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桜前線北上中 [短編小説]

 今年も近所の公園の桜が咲いた。この街では、ちょっとしたお花見の名所になっている。千鳥ヶ淵や飛鳥山といった都内の名所まで出かけて行くのが面倒な人たちにとっては、十分なぐらいの咲きっぷりだった。
 植えられている桜は、日本中のどこにでもあるソメイヨシノ。真由子はソメイヨシノの花があまり好きではない。この桜のせいで、日本に昔から自生していた桜は肩身の狭い思いをしているだろうと思っていた。だからどうしてもこの季節は出不精になる。
 昔からの友人たちはそんな彼女の胸の内をよく知っているので、この時期にはあまり誘わない。勤めている会社もブラックを絵に描いたような酷い環境なので、社内の人間関係は希薄で疎遠だ。春だからという浮わついた慣用句をつけた話題が交わされることも、煩わしい花見の誘いもない。それが真由子には逆に清々しいとさえ思えていた。

 問題なのは、春以降に知り合った新しい友人たちだ。さすがに社会人になってから減りはしたものの、なぜか真由子には出会いが多い。ブラック企業なのに出会いの機会があるのかと驚かれるのだが、ちょっとしたきっかけで人と人は案外すぐに仲良くなれるものだ。
 例えば、真由子にとって今一番LINEのやり取りが多いのは、今年の正月に神田明神で知り合った牧野洋子だった。彼女は巫女のアルバイトをしていた女子大生で、真由子は初詣の時に彼女からお守りを買った。その後、街をぶらぶらした後にたまたま入った喫茶店で、すっかり普段着に着替えた彼女と再会したのだ。真由子も洋子もすぐにお互いをどこで出会った人なのかを認識した。
 真由子は一度言葉を交わした人を決して忘れない。それは特技とも言えるし、仕事にも役立っている。同種の人間は案外いるもので、どうやら巫女をやっていた洋子もそうだったらしい。
 もっとも洋子はその能力が嫌で、同種の能力を持つ人にしか反応しないようにしているという。一度会っただけで相手を忘れないということは、一般的にはとても稀有なことなのだそうだ。だから相手は忘れていないというだけで自分に好意があると思ってしまうらしい。同性ならいいが、それが異性だと有難くないトラブルへと発展することもあるのだという。特に巫女との出会いを目当てにお参りに来るような人種には要注意なのだと洋子は言った。何度もストーカー化されて困ったそうだ。

 真由子から言わせると、その要因には洋子の美貌がかなりのウエイトを占めていると思えた。ファッション雑誌から飛び出してきたモデルのような顔立ちとスタイルだ。男なら誰も彼女を放っておかないだろう。
 残念ながら、真由子には洋子のような美貌はない。だからこれまで能力を使っても、特にトラブルというものには巻き込まれたことがなかった。それよりも、これからも無数に繰り返されるだろう出会いと別れの方が苦痛だ。見知らぬ人と出会い、知人になれても、そこから友人になれる人は限られている。友人から親友になるのはもっと難しい。相手が異性であった場合、そのハードルはますます難易度を増す。友人になれたとしても、どちらかがその先を求めたら良好な関係は簡単に壊れてしまうからだ。
 男と女の間に友情は存在するか。いつからかそれは、真由子にとって大きな問題になっていた。そして松田直哉はまさにその典型だったといえるだろう。

 真由子と松田の出会いは、最寄り駅のホームだった。この日、真由子は、いつも同じ車両に乗る松田と偶然言葉を交わす機会を得る。電車を待っていた老人が急に倒れて、その介抱を二人がしたからだ。
「ベンチに寝かせましょう。ぼくのマフラーを枕に」
 そう言ってお年寄りに肩を貸す松田から、真由子はマフラーを受け取った。
「大丈夫ですか? 今、助けが来ますからね」
 真由子が声をかけると、老人はありがとうと言って、彼女の手を握った。硬い指先の感触が、手の甲に残る。駅員が駆け付けるまでのものの一分程度だったが、真由子が松田と老人の顔を覚えるには十分すぎる時間だったといえる。
