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紫陽花の咲く庭 [短編小説]

 バスタブにお湯をはりながら、ぼんやり庭を眺めていた。今日は久しぶりに朝から晴れて、網戸から吹き込んでくる風が心地よい。梅雨が明けたのだろうか。空の色がすっかり夏の色になっている。仕事がなければ海にでも行きたい気分だ。
 芝生の周囲を囲むように、紫陽花の花が陽射しの中で揺れていた。青い花ばかりなのは、やはり土のせいなのだろう。高校生の頃に生物を担当していた担任から聞いた話だ。紫陽花の花の色は、アントシアニンとかいう色素の働きで青色やピンク色が発色するらしい。土が酸性なら青い花になり、アルカリ性の土ではピンク色になる。白い花の紫陽花は、この色素を持っていないそうだ。
 授業を受けてからもう十年近く経つのに、今でも紫陽花を見るたびに思い出す。酸性とかアルカリ性が、具体的にどんなことかは分からない。ただ、土によって花の色が変わるというのが、なんとなく自分と似ているようで忘れられなくなった。
 今の自分は何色だろう。少なくとも白でないのは確かだ。いろいろな土の上を好き勝手に渡り歩いてきたから、もはや自分でも分からない。ずっと何かを探していたようでもあるし、そうでない気もする。確かなものは何も残っていない。
 3日前に26歳になった。誕生日も仕事で、ここに連れて来られている老人たちの中で迎えた。みんな七十代や八十代ばかりだ。誕生日を祝うケーキもプレゼントもない、ただただ忙しかっただけの一日。十代の頃には微塵も想像しなかった日常が否応なしに通り過ぎていく。
 せめて一本ぐらいピンク色があればいいのに。青い花ばかりの庭を眺めながら、言葉に出来ない思いが胸の奥でくすぶるのを感じた。

「朝からずいぶん眠そうだねぇ」
 ふいに話しかけられて振り向くと、山ほどのバスタオルを両腕に抱えた大野さんがすぐ後ろに立っていた。気配を消して近づいてくるのは、彼の悪いクセだ。忍者かよ、と突っ込みを入れたくなる。心臓の鼓動が、ちょっとだけ速くなった。
「そりゃそうですよ。なんたって八連勤ですからね」
 眠くはないけれど、そうストレートに答えるのも芸がないので、わざと拗ねたような口調の変化球を投げてみる。案の定、大野さんはいつものチェシャ猫みたいな苦笑いをしてくれた。私はこの笑い方を密かに気に入っている。
「社長にはスタッフの補充を頼んだから。これ以上連勤させると本田さんの心が折れそうだって言ったら心配してたよ」
 そう言いながら大野さんは私を押しのけ、バスタオルを所定の位置に置いた。口調からして、私に関する部分は冗談だろう。本気で思っていたなら、社長に報告する前に直接声をかけているはずだ。だからそこには触れず、気になったことだけが口からこぼれた。
「補充って、横浜から社員さんが来るんですか?」
「そうなるね」
「そうですよね。派遣だと高いし、また急に辞められても困るから」
 何気なく言ってしまってから、はっとしてこっそり大野さんの様子を伺う。余計な一言だったかもしれない。スタッフの管理も社員の責任なのだ。でも彼は気にもしていない様子で脱衣所の準備を始めている。背中が無駄話をしている暇はないぞと言っていた。手際よくリハパンや替えのパットが籠の中に並べられていく。今日は午前中に六人の利用者を入浴させなければならない。
「手が止まってるよ」
 私を見てもいないくせに、声だけが飛んできた。背中に目でもついてるのかよ、と小声でぶつぶつ言いながら、風呂場の椅子や滑り止めのマットをセットする。ものの五分程度でだいたいの準備は終わった。
 待っていたように、爽やかな風が窓から吹き込んでくる。誘われるように、もう一度窓の外を見た。それにしても、ほんとうに良い天気だ。いくら介護が必要な老人たちでも、狭い部屋に閉じこもりっぱなしでいるのは、やっぱりもったいない気がした。
「午前中のお風呂が済んだら、庭で日光浴にでもしませんか」
 準備の最終確認をしている大野さんに、何気ない調子でそう言ってみる。 「今日は、お風呂にいれるだけで手一杯じゃないかな」と曖昧な答えが返ってきた。組み立てたスケジュール以外の事に、大野さんはいつも乗り気ではない。
 「でも、とっても良いお天気だし…」と粘ったら、「それで熱中症にでもなったら、誰が責任取るの?」と、やっぱり私を見もしないで早々にやらない結論を出した。
 誰が責任を取るのかと言われてしまったら、何も言い返せない。大野さんは別に心が冷たい人ではないが、仕事で定められていないことについては、とてもクールだ。良かれと思ってすることが、常に良い結果になるとは限らないことを知っている人なのかもしれない。

