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不在の果て [短編小説]

 夕暮れの貯木場は赤く染まっていた。山から切り出された杉の巨木が積み上げられている。その一番高い所に座って夕焼けの空を眺めるのが、子どもの頃から美樹は好きだった。
 貯木場からは海が見える。東京で暮らすようになるまでは、夕陽は海に沈むものだと思っていた。赤く燃える翼を広げた火の鳥のように沈んでいく太陽が描きだす壮大な光景を、今でもときどき夢に見る。そんな時は、決まって仕事が上手くいっていない。心が何かしらの充足感や感動を求めて記憶を再生させるのかもしれないと美樹は思っていた。
 久しぶりに故郷を訪れたのは、祖母の具合が悪いという報せを受けたからだ。幼い頃に亡くなった実母に代わって美樹を育ててくれた祖母の千代子は認知症が進んでしまい、隣の松江市内にある高齢者施設に入っている。
 実家を訪れる前に、美樹は施設に立ち寄った。事前に連絡を入れていなかったので、受付でかなり待たされることになった。数年ぶりの訪問だ。受付の女性職員は知らない顔だったし、しっかり身元確認をされるのは仕方ないと思えた。
 やがて施設の奥から男性職員が現れる。その顔を見て、美樹は驚いた。
「美樹ちゃん、久しぶりだね」
「和真君、どうしてここにいるの?」
「どうしてって、こっちで再就職したんだよ。Uターンって奴」
 そう言って笑う男性職員は、間違いなく高校の同級生だった饗庭和真だ。美樹と同様に東京の大学へ進学して、そのまま大手の銀行に就職したと聞いている。その和真が松江で高齢者施設の職員をしているということが、にわかには信じられなかった。
「いつか会えると思っていたけど、なかなか機会がなかったね」
 和真は面会者用のスリッパを美樹に勧めながらそう言った。穏やかな口調なのに何となく非難されているように感じて、美樹は答えられなかった。
「アナウンサーやってるんだって?お父さんから聞いたよ」
 忙しいのだろうと労ってくれる和真の言葉に、また居たたまれない気持ちが疼く。局に勤めている訳ではない。忙しいと言えるほどの活躍はしていなかった。フリーのアナウンサーなど、東京には掃いて捨てるほどいるのだ。イベントや結婚式の司会でさえ、競争は激しい。フリーで生きることの難しさを思い知らされてきた数年間だった。
「和真君は、どうして銀行を辞めたの?」
 美樹は話の方向を変えたくて、そう和真に質問した。だが、話をはぐらかしたいからだけではない。日本で一番優秀だとされる国立大学に進学し、ある意味望めば何にでもなれたはずなのに、なぜ今ここにいるのか。それは確かに訊きたい疑問でもあったからだ。
「どうしてだろう。自分でもよくわからないなぁ」
 和真は廊下を歩きながら、振り向きもせずにそう答えた。回廊形式の建物は、一階は集団で使用する食堂などになっており、主に近隣の高齢者がデイサービスで訪れている。その賑やかな雰囲気の中を、和真の背中が揺れながら通り過ぎて行った。
「千代子さんの部屋は3階になったんだ。かなり認知症が進んじゃったからね」
 エレベーターは利用者以外使わないからと階段を上る。綺麗に塗られた白い壁は、どこか冷たい雰囲気がした。その中を和真の大きな背中が上っていく。昔、一度見たことがあると美樹は思った。柔道をやっていた和真は高校時代から人気があったことを思い出す。学業の成績も優秀で、スポーツも万能。そんなスーパーマンのようだった和真が、こうして故郷の高齢者施設で働いている事に、やはり違和感を感じる。
 やがて階段を上り切ると、広いフロアが広がっていた。そのフロアを囲むように、それぞれの個室が円状に設置されている。中央には360度全体を見渡せるようにセンターが置かれており、看護師や介護職員が常駐していた。何人かのお年寄りが虚ろな目をして歩き回っている。きっと無自覚に徘徊しているのだろう。その中に、車いすに乗った美樹の祖母の姿があった。
「千代子さんは、いつもフロアにいるんだ。ずっと海を見ているんだよ」
 周囲に高い建物がないためか、3階からの展望は素晴らしかった。自室が山側にあるためか、眠るとき以外はほとんど海側に面した窓際まで出てきているらしい。
「お婆ちゃん、海が好きだったからね」
 美樹はそう言うと、真っ直ぐ祖母のもとへと進んだ。きっと忘れられているだろうと覚悟していたが、実際に見知らぬ人のように反応されるとしたら胸が痛むだろう。出来るだけショックを和らげようと、深呼吸をしてから祖母の前にしゃがんだ。
「お婆ちゃん、お久しぶり」
 膝の上に置かれた手を握って、目を見つめる。その瞬間、祖母の目がキラリと光った気がした。