 翌日、また同じ時間に同じ場所で松田を見た時、真由子は自然と声をかけていた。
「昨日はありがとうございました」
 真由子は自分が礼を言うのも可笑しいと思ったが他に言葉が見つからない。案の定、松田はすぐに意味が分からなかったようで、きょとんとした顔をした。
「ああ、昨日の方だったんですね。こちらこそ、ありがとうございました」
 やっと一緒に老人を介抱した相手だと理解した彼の顔に笑顔が浮かんだ。その日、いつもなら無言で外の景色を眺めるだけの通勤電車が、おしゃべりに花を咲かせる時間となった。
 都心までの30分間で互いの連絡先まで交換し合った二人は、それからしばらくして一緒に食事をすることになる。彼の仕事は主に飲食店の内装をプロデュースするもので、よく一人で都内の店を食べ歩くのだという。ちょうど十代後半から二十代前半の若い女性をターゲットにする内装プランを手掛けていた彼に、真由子は女子大生の洋子から聞いたお薦めの店の情報を伝えた。そして、それならば今度の週末に、ぜひ一緒に行って欲しいと松田から誘われたのだ。

「やっぱり、三十過ぎの男が一人で来る雰囲気じゃなかったね」
 店に入るなり、松田はそう言って笑った。原色で彩られたポップな店内は、とにかく華やかだ。
「私も場違いって感じだけど」
「そんなことないよ。十分に馴染んでると思うけど」
「それって、私が子どもっぽく見えるってこと?」
 馴染んでいるという松田の言葉が何となく照れくさくて、真由子は思わずひねくれた質問をしてしまう。彼は困ったような顔をした。
「冗談よ。もっと馴染む人が後から来るから」
「えっ? 誰が来るの?」
 松田は意外そうな顔をした。ちょっとしたサプライズ気分で、真由子は洋子を呼んだことを内緒にしていたからだ。まだ二人きりで会う事の気恥ずかしさもある。だが、それ以上に情報元の洋子からもっといろいろな店について訊けるだろうと思ってのことだった。
「そうなんだ…」
 だが、松田の反応は芳しくない。おもむろに顔を曇らせた。
「この店で食べた後、一緒に飲みに行けたらと思って一軒予約を入れてあるんだよ」
 そこは松田が内装を手掛けた店らしく、真由子も聞いたことがある有名なカクテルバーだった。とても繁盛していて予約しないと常連でも入れないらしい。
「二人で予約しちゃったからなぁ。君の友だちも来るよね、きっと」
「どうだろう? 彼女はまだ女子大生だからなぁ」
 そう答えて、真由子は洋子が未成年なのか成人しているのかを知らないことに気づいた。自分が学生の頃は未成年だろうと関係なく飲みに行っていたけれど、社会人になるとさすがに分別がつくものだ。未成年を酒の席に誘うのは、やはりまずいという意識がある。
 洋子には何も言わず、この店でお開きだということにすればいいのだろうが、それも何となく嫌だった。自分がサプライズのつもりで洋子を呼んだように、松田もバーを予約したのだろう。だから、それについて彼にとやかく言う気にもなれない。
「キャンセルしとこうかな。店に迷惑かけないように」
 松田は仕方なさげに浮かない表情でそう言った。心の内が表情に出やすい人だと改めて思う。
「ごめんなさい。私が言わなかったせいで」
 なぜか真由子は謝ってしまった。急に店内の鮮やかな彩がかすれていく気がする。こんなはずじゃなかったのにという気持ちが胸の奥に湧きあがった。

 洋子が来たのは、約束の時間を10分程過ぎた頃だった。
「真由子さん、お待たせ」
 いつも以上に洋子の美貌は磨きがかかっているように見える。彼女には飲食店の内装をプロデュースしている男性と食事することを事前に伝えていた。もちろん、いろいろ有意義な情報を持ってきて欲しかったからだ。だが、洋子には彼女なりの別の目的があったらしい。大学で建築学を学んでいる彼女は、以前から松田の勤める会社に興味を持っていたのだという。
「建築系の学部出身者って、社員にどれぐらいいらっしゃるんですか?」
