誰もが、違国に住まうひと
ひといきに読んでしまうのがもったいなくて、数ヶ月をかけてゆっくりと読み進める。
物語の結末を見届けたあとも、おりにふれて何度も読み返す。
ヤマシタトモコさんの漫画「違国日記」を、わたしは、そんなふうにして読んできました。
出会ってから約一年になるのですが、今でも、読む度につよく心を動かされる作品です。
主人公の田汲朝は、中学三年生の冬、交通事故で両親を失います。
朝を引き取り、ともに暮らすようになるのは、叔母の高代槙生。朝の母親であり、槙生の姉である実里とは長い間没交渉で、朝ともほぼ面識はありませんでしたが、葬儀の場で、引き取ることを決心します。
小説家である槙生は、人と関わりあうことに"怖さ"を感じているのですが、その原因のひとつは、姉の美里から向けられた鋭い"ことば"の数々。
朝と接する中で実里のことばを思い出し、槙生が自身の傷と向き合う場面には、胸の痛みを覚えます。
自分を否定されるようなことばは、年月を経ても心の中から消えないものですね。
自分にはないおおらかさ、のびやかさを見せる朝に戸惑いながらも、20歳年下の彼女を尊重する槙生の姿を見るのが、好きです。
その姿を追いながら、わたしは今、若いひとから見て、どんな"大人"なのかな、ということも考えるのです。
槙生に勧められて、朝が書きはじめた日記。
朝が成人したら渡そうと、美里が書いていた日記。
そして、槙生が書いている小説。
物語は、さまざまな人のことばで、彩られていきます。
口に出した思い、出せなかった想い。
誰かを救ったことば、誰かを深く傷つけた言葉。
言ってほしかったこと。云わずにいてほしかったこと。
孤独でなければ、ひとは何かを書いたりしない。
昔読んだ本の中に、そういえばそんな文章があったな、と思いました。
書くことは、その孤独をより深めていくことなのかもしれません。
けれど、書いているときに感じる"ひとりである"という感覚は、不思議とわたしにやすらぎをもたらすのです。
ひととひとは、完全に理解しあうことはできない。
その考えに至ったときのことを、槙生のことばを読みながら思い返しました。
ひとそれぞれ、見えている世界は違っていて、わたしたちは、誰もが、違う世界の中を生きているのだ、と気がついた日の記憶。
痛みによりそうこと、傷の深さを慮ること、辛さを想像することは、できます。
けれども、そのひとの痛みを完全に理解すること、自分自身のものとして全く同じ痛みを感じることは、できません。
"その気持ち、わかります"
共感したことを伝えるために、わかる、という表現をします。
本当のところは、わかるように感じられるのであって、理解できている、のではないのですよね。
同じような思いをしたことがあって、だからこそ、その人の気持ちに寄り添いたくて発することば。
たやすく、口にしてもいいのかな。
そんなふうに、ためらいを感じるのです。
その人が抱く感情は、その人だけのものだから。
きっとこんな考え方は、冷たいと捉えられることもあるでしょう。
朝が、槙生に向かって、たびたび「分からない」と反発をするように。
けれども、理解できないと思うからこそ、ひとの気持ちについて、深く考えるのではないかな、とも感じます。
あなたの感情は、あなたが決めて良い。
何をうれしいと思うのか、何に悲しみを感じるのか。
どんなことに傷つくのか。
それを決められるのは自分だけ。
そしてその感情を、ちゃんと味わって良いのだよ。
物語を通して、受け取ったメッセージ。
分かちあうのは難しい。だから、お互いの思いを尊重する。そのような姿勢で、贈ったり贈られたりすることばのぬくもりと煌めきが、心の中にあかりを灯すのです。
朝が高校生活をともにすごす同級生達も、槙生の友人達も、皆がその人自身の痛みを抱えながら生きている。
傷ついたり傷つけられたりすることはあるけれど、ひととひとが真摯に向き合うことは、やはり尊いものなのだと感じます。
最終話で、朝が槙生から受け取った詩を、わたしは忘れることがないでしょう。
もうひとつ、読み終えてから思ったこと。
それは、この世界から存在しなくなったとしても、その人が発したことばは、生きているひとの記憶の中に残り続けるのだということです。
自分の心のうちに留めておけず、書き記した想い。
何気ない日々の中で、まわりのひとと交わすことばの数々。
わたしは、いったい、誰に何を遺せるのかな。
物語が終わったあとも、続いていく彼等の人生。
そして、わたし自身の来し方と行く末に思いを巡らしながら、そんなことを考えたのでした。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。 あなたの毎日が、素敵なものでありますように☺️