 大野さんは、ここで派遣のスタッフやパートを束ねている、ただ一人の社員だ。三年前に離婚して、今は小学校二年生の娘さんと二人で暮らしている。直接本人から聞いたのではなく、長くいるパートのおばちゃんが教えてくれた情報だ。
 年齢は私よりひと回り年上で三十八歳。この介護施設の社長とは中学校の同級生らしい。だが、大野さんは実年齢よりもはるかに若く見えた。どの角度から見ても正真正銘のおじさんである社長と同い年だとは、とても思えない。おそらく十歳サバをよんだとしても、誰からも疑われないだろう。それでいて、ちょっとした言葉の端々に、人生経験の深さを感じることが多かった。実に謎が多い。
「お湯の量、それぐらいでいいよ」
 また大野さんに言われて、慌ててバスタブの蛇口を閉めた。続けてシャワーの蛇口をひねる。火照りはじめていた身体に、最初に出てきた水が冷たくて気持ちいい。
 湯加減の調整をはじめると、今度は背中に視線を感じた。見ていないようで、大野さんは私の動きを常にチェックしている。それは好意とか悪意といった類のものではなく、単純に私が失敗するのを防ぐためだ。自分に責任が及ばないための防衛でしかない。だから言われるとカチンとくるし、たまらなく煩わしいのだけれど、ちょっとだけ嬉しくもあったりする。ここに来て、最初に仕事を教えてもらったのが大野さんだったことも、今思えばラッキーだったのだろう。私と同じ時期に入って来た派遣のスタッフは他に二人いたが、すでに全員辞めている。最初に接した人で、その仕事への印象は極端に変わるものだ。
 大野さんは仕事の愚痴を一言も言わない。それが他の人たちと決定的に違う。社員だからとか、九割が女性の職場だからというのも理由にあるのかもしれないが、大野さんには、それだけではない意志のようなものを感じる。決して口数が少ない訳ではない。冗談だって言うし、とにかく何でも知っている。正直、他の誰よりも大野さんと話している時が楽しい。古いマンガや映画の話もできるし、最近のアイドルやタレントにも詳しくて話題の幅が広い。どうしてなのかと訊ねたら、笑ってごまかされた。私にとって大野さんは、とても気になる人なのだ。

 そこで急に我に返った。いつの間にかシャワーのお湯が火傷しそうなほど熱くなっている。同じように頭の中もヒートしていたようだ。胸の奥で今日最初のアラームが鳴る。思っている事に心を占領されてしまうのは、私の悪い癖だ。
 この職場を色恋沙汰で失いたくはなかった。今日は二人きりだからか、いつもより長く大野さんのことを考えてしまったのだろう。こういう職場で仕事以外のことに心を奪われるのは、我ながら不謹慎だと思う。
 私は左右の蛇口をひねりながらシャワーを適温にしていく。それを見計らっていたように、「じゃあ、利用者さん連れてくるね」と大野さんが言った。ひとつの抜けもなく、入浴の準備はすべて整っていた。これから三時間は、老人たちの裸と向き合っていく時間なのだ。心を集中させて、入浴介助のマシーンにならなくてはならない。一回大きく深呼吸して、私は手にビニールの手袋をはめた。