 互いの自己紹介が済むと、洋子から松田への質問攻めがはじまった。ちょうど社内で尊敬している先輩が洋子と同じ大学の出身だということで、話は大いに盛り上がる。
「今度先輩を紹介するよ」
 そう言って松田は洋子とLINEを交換した。はじめは渋っていたくせに、洋子を一目見た途端、この豹変ぶりかと真由子は内心呆れてしまう。そのうち席を立ったと思ったら、しばらくして松田は嬉しそうな顔で戻ってきた。
「例のカクテルバー、三人でも大丈夫だそうだよ」
 キャンセルではなく、予約の人数を増やせないか交渉したようだ。当然、松田に恩義を感じているバーの店主は快諾した。さっきのやり取りは何だったのだろう。無理して謝ってみたりもした。そんな自分の言葉と態度に少し嫌気がさす。正直、真由子は複雑な心境だった。
「えっ、そのお店、一度行ってみたかったんです」
 洋子の声がキラキラと周囲に降り注いだ。大学生の内から女を武器にしていると真由子は嫌な感じがした。これから就活の時期を迎えるという洋子にとっては、得難い出会いだったのだろう。それにしてもこの態度はない。可愛い妹ができたように感じていた真由子は、頭から冷水をかけられた気分になった。
「ごめんなさい、今夜急に用事が出来ちゃって」
 一時間ほど経ったろうか。真由子は盛り上がっている二人にそう言って席を立った。
「どうしたの? 急用って何?」
 何か不穏なものを感じたのか、松田がそう真由子に訊く。その横で、洋子がきょとんとした顔つきで真由子を見上げていた。
「呼び出しのメールが来ちゃった。ほら、うちの会社ブラックだから」
 そう言いながら真由子は財布から千円札を二枚出してテーブルに置いた。若者向きの店だから、こんなもので良いだろう。洋子の分は松田に押し付けで良いと思った。
「えー大変ですねぇ」
「身体に気をつけてな」
 鼻にかかった洋子の声が耳につく。付け足しみたいな松田の言葉は、左から右の耳へと抜けていった。この後、洋子と松田がどうなろうと自分には関係ない。そう思いながら、真由子はさっさと店のドアをくぐった。

(嫌な時間を過ごしちゃったなぁ)
 駅までの商店街を歩きながら、真由子はそう胸の中でつぶやく。別れ際の松田と洋子は、とてもお似合いのカップルに見えた。もし二人の関係が発展したなら、自分は愛のキューピッドという位置づけになるのだろう。考えただけで気持ち悪い。真由子は次の月曜日から乗る車両を変えようと思った。
 出会いはどんなに多くても、それから先に同じ時間を共に過ごせる人は少ない。真由子は改めてその難しさを考えていた。女同士の友情も、恋愛といういわゆる利害が絡むと簡単に崩れる。男との友情もしかり。松田との関係は、自分の方に否があったと真由子は反省した。
 恋心を抱いたのは、きっと自分の方が先だったに違いない。あの日、倒れた老人を介抱する松田の男らしい態度と行動に、心を惹かれたのだ。そうでなければ、翌日ホームで自分から声をかけたりしなかっただろう。
 松田だって、まんざらではなかったはずだ。だから今夜もサプライズでバーを予約していた。けれど、松田の自分に対する好意は、洋子という若くて綺麗で可愛らしい女の前では簡単に吹き飛ぶようなものでしかなかったのだ。
「キューピッドって言うより、ピエロだよねぇ」
 真由子は思わず笑いながらそうつぶやいていた。滑稽で惨めな道化師。昔よく見たチャップリンの映画を思い出す。帰りの電車は、そんな映画の思い出の場面の上映会だった。そうでもしないと打ちのめされてしまいそうなぐらい、松田への思いが育っていたことに、真由子は正直驚いてもいた。

 最寄り駅に着いたのは、午後十時を過ぎた頃だ。家までは徒歩十五分。普段ならわき目もふらずに歩いて帰るのだが、今夜は急ぐ気になれない。途中のコンビニで度数の高い缶酎ハイを買い、近所の公園に寄った。嫌いなソメイヨシノが満開だった。
 いつの間にか何ヶ所かにライトが設置されており、夜の闇の中に桜の花が照らし出されている。近場にある桜の名所として、そんなリクエストが役所に出されたのかもしれない。数組のグループが、ライトアップされた夜桜の下で花見をしていた。
