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あくびの隨に 2話

前回

 

 四方を外海に囲まれた、五芒星を模した一つの大陸。
 それが逸流の立っている地の正体であり、〝留包国るほうこく〟と名付けられた世界の全貌だった。
 曰く、逸流の生まれ育った日本国の裏側に位置しているらしく、言い伝えにもあった神の欠伸日かみのあくひがここに該当するようだ。それが迷信ではなく実際の話だったことにも驚きであるが、逸流が誠に驚愕したのは稲という少女の本質だった。

 留包国には〝神〟が存在する。
 五芒星のちょうど中心。深い森の奥に、人間では辿り着けない〝封節の社ふうせつのやしろ〟なる祭壇があるという。神はそこで永遠の眠りに就き、留包国を見守っているのだ。
 しかしその秩序は、あるときを境に破られる。
 一人の愚かな人間が神を殺そうと画策して、暴虐なる者〝羅刹らせつ〟へと身を堕とした。
 神は羅刹と対峙すると、神の御業を用いて羅刹を留包国の何処かにある、決して抜け出すことのできない隔域に閉じ込めた。
 だがそのときの影響で、神の力は弱まってしまった。
 この世界で神が眠り続ける理由は、留包国の奈落に潜む〝よこしまなる蛇〟を封じるためである。
 人間の血や負の感情を吸って力を増長させる邪なる蛇は、人類にとって最大の脅威。
 人々の安寧を守るためには、神の力を全て封印に回す必要があったのだ。
 けれど羅刹が現れたせいで、その均衡が崩されてしまった。
 封印が弱まったときを見計らって、邪なる蛇は奈落より現れ、神に成り代わったのだ。
 その結果〝腐土の権現ふどのごんげん〟と呼ばれる土人形を用い、無辜の民を虐殺し、血や絶望を掻き集めている。
 完全なる力を取り戻すために、圧倒的な恐怖で留包国を支配していた。
 この影響を受けて、封節の社の周囲に広がる豊かな森林は枯れ果ててしまった。
 そして邪なる蛇に成り代わられた神は、態勢を立て直すために、何者をも寄せ付けない“常世とこよ〟へと姿を潜めた。
 いつの日か力を蓄えて、邪なる蛇を討ち果たすために――

「それにしても、ぬしが常世を訪れたのは僥倖であったな」

 逸流いつるの横に並ぶいねは、しみじみと感慨を漏らした。
 現在二人は、封節の森との境界となっていた川を抜けて、緑が芽吹く森林を進んでいる。
 そこにはまだ失われていない自然があった。
 草木が生え、動物たちが暮らし、虫たちの鳴き声が響く。枝葉を揺らす鳥の影も木洩れ日から覗き、確固足る生命が所狭しと満ち溢れているのだ。
 稲は柔和な笑みを零しつつ、それらをぼんやりと眺めている。
 逸流も心持ちがいくぶん癒されるが、和んでばかりもいられなかった。

「なあ、稲。君は俗にいう神様なんだよな?」
「その認識で相違ない。私は居場所を追われて常世にいた。そこに、ぬしが〝現世うつしよ〟から現れたのだ」

 稲が呼ぶ常世という場所は、この留包国のどこでもない地点に存在するらしい。そして現世とは、逸流がこれまで暮らしていた日本国のある世界のことだという。

「ぬしが私の前に姿を見せたときは、かくも驚いてしまったが、あのような感情は久しく経験しておらなんだ。初々しさを得たようで、とても新鮮だったぞ」
「なんか反応に困るけど、つまり僕は一度その常世で君に会ったの?」
「然り。されど覚えておらぬのなら、蒸し返すような話でもあるまい。事ここにおいて、私とぬしの邂逅は果たされた。その事実があれば他の全ては些末事だ」
「妙にちんぷんかんぷんだけど、君がそれで良いなら……」

 逸流には、常世とやらで彼女と出会った記憶はない。
 しかし稲の言葉が嘘でないことも、直感的に理解しようと思えた。

「だけど君って、どう見ても人間にしか見えないけど、やっぱりあれかな? 神様は見る人間によって姿形を変えるって感じのやつ?」
「私は初めから、この肉体で生を受けた。そこに他者の介入は存在せぬが……まあ、この髪の色だけは、私の意にそぐわぬところではあるな」

 稲はその艶やかな灰色の髪を、あまりお気に召さないようだ。
 神様にも趣味嗜好があることを実感しつつ、逸流はぽろりと口を滑らす。

「そう? 僕は綺麗だと思うよ」
「……」

 半眼を作りながら、稲は逸流の台詞に難色を示した。
 先ほどハンカチで顔を拭ったときも剣呑な態度だったので、どうやら稲は軽率な言動に些か敏感な気があるらしい。

「あ、ごめん。神様だって気にいらないものぐらいあるよね」
「……まあよい。ぬしに悪意がないことは理解している。これから先、度重なる恥辱程度は甘んじよう」
「許してもらえたようで良かったよ。でもそれ、僕が失言する前提で言ってない?」
「気付いたか。うつけめ」

 稲は悪戯っぽくも、どこか普通の少女のように微笑んだ。
 それだけで、彼女からは神様としての威厳も何も感じられない。だが、そんな姿が自然体に思えるほど、稲の天性の無邪気さが垣間見えた気がする。
 極端に話題が逸れない内に、逸流は稲に質問した。

「ところで、大事なこと聞いても良いか?」
「構わぬ。私が知る範囲であれば、相応の答えを示そうぞ」
「僕はどうして、こっちの世界に来たんだ?」
「それは、ぬしが〝神のあくび〟に生を受けたためであろう」