◇ ◇ ◇

 高齢者介護の仕事に就いてから、間もなく半年が経とうとしている。以前の仕事はアパレルショップの店員だったから、全く縁もゆかりもない職種だ。福祉や介護について学校で学んだ訳でも、興味があった訳でもない。高校を卒業した後、最寄り駅の近くにあったアート系の専門学校にしか入れなかった。学びたい事も見つからないうちに何もかもが中途半端で終わった。 
 そこを卒業してフリーターのような状態が続くうちに、ダメな男とつき合い始めた。男がアパートに転がり込んで一緒に暮らすようになり、気づいたら夜は風俗でも働くようになっていた。そんな事の繰り返し。男に不自由したことはないが、相手が変わってもダメな男であることは同じだった。今思えば、最低最悪の生活だ。
 そのうち、私が留守の時に、何代目かのダメ男がナンパした女を部屋に連れ込んでいると知った。そんな状況になってようやく、このままでは自分もダメになると気づいたのだから情けない。
 とにかく何もかも新しく出直したかった。住んでいたアパートを引き払って、この街へ引っ越してきた。ダメ男から逃れ、知り合いにも見つからず、偶然鉢合わせることもない生活を望んだからだ。
 その流れで、この街の駅前にあった派遣会社に登録した。紹介されたのが今の会社で、配属されたのがこの施設だ。施設とは言っても規模は小さい。定員10名に満たないデイサービス専門で住宅地のど真ん中にあった。普通の家をバリアフリーに改装して、トイレや風呂を高齢者でも使いやすくしている。外から見た分には隣近所の住宅とさして変わらない。だから、利用者には親類や知人の家に遊びに来たように寛いでもらうことができる。利用者に「もうひとつの我が家」と思ってもらえるサービスを提供するというのが、この施設のウリだった。
 子どもの頃、父と母が離婚して、私は父方の祖父母の家に、ずっと預けられていた。関東のはずれにある地方都市の、さらに郊外に位置する小さな集落だ。近所に暮らしているのは、細々と農業を営む老人たちばかりで、当然、近くには幼稚園などない。小学校に入学するまでは、ほとんどの時間を老人たちと一緒に過ごしていた。
 新しい仕事を選ぶ時、幾つもあった職種の中で高齢者介護に興味を魅かれたのは、そんな老人たちとの関わりがあったからだろう。派遣会社の職員も、介護が初心者だからといって反対はしなかった。しばらく経験を積んでから、介護士の資格をとる事を勧められたぐらいだ。とにかく老人と接するのが苦痛であるはずがないと思っていた。だが、やはり実際に働いてみると全く予想とは違う。いかに自分の考えが甘かったかを一日目で思い知らされた。

 介護が必要な老人と一口に言っても、その必要度はさまざまだ。お風呂にしても、ある程度は自分で洗える人と、全て介助が必要な人がいる。入浴の前にトイレに連れて行き、しっかりと身体を洗ってから湯船に浸からせるのだが、その間に漏らしてしまう人も多かった。
 厄介なのは、人という生き物が発する臭いだ。身体が大きい分、赤ちゃんよりも始末が悪い。人生の始まりと終わりは、こんな風に重なっているのだと思いながらも、萎びて皺だらけの肉体を洗うのには、かなりの気合と気力が必要だった。
 髪と身体を洗い、様子をみながら湯船に入らせる。湯船の中で足を滑らせたりしないように支えながら脇の手すりを順々に掴ませ、向きを整えてから静かにお湯に身体を浸からせていく。一番緊張する瞬間がこの時だった。 湯の温度は適温に調整してあるのに、それでも一人ひとりの微妙な好みがあって、気難しい老人は必ず文句を言う。ぬるくないお湯でも、寒い、寒いと大声で繰り返された時は、思わず泣きそうになった。気温と湯加減から、どのぐらい湯に浸かると丁度良く身体が温まるのかがわかるようになるまでには、ひと月はかかっただろう。
 それでも、午前中のお風呂の時間は、あっという間に過ぎていくだけ気分が良い。休む間もなく身体を動かしている方が、介護する側としても気がまぎれる。だから私は、入浴介助をできるだけ担当するようにした。むしろ、老人たちの話し相手になって過ごさなければならないホールの方が、自分には不得手なのだと実感したからだ。
 子ども時代に身の回りにいた老人たちは、耳が遠かったり、腰が曲がって動きが鈍くなったりはしていても、皆それなりに頭だけはしっかりしていた。物忘れが激しいと嘆いていても、会話はできた。だが、今向き合っている認知症の老人たちは明らかに違っている。同じことを何度も繰り返し話し続けるのにつき合っていると、少しずつ心を削られていくような感じがした。きっと、辞めていった派遣のスタッフも、この感覚に耐えられなかったのだろう。

