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掌編小説【薔薇喪失】42.行方知れずの手紙に溺れて

 しどけない倦怠を、はためかせた黒絹のガウンに含みながら纏っていた。はだけた肩を直すには、物憂さがすぎた夜が落ちてきている。湯浴みの残り香は、麗人を魔物めいて匂い立たせる妖艶に気怠い空気を添えていた。麗人は真っ直ぐ机に向かっていくが、机に向かう作業をするには、遅すぎる時間だった。
 開けっぱなしの窓から吹き込む風に、カーテンが揺らめく闇のように翻るのを見つめてから、麗人は椅子に座った。何を考えていても優美にならざるを得ない眉目、何を思っていても傲慢にならざるを得ない睫毛、誰の目にもそれが美だと識別される美貌は、これから訪れる時間を想いながら、抜けるような白い顎に硝子細工の指先を添えている。机の上には、何の飾りもない便箋が置かれていて、時折、吹き込む風に連れられて机の下に飛んで落ちている。傍に置かれていたグラスには、ワインにしては色濃く、血液にしては黒みの足りない液体が満ちている。何か思案げな表情はそのままに、麗人はそこへ濃紫のシロップを目分量で一匙くらい垂らし入れた。濃紫は赤い液体の中に溶けていく。どす黒い赤色に変わった液体に、麗人は口をつけた。定時を待つような静寂を飲み物と過ごして、麗人は万年筆をとった。
 夜は最も深い場所へと傾いていた。節と節の間隔が等しく長い指先、繊細な彫刻のような手が、思案していたことを文字に起こし始めていた。深更の訪れを、待ち望んでいたかのように。
 麗人が手紙を書くのは、いつだって深夜だった。誰に手紙を書くにしても、夜が多かったが、真夜中を過ぎてから書く手紙の相手は、いつも同じひとだった。乾くと赤黒くなる紫色のインクが、万年筆の先でさらさらと躍っている。

(僕の愛しい君、僕が愛した名前……)

 麗人が冒頭に書いたのは、妻の名前だった。麗人がただ一人、美しいと思った素晴らしい女性。彼女はもう、何処にもいない。伏せ置いてある写真立て、小さな額縁に目線をやって、麗人はそれを見ることはしなかった。そこにはいつであったか、妻と一緒に写っている自分の写真が閉じ込められている。彼女が亡くなってから、その写真は伏せてある。左手の薬指には、大粒のサファイアが埋め込まれた指輪が悲しみ色をして佇んでいた。

(君は、僕と結婚して、幸せだった?)

 亡くした妻に宛てた手紙、何行か文章を書いて、その問いかけで手が止まる。麗人は椅子の背にだらりと体重を預けた。麗人は窓から吹き込む夜に、緩やかな癖のある黒緑色の長い髪を遊ばれるままに力を失っていた。瞬くことをしない目が、天井よりも遠い場所を見つめている。

(僕はね……今も、幸せだよ)

 麗人は現実に飢えていた頃の自分を思い出していた。力なく下げた左腕は、万年筆さえ重たげに、重みの感覚に微睡んで身を任せている。
 現実に飢えたことがあるくらいの幸福を知る者というのは、一体、この世界にどれくらい存在するのだろうか。麗人は漠然と考えた。誰かに尋ねてみたかった。現実だけをもっとくれと、望んだことがあるか否かを。
 本当の幸福には、夢も幻も、物語も必要ない。満ち溢れた現実に、嘘をつくものも虚構であるものも、入り込む余地がないからだ。妻と過ごした数年、麗人はその現実を愛していた。嘘も真実もいらなかった。愛しているひとと、愛しているひとに愛されている自分。それだけがある現実が、もっと欲しいと思っていた。
 やがて麗人は万年筆を持った左手で、一度も太陽に触れたことがないほど白い美貌、その目元を覆った。今は見たくないものを思い出すときに、よくとってしまう動作だった。ほとんど無意識だったが、麗人はよく分かっていた。

(僕は無様な男だった)
(でも、そんな僕らしくない僕が、嫌いじゃなかった……)

 妻となるそのひとに出会うまで、麗人は誰かを喜ばせたいと思ったことが、特に女性に対して、そのような思いを抱いたことがなかった。きっと、麗人を知る誰もが知らない表情だったのだ。彼女が喜ぶ顔が見たくて、似合わない必死に振り回されていたときの麗人には、誰も知らない美貌があった。
 愛しているひとが傍にいてくれる現実に、何の夢が必要になるというのだろうか。麗人は魔術めいた造形の指先で、万年筆をくるりと回した。

「…………愛している」

 非力な言葉、何も語らない愛の言葉。麗人は呟いて、机の引き出しを一つ開けた。引き出しの中には、封蝋を押された手紙が、無造作に詰め込まれていた。一つの封筒に仕舞い込まれた想いを薔薇に変えたなら、抱えきれない花束になるほどの、行き場のない数の手紙がそこにはあった。想いの送り先がないことなんて、この激情の前にはどうでもいいことだった。麗人は途切れた手紙の続きを書いた。
 酩酊よりも饒舌な言葉。仮面も思惑も何もない深更。筆圧が、強くなっていく。少しだけ、妻のことが憎たらしくなってくるのだ。麗人から手紙をもらったならば、喜びのあまりに絶命する女だって、いくらでもいるのだ。麗人の筆跡は、麗人の言葉は、麗人の存在は、手紙という手段だけで誰かを殺(あや)めてしまうのだ。その自分を、妻は自分一人だけのものにしている。麗人の心の鍵をかけて、その鍵を持ったまま永遠になってしまったのだ。

(君はそんなに、僕を愛しているの……?)

 麗人は便箋を折って封筒にしまった。意味深に目を閉じて、糊を舐めた。
 酔いしれるには貞淑な唇を思い出していた。麗人もまた、唇を明け渡すことに関しては硬派だった。そんな素面に酩酊していた。麗人が自堕落な夜に妻を攫おうとすると、妻は麗人の腕に捕われることを望むように逃げ出そうとしていた……
 かくして手紙には封蝋が押されていた。真夜中を過ぎた愛は鎖された。激情に嘘はない。麗人は愛を推敲したりしない。
 封筒に口付けて麗人がまた椅子にもたれたそのとき、滑稽な頃合いで椅子の背が壊れた。麗人はとっさに、開いていた引き出しに捕まろうとした。だが引き出しは机から抜け落ちた。絨毯の上に転落した麗人に、行き場のない手紙たちが撒き散らされる結果になった。椅子から落ちた痛みより、散らばった手紙と倒れていることが可笑しくて、麗人は苦笑せざるを得ない。
 深夜の手紙。何も纏わない想い。新しく綴った愛に口付けたまま、麗人は送り先のない愛とばらばらに砕け散っていた。悲しみよりも青い明眸は、思い出にだけ酔いしれていた。麗人と妻を永遠にしたものが、例え死であったとしても。
 不滅の愛に呪いあれ。何も纏わぬ想いだけを綴るのに、この深更は必要なのだ。麗人は愛を推敲しない。朝になって悔やむような、愛など綴っていないのだ。

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