 真由子は公園の一番外れの桜の木の下まで歩いていく。今はあまり近くで人の声を聞きたくない。人のいない場所はそこしかなかった。確か、小さなベンチがあったはずだ。そこに座って、嫌いな桜でも眺めながら缶酎ハイをゆっくり飲もう。歩を進める度に、真由子の手にぶらさげられたコンビニの袋がカサカサと音をたてた。
 ところが外れの樹に近づくうちに、ベンチに人影が浮かんでくる。目が暗闇に慣れてきたせいだろう。ホームレスだったら嫌だなと、真由子は躊躇した。探るように人影を見ながら、歩みの速度を落とす。その時、人影の顔の辺りに炎が見える。すぐに煙草に火をつけるためのライターの炎だと分かった。
 だが、突然の炎より、むしろその光に照らされて浮かんだ顔に真由子は驚いた。あの日、駅のホームで松田と一緒に介抱した老人だったからだ。どうしようか真由子が迷っていると、ふいに老人が口を開いた。
「桜はいいねぇ。美しく咲き、美しいまま散る。老醜をさらすこともない」
 その口元から、言葉と一緒に煙草の煙が吐き出される。煙はかすかに吹いている風に運ばれて闇の中に消えていった。真由子は覚悟を決めて老人に近づいた。
「先日、駅のホームで倒れた方ですよね?」
 真由子の言葉に、老人が反応した。真っ直ぐに真由子を見つめている。
「ああ、あんたか。この前はありがとう」
 どうやら老人は真由子の顔を覚えていたらしい。手招きすると、ベンチの端に寄り、真由子が座れる場所を作った。
「お加減はいかがです? 大丈夫なんですか、煙草なんか吸って」
 真由子は老人が空けてくれた場所に腰をおろすと、煙草を燻らせている老人にそう訊ねた。老人が面白そうに低く笑う。
「まあ、老い先短い身の上だ。好きにさせてくれんかの」
 そう言うと老人は左手に持っていた缶ビールを一口飲んだ。あまりお節介を焼いても機嫌を損ねると思った真由子は、それでも納得いかないという雰囲気を漂わせながら、自分も缶酎ハイの栓を開けた。
「わしはこう見えても九十を過ぎておってな、そろそろ寿命がくる。何と言っても大正の生まれじゃからな」
 何となく老人が七十代ぐらいだろうと思っていた真由子は驚いた。人生百年時代とは言われているが、九十年以上生きている人にはなかなか会う機会がない。たまたま駅で助けた老人が、そんなに長寿な人だったとは思いもしなかった。
「大正、昭和、平成、令和。四つもの時代を生きさせてもらった。もう思い残すことはあまりないんじゃ」
 そう言うと、また老人は美味そうに煙草を吸った。酒も煙草も、適度に嗜むならむしろ健康に良いのかもしれない。そんな思いが真由子の心に浮かんだ。
「食わず嫌いが一番身体に悪い」
 まるで真由子の胸の内を読んでいるように、老人がそうつぶやく。単なる偶然なのだろうが、その続きが聞きたかったので、黙って老人を見た。
「一口箸をつけて食い切らんのもダメだな。料理も人も、ちゃんと味わって食い切ってみないと何が良し悪しなのか分からんもんだ」
 ふと、老人は料理の話がしたいのではないと思った。明らかに真由子に対して語っている。そんな気がしてならない。公園に来てからどれぐらいの時間が過ぎたのか、すでに分からなくなっていた。
「あんたの嫌いなソメイヨシノも、こうして夜に眺めると昼間とは別物じゃろ?」
「どうして私が桜を嫌いだと分かるんですか?」
「さっき言ったろ。わしはもう九十年以上生きてるんじゃ。分からんことの方が少ないぐらいさ」
 そう言うと老人はひと際大きな声で笑った。いつの間にか夜桜を眺めていた人たちの姿は見えなくなっている。広大な闇の中に、光に照らしだされた桜の花たちが、風に吹かれて揺れていた。老人が燻らす煙草の煙が辺り一帯に霞のように漂い始める。夢幻の世界に足を踏み入れたのかもしれないと真由子は思った。老人の顔が、闇の中に消え始めている。缶酎ハイに酔ったのか、眠さが尋常ではなかった。
「わしは人の心の中に住んでおる。これまで出会ったすべての人とわしは繋がっとるんじゃよ」