 今日は気温が高かったので、老人たちを湯船からは早めにあがらせた。タオルで頭髪をふき、続いてバスタオルで身体をふく。お互いにとって一番幸せな時間だ。椅子に座らせ、ヘアドライアで髪を乾かしてから、リハパンを履かせ、下着と上着を順に身につけさせる。この作業を六人終えた時には、正午の少し前になっていた。
 一息ついてほっとしたら、また意識の中に大野さんが入り込んできた。こっそりとホールを覗くと、お風呂上がりの老人たちに水分を摂らせた大野さんは、疲れないような体操や娯楽をさせながら、同時に昼食の支度を進めている。
 この施設では、ご飯や味噌汁は手作りで、おかずだけ弁当の仕出しを頼んでいた。おかずはハンバーグなどの柔らかいものでも、できるだけ細かく切っておく。ここでも大野さんの能力はいかんなく発揮された。とにかく手際が良い。長年主婦をしているスタッフが舌を巻くほどだ。私が入浴介助用のTシャツと短パンから普段着に着替えてきた時には、もうすっかり食事の準備も終わっていて、いつでも食べさせられる状態になっていた。
「お昼とっていいよ。こっちはやっとくから」
 また大野さんは私を見ずに言う。ところがその後、「あっ、いつもの奴、今日はいらないから」と、慌てて振り向いた。何かがいつもと違っている。急に大事な歯車がひとつ外れた気がした。
 大野さんは必ず先に昼休憩を取らせてくれる。今日だって食事の介助が必要な人が二人もいるのだが、大野さんは一人で器用に食べさせてしまうはずだ。だから、私が一時間の休憩から戻る頃には老人たちの昼食は終わっている。私は近所の喫茶店でゆっくりとランチを食べ、大野さんに頼まれた「いつもの奴」を買って帰るのだ。
 「いつもの奴」というは豚肉の生姜焼き弁当の事で、それを残り物の味噌汁と一緒に二階の事務室で食べるのが大野さんのお決まりの昼休みだった。 ところが、今日は違う。休憩から戻ると、珍しく社長が来ていた。社長の隣には会った事のない女性が座っていて、大野さんと話をしている。三人の前にはデパートの地下で売っているような、ちょっとだけ値段の高い弁当の空箱が積み上げられていた。きっと社長が買ってきたのだろう。昼食を終えた老人たちは皆、椅子に座って、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。
「休憩、いただきました」
 それ以上声をかけていいのか躊躇いながら、私は三人の顔を交互に見ていた。
「ああ、本田さんにも紹介しとくよ。これから、こっちの施設を担当する佐々木さん」
 社長が見知らぬ女性を私に紹介する。
「彼女は、昨日まで横浜の方の担当だったんだ」
「佐々木です、よろしく」
 佐々木という名前は以前から社員たちの連絡簿で見て知っていた。大野さんが話していた補充の社員というのが、この人なのだろうか。たぶん三十代前半だろうと思いながら、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「あと、派遣さんを二人まわすからね。ベテランだから大丈夫だよ」
 なぜか上機嫌な社長に曖昧なうなづきで答えながら、心の中は疑問符で溢れかえっていた。この施設の社員を二人にした上に、派遣スタッフまで加えるつもりなのだろうか。人が増えるのは嬉しいが、今の稼働率ではスタッフが多すぎる気もする。そんな疑念を素早くキャッチしたように、大野さんが言葉を足した。
「彼女はぼくの代わりに担当するんだ。明日からは佐々木さんの指示に従ってね」
 いきなり何かで頭を殴られた気がした。大野さんがスタッフを辞めるという事なのか。そう思ったら、本当に目の前が暗くなって、いつの間にか星が飛びはじめている。
「本田さん?どうしたの?」
 ふっと何も見えなくなった。それでもまだ、私の名前を呼ぶ大野さんの声が、遠くで聞こえる。だが、辛うじて意識があったのは、そこまでだった。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 小学校の教室で、なぜか高校の試験を受けている。顔がはっきり見えない同級生たちが周囲にいた。鉛筆の音がうるさい。耳をすますとその音は掃除機のような音にも聞こえる。嫌な夢を見ているのだと何となく思い始めた時、薄暗い部屋の中で目が覚めた。窓から黄昏時の空が見える。
