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書くことで、壁を無くしていくような日々に

noteで文章を綴っていると、自分自身の気持ちや考えが素直に表せていることに驚きを感じることがあります。

過去の記事で度々ふれていますが、子どもの頃から人見知りがはげしくて、ひとと会話をすることが苦手でした。がんばって自分が考えていることを伝えても、よく分からないと返されることもしばしば。否定されたり、変だと言われたりしたらどうしよう…、と怖くなり、しだいに口数が減っていきました。

自分よりもひとを優先する気質も強かったなぁ。
たとえば友人と遊びに行くときも、「わたしはどこでもいいから、〇〇ちゃんの行きたいところにしよう」と言って、相手に合わせることが多かったです。

小さなことの積み重ねであっても、本心をかくしたり、気持ちをおさえたりすることが続くと、ほんとうは自分がどう思っているのか、何が好きなのか、自分でもわからなくなってしまうのですね。
ごはんを食べに行ったときに、「ハンバーグのソースはデミグラスと和風のどちらになさいますか?」と聞かれても、"どっちがいいのかな。どっちが好きなんだろう"
ぼんやりと考えてしまう…。
ささやかな選択すらできず、わたしという人間の中身が空っぽのように感じる。
10代から20代前半にかけては、そんな時期でした。

今思えば、自分と現実(及び周りのひと)とのあいだに、煉瓦で高い壁を築きあげていたように思います。
それは自身を守るためではあったのですが、いつのまにか自分の周囲に壁をめぐらして、そのなかに閉じ込められ、出ることが難しくなっていたのです。

理解してもらえないから、とあきらめて一言も発しなかったら、ますます伝わりませんよね。
そもそも100%完璧に理解しあうなんてできないから、10話して0.1でも伝わったら上出来だと、今は思えるけれど、昔は10理解してほしいと思っていたなぁ。そう苦笑いできるくらいには、壁は低くなっていきました。

文章を書くことで、自分自身の気持ちが明確に見えるようになったと感じます。
そういえば、そんな考えかたもある。
この本の、こういうところが好きなんだね。
そんなあいづちを心のなかでうちながら書いています。

また、noteで書いた記事に対して、共感して頂けたり、素敵なコメントを寄せて頂いたりするなかで、次第に壁が低くなるだけではなく、煉瓦の一部がくずれて穴が空き、光や風が入ってくる感覚をおぼえるようになりました。

自分が発したことばがひとに届くということは、そして受け止めてもらえるということは、こんなにもうれしいことだったのか。
新鮮な感動を日々味わえるようになったのです。

自分と現実との間に完全に隔てをなくすことはできないけれど。(それはあまりにも無防備で…。)
いつか、厚い煉瓦の壁ではなく、光や風をゆるやかに通す、障子やすだれのようなしつらえに変えていけたら。
そんなふうに思っています。


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