 老人の謎なぞみたいな言葉が頭の中でこだましていた。もしかしたら、老人は古老の桜なのかもしれないという突拍子もない連想が浮かんだ。だが、一旦その思いが浮かぶと、もはやそれ以外の真実はないように思える。
「桜は下を向いて咲くんじゃ。出会った人たちが上を向くためにね。せっかく良縁を授かったんだから、逃げずにもっと向き合ってみんとな」
 すでに遠くからやっと聞こえてくるような老人の小さなささやき声を最後に、真由子の意識は途切れた。心地よい眠りの中で、桜の花びらだけが眠っている真由子を見つめているように感じた。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 満開だった桜の花が散り、すっかり葉桜になった頃、真由子は東北にある寺の集団墓地に墓参りに向かっていた。隣には松田がいる。真由子を納骨に来ないかと誘ったのは、その寺の住職だった。
 本来、身寄りのない無縁仏を葬る際には、連絡する人などいないのだと住職は言った。だが、その日墓に納骨される老人は、大学ノートに丁寧に日記をつけていた。持病の心臓発作に襲われ、駅のホームで倒れた時に助けてくれた見ず知らずの二人。駅員のもとに残されていた真由子の連絡先を、老人は日記に書き記していたのである。
 駅から救急車で病院に運び込まれ、一度は持ち直した老人だったが、桜の花が散る頃に、再び発作に襲われた。そして一人暮らしの孤独な老人は、誰に看取られるでもなく、この世を去ったのだそうだ。
 連絡をもらった時、真由子はしばらく呆然としてしまった。ちょうど老人と再会して夜桜を眺めた出来事も夢だったのではないかと思い始めていた頃だったからだ。
 あの夜の翌朝、真由子は自分の部屋で目を覚ました。どうやって家に帰ったのかも全く覚えていない。ただ老人の言葉だけが心の奥に刻まれたようにはっきりと残っている。だから松田にも連絡した。
「本日はお忙しい中をご足労いただき、誠にありがとうございます」
 到着早々に、住職は二人を本堂へと通した。ご本尊の前には、老人の骨壺が置かれている。しばし、住職を真似ながら慣れない読経を唱えた後、墓地の隅に建てられている集団墓地の納骨堂へと向かった。
「この納骨堂は、実は生前に故人が建てたものなのです」
 そう住職は二人に語りはじめる。今は身寄りのない老人となってしまったが、もともとは家族もいたし、家もあった。長年大工を生業にしていたという。先代の住職と同級生で、今の住職が子どもの頃からよく寺にも出入りしていたそうだ。
 ところが老人は東日本大震災によって、家も家族も全てを失ってしまった。墓も大半は地震や津波によって壊され、この納骨堂だけが無傷で残ったのだという。今では掘り出されたお骨のほとんどが、この納骨堂に納められていた。
 生きる気力を失くした老人は、やがて思い出深い故郷から去り、行方不明になっていたらしい。死に場所を探していたのかもしれないと真由子は思った。
「まさかお骨になって帰ってこようとは。せめて生前に連絡をいただければ、もっと老後の過ごし方にもご協力できたのですが…残念でなりません」
 そう言うと住職は涙を流した。せめてその時だけでも僧侶であることを忘れ、故人との人としての繋がりを大事にしたいと思っている様子だった。
「おいくつだったんですか?」
 真由子は住職に老人の年齢を訊いた。七十歳だという。第一印象で感じた通りの年齢だ。やはり、あの夜の桜の下の出来事は夢だったのだと真由子は思った。九十年以上生きていると話していた老人の言葉は、確かに記憶に残っている。しかし、あの夜の実感が真由子にはない。一本の缶酎ハイで、記憶も無くなるほど酔ったとも思えなかった。やはり夢だと思うのが自然だ。
「九十年以上なんてなかなか生きられませんよね」
 寺に来る前も、読経をしている間さえもずっと緊張していた真由子の口から、ため息と一緒にそんな言葉がこぼれた。