 一瞬、どこにいるのかわからなくて混乱した。慌てて起き上がったら、また目が眩んで、もう一度布団の上に突っ伏してしまう。ゆっくり目を開いて周囲を見渡し、やっと二階の空き部屋に寝ていたのだと気づいた。腕時計を見たら、午後六時を過ぎていた。冷静に記憶を辿ろうとしたが上手くいかない。それでも午後の仕事を全部すっぽかして寝ていた事だけは確かだった。 周囲は気持ち悪いぐらい静かだ。今日は五時に家族のお迎えがくる老人ばかりのはずだから、とっくに掃除を終えて施錠している時間になっている。まさか二階に寝かされたまま、置いてきぼりにされたとは思えない。まだ大野さんが残っているのだろうか。社長だったら嫌だなという思いがよぎったりする。これからどうしたものか、正直途方に暮れた。
 本当に、私はどうしたのだろう。やっと意識が途切れる前の記憶がよみがえってきた。大野さんが、明日からいなくなる。実際には明日から佐々木というあの女性社員が、この施設の管理者になると聞いただけだ。でも、自分の代わりに担当すると言った。あの時の大野さんの瞳は、いつもとは違っていた。明日からは、もう来ない。確かに、そう言っているように見えた。  
 ぼんやりしていると、階段を上がってくる音が聞こえてきた。体格のいい社長ならもっと大きな音のはずだ。大野さんなのだと感じた。いつもは気配を消しているくせに、こんなにはっきり聞こえるという事は、わざとそうしているのだろう。
 足音はどんどん部屋に近づいてくる。目覚めているのを知られたくなくて、慌てて毛布を頭からかぶった。部屋のドアを開く気配がする。心臓がバクバクと音をたてていた。
「本田さん、具合はどう?」
 いつもと変わらない大野さんの声だ。ここで寝たふりを続けたら、大野さんはどうするだろう。私が起きるまで待っていてくれるだろうか。それとも起こそうとするだろうか。布団の中で大野さんを待っているという状況に、身体の奥がしびれ始めていた。シャツのボタンに指先が触れる。無意識にはずしてしまうのが怖くて、手のひらを握りしめた。下着が身体を締めつけている感触が、やけにはっきりしてきて煩わしい。毛布の外側には拷問のような沈黙が漂っている。結局、それに耐えられなくなった私は、ひょこりと顔を出した。
 大野さんの視線が、容赦なく私に注がれている。また気絶しそうだ。手が伸びてきて、私の額に触った。このまま死んでしまうのではないかという思いで、心の中がいっぱいになっていく。「熱はないみたいだね」と言って、左腕の時計を見た。
「元気が取り柄の君が急に倒れたから、ほんとに驚いちゃったよ」
 そう言って大野さんは、いつものチェシャ猫みたいな笑顔になった。その顔を見ていたら、「すみません」という蚊の鳴くような声を出すのが精一杯だった。
「無理させちゃってたんだな。ほんとにごめん」
 八連勤という言葉が頭に浮かんだ。でも、それが倒れた理由ではない。「いったい私、どうしちゃったんでしょう?」
「急にぶっ倒れたんだよ。覚えてないの?」
「目の前が真っ暗になった事しか…」
「佐々木さんがいて助かった。彼女、准看護師の資格も持ってるからね」  
 そう言って大野さんは、また笑顔を見せた。大事な事を聞かなければと、頭がはっきりとしてくる。
「大野さんは、もうここに来ないんですか?」
 穏やかになりかけていた心臓が、また鼓動を速めた。もし答えがイエスなら、勇気をふり絞ってでも言わなければならないことがある。食い入るように見開いた私の目を、大野さんはじっと見返してきた。
「前の女房と復縁したんだ」
 あまりにも予想外の言葉で、再び頭を殴られたような衝撃を受けた。今度は頭の中が白くなっていく。過去形で語られている決定事項に、何も言葉が出てこなかった。
「横浜に女房の実家があってね、そこで一緒に暮らすことになったんだよ」
 どんどん暗くなっていく部屋の中に、大野さんの声だけが響き続けている。ずっと母親のことを慕い続けていた娘さんの存在。離婚後も養育について頻繁に連絡を取り合っていたこと。最近、奥さんのご両親がたて続けに病気で倒れ、その介護が大変になってしまったこと。そんな様々な事情が重なった時、大野さんは別れた奥さんへの愛情を再確認したのだという。
 昔から事情を良く知っている社長は、奥さんの実家に近い横浜の施設に大野さんの担当を変えたというのが経緯だ。当然、よく考える必要もないぐらい、私は蚊帳の外だった。ただの派遣スタッフが口をはさむことではない。たとえ、この半年ほどの間で大野さんへの特別な感情がどんなに膨らんでいたとしても。
「どうする?もう少し横になっていたければ、遠慮しなくていいよ」
 予定外の事にはクールな大野さんが、そう言ってくれただけで満足だった。
「もう大丈夫です。これまで、ありがとうございました」
 私は不器用な空元気を出して起き上がると、頭上にぶら下がっていた蛍光灯の紐を引っ張る。二人を包んでいた濃密な夜のとばりが、一瞬で青白い光にかき消された。


