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倫理からつぶやき

人間は、死へと投げ出された存在であるということを自覚することで、本来的自己を取り戻すことができる…

ーこれは、高校倫理で習う実存主義の中でも現代人が思想しやすいであろう、ハイデガーの考えだ。

存在について問い、人間は主観を持って存在すると同時に世界に投げ出された存在であるとした。そして、当時の人間は個性がなく周囲に埋没したダス・マンになっているとした。

現代も、少し前の時代でも同じなのだなあと思う。人はうっかり周りに合わせすぎてしまうことで埋没してしまう。日本人は特に。埋没しても良いというならそれでも良いが、やっぱり少し寂しい。

死は人によって違うからその自分の有限性を自覚することで自然と生き方に個性が出るらしい。確かに死を考えると急に何かしなければいけない気になる。無意味なことをやっている場合ではない、と。

当たり前のように平穏なこの日々がずっと続くと、人は無意識のうちに信じている。でも本当は不安定なこの生をもらえたからには、自己実現したい。自分がいる意味を、造り出したい。


自分が心に残っているものに、バークリーの、「存在することは知覚されること」という言葉がある。

初めて習ったとき、痛いところを突かれる思いがした。黙っていれば、認識されていなければ、存在していないのと同じなのか。
少しでも自己主張をすることで、相手の意識の中に存在できて、それはつまりこの世界に存在していることになる、ということか。

もちろん自分だけの世界も良いが、人に囲まれて生きていくほうが絶対に良い。

周りに埋もれて「数」になるだけでなく、「素晴らしい人のうちの1人」になる。


そして実存主義集大成のサルトル。人間だけは唯一、生まれるときに道具のようには本質が決まっていず、後から自由に自己を創造していくことができる。自分で自分のあり方を決めることができる。

その代わり人間はそのような自由の刑に処されていて、そのような人間にとって社会参加をすることが良い、社会を創造することで主体的に生きられることができる、と言っている。


生きる意味。答えがないだけにいろいろな考えがある。本当にこのあたりの倫理の歴史では、現代の人にも共感できる、興味深いことが考えられていたのだなあと思う。