 その時、住職が納骨堂の裏手に枝を伸ばしている桜を指指して何か言った。聞き取れなかった真由子がもう一度と訊くと、住職ははっきりした声で言葉を繰り返した。
「あのソメイヨシノは九十七歳になります。あれはここに植え替えられたものでね。やっぱり故人が手塩にかけました。普通、桜の植え替えというものはなかなか上手くいかないものなんですが、奇跡的に根付きましてね」
 東北の桜は関東よりも後に開花する。そのソメイヨシノは、ちょうど満開を少し過ぎたあたりだった。見上げると、薄緑の葉の間から花たちが真由子を見ている気がした。
(桜は下を向いて咲くんじゃ。出会った人たちが上を向くためにね)
 ふいに耳元で声がしたように感じた。その瞬間、真由子の手の甲に、老人の皺だらけになった固い指先の感触が蘇る。もしかしたら、この桜が老人の思いを伝えに来てくれたのかもしれない。自分でも馬鹿げていると思いながらも、真由子はその推理が真実ならいいと心から思った。
「ご存知かもしれませんが、ソメイヨシノは江戸時代に作られた品種なんです。接ぎ木や挿し木でしか増やせません。実がついても、そこから芽吹いた桜はソメイヨシノじゃないんですよ」
 住職はよく老人から聞かされていた話として、ソメイヨシノの蘊蓄を語ってくれた。
「ソメイヨシノの寿命は長くて100年ぐらいだと言われてます。多くは60年から70年ぐらい。こうして考えてみると、まるで人間みたいですな」
 そう語る住職の背後で、花びらを風に震わせた桜の木が、頷くように揺れていた。

 納骨が終わり、真由子と松田は老人が暮らしていたという海辺の街を訪ねてから東京へ帰る事にした。震災の傷跡は、今もこの街全体に残っている。復興はまだまだ道の半ばだと感じた。
 かつてこの街で家族と一緒に暮らしていた老人の事を思う。松田は神妙な顔つきで遠くの水平線を眺めていた。
「真由子さん、こんな時に話すのは場違いかもしれないけれど、どうしても話しておきたいんです。いいでしょうか」
 松田と洋子が恋愛関係にならなかったことはなんとなく知っていた。彼が尊敬している会社の先輩に洋子を紹介すると、彼女の興味はさっさとそちらへ移ったという。洋子と同じ大学の同じ学部の出身で、なんと研究室の教授まで同じだったそうだ。もともとの二人の縁の方が松田を介することよりよっぽど強い。早々に用済みの身となった時、松田は逃した魚が大きかったことに気づいたのかもしれなかった。
「料理も人も、ちゃんと味わって食べきってみないと良し悪しが分からない」
 真由子は老人が教えてくれた言葉を海に向かってつぶやいてみた。松田は訳が分からず、ぽかんと口を開けている。その顔があまりにも可笑しくて、真由子は笑った。
「逃げずにもっと向き合ってみんとな」
 耳元で老人の声が聞こえた気がする。
(良縁かぁ…)
 松田の顔を見つめながら、今度は心の中でつぶやいた。松田は、あの老人が倒れたとっさの時に駆け寄った。自分のマフラーが汚れるのも構わず差し出した。あれこそが松田の良き一面なのだ。人には複数の面がある。良きも悪きも含めて、一人の人間なのだろう。
 松田はきっと、自分との交際を望んでいる。真由子はそう直感していた。聞くまでもなく、醸し出している雰囲気で十分に伝わっている。思い返せば、いつも恋愛は受け身だった。食わず嫌いだし、一口箸をつけて残してしまうようなどうしようもない女だったのだ。
 あの老人と過ごした夜桜の出来事が、夢でも現実でも、もはや真由子にはどうでもよかった。
「ねえ、このまま北上して、桜前線を追いかけてみない?」
 話しかけようとしていた松田の口びるをさっと指で押さえ、真由子はそう提案した。今度こそ受け身の恋愛を卒業するのだ。一瞬、驚いて目を見開いた松田が、嬉しそうに何度もうなづいた。その顔がたまらなく愛しいと思える。まだ二人の週末は始まったばかりだった。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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