 大野さんがいなくなった施設にも、当り前のように日常は過ぎていく。残念ながら梅雨明けはもう少し先だったようで、庭の紫陽花だけが雨の中で嬉しそうに咲き誇っていた。
 相変わらず私は、老人たちをお風呂に入れたり、食事の世話をしたり、体操や娯楽や際限なく繰り返される同じ話につき合っている。
 この施設でただ一人の社員となった佐々木さんは、気配りのポイントが大野さんと微妙に違っていて新鮮だ。彼女からは、「若いのに愚痴を言わなくて立派だわ」と、分不相応な評価までもらっている。女同士の気楽さで、いろいろ相談にのってくれるのが心強い。
 佐々木さんには、全てを受け入れるような懐の深さがある。彼女と話すようになって、真剣に資格を取ろうと考えるようになった。介護士はもちろんだが、今は准看護師にも興味がある。もう少しお金を貯めたら、勉強をはじめよう。
 大野さんへの特別な気持ちは、まだしばらく忘れられそうにない。片想いでしかなかったけれど、ダメな男ばかり好きになってきた私の価値観を大きく変えてくれた人だ。最後にもらった宝物だけを残して、あとは全部心の一番奥にある引き出しに、大切にしまっておこうと思う。

 あの最後の日の夜、帰り支度を済ませて階下に降りると、施設内の点検と施錠を終えた大野さんが、灯りを消した暗い部屋の窓辺に佇んで庭を眺めていた。
「また雨が降りだしたよ。昼間はあんなに晴れていたのに」
 ガーデンライトに照らされた紫陽花の花が、蕭々と降る雨の中で微かに揺れている。
 私は大野さんの隣に立って、一緒に庭を眺めた。「青い花ばかりだな」と、初めて気づいたように大野さんが言う。紫陽花は根をはる土によって花の色が変わるのだと、ひとくさり土と花の色の関係を大野さんに話したら、物知りじゃないかと褒めながら頭を撫でてくれた。大きくて、とても温かい手だった。あのチェシャ猫のような笑顔が窓ガラスに映っている。
「アパートまで車で送って行こう」
 そう言って大野さんの手が私の肩を叩いた瞬間、私の心は破れてしまった。止まらない涙が、窓の向こうで降り続いている雨のように目から零れてくる。とても大野さんの顔は見られない。この唐突な涙の理由を、どう説明したらいいのだろう。そう思えば思うほど勝手に心が追い詰められていく。 支離滅裂になっていく思考は、徐々に私を狂わせていった。いっそ何もかも気持ちをぶちまけてしまおうか。ここで裸になって、部屋の片隅に置いてある利用者用のベッドに大野さんを押し倒したらどうなるだろう。半ば強引にでも身体の関係を迫って、もし拒絶されたら、またこの街を出て行けばいい。行き場のない心の中で、もはや妄想と化した思いが悲鳴のように叫んでいた。固い殻の中から水だけが外にあふれ出し、身体を濡らしていく。