 稲は逸流の知る神の欠伸日と、同質の響きを伴ってそのことを伝えた。

「それって、神様があくびした拍子に生まれたっていう、存在しない日。つまり余白のこと?」
「その認識は是であり、非でもある」

 稲は留包国における、神のあくびの正体に触れる。

「そも神のあくびとは、現世の暦における一定の周期のことだ。ぬしの言う余白に日付という概念は存在せぬ。が、一年三百六十五日に当て嵌めれば話は変わる。例えば、うるう年は三年もの空白を経て四年目に出現するであろう? 神のあくびも、必ずいずこかの周期に出現し、偶然その日に生を受けた者と強い結びつきを持つのだ」
「つまり、僕の誕生日ってこと?」
「然り。流動的な時間すら神の生み出すまやかし。明確な刻限を知ることは誰にもできぬが、少なくともぬしの生まれ年が神のあくびであることは覆しようのない事実だ」
「そうなんだ。実感ないけど」
「裏を返せば神のあくびに生まれさえしなければ、現世の人間は一生、留包国と関わりを持つことはない。変えて、その日に生を受けたぬしのような者は、ある要因が引き金となってこちら側に呼ばれてしまうことがある」
「……ひょっとして、あくびを噛み殺さなかったせい?」
「そのような迷信はどうでもよい」

 神妙な面持ちで、稲は逸流の役割を告げた。

「ぬしは贄として呼ばれたのだ」
「え……まさか、生贄ってこと?」

 不穏な響きの意味を確認すると、稲はあえなく首肯した。

「邪なる蛇の力の源は、人間の血肉と負の感情だ。わけも分からず呼び出され、狼狽える人間ほど絶好の得物はない。ぬしはな、食事として利用されたのだ」

 恐ろしい事実を、稲は淡々と言い連ねる。
 逸流は身の毛もよだつ恐ろしさを感じるが、不思議と冷静さだけは失わなかった。

「……だったら、少し変じゃないか? 食われるんだとして、どうして僕はここにいるんだ。わざわざ君のいた常世なんて通らずに、直接封節の社に呼び出せば――」

 一瞬、逸流の頭が揺れた。
 怪訝そうにする稲をよそに、逸流の脳裏にある光景が呼び起こされる。
 鳥居を模した五つの門。
 松明に照らされる祭壇。
 そして、木棺に横たわる老人。
 身に覚えのない光景のはずなのに、なぜか逸流はそれらを知っていた。まるで実際に経験したことのあるような、不可思議な景色だった。

「ぬしよ、平気か?」

 急に逸流が頭を抱えたので、稲は気遣うように声をかける。

「……悪い、何でもない」

 逸流は微かに顔色を青くしながら、短くかぶりを振った。
 稲は小首を傾げつつ、逸流の不安を取り除く。

「ぬしが常世に迷い込んだのは偶然の成せる業であるが、詰まるところ私とぬしの目的は一致しておる」 

 稲が言うには、五芒星を模したこの大陸のそれぞれ内角に位置する五つの地域に、小国と呼ぶべき領土が存在するらしい。
 各々の土地を治める当主の家系を〝五大光家ごだいこうけ〟と言い、その血筋を引く者たちが邪なる蛇の討伐に関して、重要な役割を持つのだという。
 稲の目的は、この五大光家の力を借りて邪なる蛇を倒すことにあった。

「でも稲。邪なる蛇は倒せないから神が……というか君が封印してたんだろ? 勝算なんてあるのか? それ以前に、力が弱まってたから常世で力を蓄えてたんだよね? 肝心の力は戻ったの?」

 逸流の矢継ぎ早な質問攻めを受けて、稲は小さく呼吸を整えていた。
 悠然と構え、あらゆる物事に動じない姿勢でこれを返す。

「案ずるな。これより私たちは種を撒くのだ。邪なる蛇を滅ぼすため、そこに繋がる道を行脚する。それが実った暁には、必ずや私たちの悲願は成就されよう」
「当てがあるんだね?」
「いや。そも、ここがどこに与する地域なのかすら、私は預かり知らぬ」
「ん?」

 気の抜けた響きに、逸流はすかさず疑問符を浮かべた。
 それに構わず稲は悠々自適を貫く。

「直に人里も近づいてこよう。そこで今後の方針について考えても遅くはあるまい」
「……稲ってさ、行動してから考えるタイプ?」
「たい、ぷ? ……ああ、現世の言葉で性質のことか」

 瞬間、戸惑いを見せるが、稲はすぐに言葉の意味を理解する。

「あれ、もしかして稲って……」

 そこで逸流は気づかされた。その古風な出で立ち通り、彼女は横文字が苦手なのだろう。
 意味は知っているようだが、すんなり理解するのは難しいようだ。
 彼女と会話するときは、日本語を中心にした方が良いかもしれない。

「のう、ぬしよ」

 何かを悟ったように、稲は怪訝な表情を浮かべた。

「今、私のことを小馬鹿にしたのではなかろうな?」
「え? いやいや、そんなつもりはないけど、少し心配にはなったかな」
「ぬしが気負うことなどない。大船に乗ったつもりで構えておれば、道は隨に事もなしだ」
「大丈夫だって言いたいの?」
「流れが全てを導く。私たちはこれに乗るだけの旅人ということだ」
「……人はそれを、行き当たりばったりって言うけどね」

 拭いきれない不安はあるが、今は稲の言葉を信じるほかなかった。

【続】

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