇りたいと思います。

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