 でも、大野さんは私が思っている以上に本物の大人だった。それは、私の中の常識や非常識を総動員しても追いつけないぐらいに。
「昨日、娘が紫陽花の花をプレゼントしてくれたんだ」
 静かに話しはじめた大野さんの声が、私を包んでいた。
「紫陽花の花って、『移り気』とか『浮気』とか、ネガティブな印象を受ける花言葉しかないと思ってたんだよ。だけどね、紫陽花の場合、花言葉は花の色によっても違うんだってさ」
 大野さんは、相変わらず庭を見ている。
「娘が教えてくれたんだ。青は『辛抱強い愛情』、ピンクは『元気な女性』、そして白は『寛容』なんだって」
 その時、庭に咲いている紫陽花の青い花が、ふいに大野さんと重なった。とても似合っている気がした。続きの言葉がないまま、再び沈黙の時間が流れる。一気に膨れあがった私の悲しい妄想は、息を吹き込むのをやめた風船のようにしぼんでいった。
 ひとしきり声をあげて泣いた私の嗚咽の間隔が、少しずつ穏やかになってきた頃、大野さんの口から最後の言葉がこぼれた。
「紫陽花は根をはる場所を選べないけど、人は自分で選べるんだ」
 大野さんのつぶやきが、私へのものだったのか、自分自身に向けたものだったかは分からない。でも、その言葉を聞いた瞬間、ずっと私を縛りつけていた見えない何かが解けていく気がした。二十五年間、無意識に探していた大事なものを、大野さんが紫陽花の咲く庭で見つけてくれたのだ。あの時から、その言葉は私の大切な宝物になった。

 一日に何度か、私は窓辺に佇んで、この庭を眺めている。紫陽花の「移り気」や「浮気」という花言葉は、この施設にたどり着くまでの私だ。それが今は、自分の意志でこの場所を選んだと言い切れるようになった。社長に直談判して、派遣社員から直接雇用にしてもらったのも、ちゃんと自立していこうと考えたからに他ならない。
 デイサービスの業務時間は、長いようでいて案外短かった。夜は十分に資格のための勉強をする時間が確保できる。私は自分なりの花を咲かせると決めた。青色でもピンクでも白でもなく、私はその全部を混ぜた深い紫の花を目指したい。もし大野さんに話したら、欲張りすぎると笑われるかもしれないけれど、辛抱強い愛情と寛容さを持って生きる元気な女性になるのだ。(咲かせる花の色は、自分で決めなくちゃね)
 雨の中に咲く紫陽花を眺めながら、もはや口ぐせになっている言葉を、そっとつぶやいてみた。青い花が揺れている。窓ガラスにぼんやりと映っている自分の顔が、一瞬だけチェシャ猫のように笑った気がした。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。

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