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【短編小説】ロジカルレイン

「論理の階段を落ちてくるのは、理論にそぐわないものだと偉い学者は言ったそうな」

「何言ってるかわかんない」

 小難しいことを喋るその人のことを、ハル少年は空き家のおじさんと呼んでいた。



 空き家のおじさんは、通学路を一本だけ外れた古い家の持ち主らしい。住宅地に唯一残された自然の林に、ぽつんと佇む平屋建て。
 ここに住んではいないそうだが、空き家のおじさんはよくこの場所を訪れる。
 それも足元からぐっしょりと濡れるような、雨の強い日に傘を差して立っているのだ。

「ハル少年。これから私と、水面の逆さを観測しよう」

 玄関を開ける空き家のおじさんの台詞に、ハル少年の胸は躍った。

 いつもと違う通学路で、空き家のおじさんと出会ってから、これで三度目になるだろう。
 母親や近所の人は、変なおじさんだから近づいちゃダメだと唇を尖らせていたが、ハル少年の好奇心は猫のように良識の隙間をくぐり抜けた。


 ミシミシ軋む扉の先には、水たまりが一面に広がっていた。

 他には何もない、一室を水びだしで貸切りにした空間である。

 外からは分からなかったが、この家には天井がなかった。玄関をくぐるため、二人して傘を半開きにさせながら、屋内で再びそれを広げる。

 足元がちゃぽんと水たまりに沈むが、長靴のおかげで濡れない。
 空き家のおじさんも同じく準備万端で、ハル少年はそれを横目にふふんと鼻が高くなる。

 じゃばじゃば降り注ぐ雨音は、目の前の鏡面に無数の波紋を奏でていた。
 空き家のおじさんと横並びになりながら、ハル少年はじっと水たまりを観察する。

「何が見えるかい?」

 さり気ない問いかけに、何気ない答え。

「あっ、サメが泳いでる」

「他には?」

「紙飛行機が沈んでる。あと、東京タワーがある。逆さまに刺さってる。瓶の中に腐ったいちごジャムもあるよ」

「なるほど、なるほど」

 短く頷く空き家のおじさん。今度はハル少年が訊ねてみた。

「空き家のおじさんには何が見えるの?」

「そうだねえ。ながーい階段が見えるかな。雨が降ってるでしょ。最上段か
ら、蛇のように水が滑り落ちて、底の水槽に溜まっていくんだよ。そこには
猿もいるし、車もいるし、ネッシーだっているかもしれない」

「ネッシーって?」

「おや、ハル少年の歳だと知らないかな。それじゃあ、ちょっと下に降りてみようか」

「下に?」

 空き家のおじさんは、水たまりの隅っこまで歩いて行った。

 ちょうど家の角に、窪んだ場所がある。よく見ると、そこには下に続く階段があった。なぜかそこには水が入って来ず、濡れた長靴で乾いたコンクリートに足跡をつけて下っていく。



 最下層まで降りると、そこは真っ白に塗られた部屋だった。

 電気もついていないのに、室内がぽうっと明るく見えている。そして降りて来た階段からちょうど向かいの部分に、水族館のようなガラス張りの水槽が広がっていた。
 
 しかし上から見た景色のように、ハル少年はそこに何も見ることができなかった。

「ほら、見てごらん。ここにはいろんなものが落ちて来るのさ」

「何もないよ?」

「落ちて来るんだよ。階段を転げるように。これからね」

「あっ、何か落ちてきた!」

 ハル少年は、どぼんと水槽に沈んでくるものに目を向けた。

 人間だった。

 スーツを着て、白い髭をたくわえた、学校の先生のようなおじいさんだ。

「どうやら彼は、自ら理論にそぐわないものとなってしまったようだね。汚職を起こし、学会を追放されて、行きつく先は論理の階段からの転落」

 おじさんは疲れたように首を振った。

「やれやれ、やっぱりこういう日には足元に注意しなければね」

「空き家のおじさんの言ってること、やっぱり難しくてわかんないや」

 ハル少年は、水槽の底に沈んでいくおじいさんを薄ぼんやりと眺めるのだった。

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