「まあ、七海さん」
 祖母が美樹の母親の名を口にする。驚きが美樹の胸に広がった。
「七海さん、どこに行ってたのよ。赤ん坊を置いたままで」
 明らかに非難するような視線が美樹に向けられている。どうやら美樹を亡くなった母親の七海だと思い込んだようだ。掴まれた腕がとても痛かった。
実家には写真の一枚さえも残っていなかったから、美樹は自分の母親の顔を知らない。もしかしたら、大人になった自分は母親によく似ているのかもしれないと美樹は思った。
「君のお母さんと間違えているみたいだね」
 和真も同じように感じているらしかった。亡くなった嫁を生きていると思う程に、祖母の認知症は進んでいるのだ。美樹は自分が忘れられている以上にショックだった。
「あなたに出雲大社のお参りなんかさせなきゃよかった。うちの嫁になったのに、他の男との縁結びを祈るなんて。あなたは人でなしよ」
 祖母の身体からどす黒い怒りがどんどん滲みだしてくる。手が震え、歩けないはずの脚が前後に動いていた。
「千代子さん、この人は七海さんじゃないですよ。他人の空似です」
 まずいと思ったのか、和真が間に割って入ってくる。美樹の腕を掴んだ老婆の細い腕を無理がかからないように支え、今にも折れそうな指を穏やかに開かせていった。大きな身体で美樹の身体を隠し、車椅子を居室の方向へ向ける。
「お疲れになったでしょう。ちょっとお休みしましょう」
 そう言うと、和真は車椅子を押して千代子の部屋へと向かった。
「美樹ちゃんはそこで待ってて。話すのは少し落ち着いてもらってからにしよう。もうスイッチが入っちゃってるから、一度リセットしないと」
 和真は途中で振り向きながらそう言った。専門家が言うのだから、従うしかないと美樹は思った。
 人の脳が未だに不可思議なものであるということは何となく知っている。以前ナレーションを担当した番組でも、著名な脳科学者がそう語っていた。認知症でなくても、時に異なった記憶を上書きしたり、事実を歪めたりするものだという。
 それにしても、祖母は亡くなった美樹の母親に関する記憶を、どうしてあんな風に塗り替えたのだろう。言葉をそのまま解釈すれば、母は父以外の男と駆け落ちでもしたように思える。そんな事実はないはずだ。
 だが、妙に美樹の心はざわついた。残っている写真が一枚もないことや、墓参りに行ったことがないことも、これまでまったく気にしていなかったけれど、考えてみればおかしいと思えてくる。
 それらは全て、父が再婚した後妻のせいだと思っていた。実家は出雲大社の近隣にある老舗の旅館だが、美樹は後妻となった今の女将とは相性が悪く、もう何年も帰省していない。今回も本当は実家に寄りたくなかったのだ。しかし、父親からどうしても今後の事で話し合いたいからと懇願されて渋々了承した。
 大学を卒業しても実家には戻らないと話した時、父親は美樹の前で泣いた。その涙がいったい何を意味していたのかも、今現在美樹のことをどう思っているのかも正直わからない。だが、たまに届く手紙には、実家の近況がびっしりと書き綴られている。それを読むたびに、本当は故郷に戻ってきて欲しいと思っているのだろうとは感じていた。だから今回は、面倒くさがらずにちゃんと話し合おうと思ったのだ。
「横になったら、少し落ち着かれたみたいだ。一時間ほど眠ったら、もう一度話してみようか」
 千代子を寝かしつけた和真が、そう言って美樹を食堂に誘った。利用者たちの昼食は終わっているそうなので、あとは職員が交代で食べるらしい。面会に来る家族が一緒に食べることもあるらしく、何食ぶんかは余裕があるという。
「気持ち悪くなければだけど」
 和真はそう言って美樹の顔を見た。施設の食事に嫌悪感を示すような人がいるのかもしれない。そういう家族は、こうした高齢者の施設を姥捨て山か何かのように思っているのかもしれないと美樹は思った。
「気持ち悪くなんかないよ。ちょうどお腹が空いてたとこ。喜んでいただくわ」
 美樹がそう答えると、和真は嬉しそうに笑った。また高校生時代の面影がだぶった。同じ東京で暮らしていても一度も会わなかったのに、まさかこんな場所で会うなんて。美樹はやはり不思議に思えた。

◇◇ ◇ ◇◇

 施設の昼食は一階の隅にある厨房で作られていた。漁港で水揚げされた新鮮な魚介類と近隣の農家が作った野菜を材料に調理されている。多くの施設がお弁当を外注しているらしいが、ここでは食を大事にするのがコンセプトなのだと和真は言った。
 美樹はその料理の美味しさに驚いた。全体に柔らかい料理ばかりだし、味付けも塩分などを控えめに作られていたが、薄味すぎて不味くならないように工夫されている。季節柄なのか炊かれていたのは栗ご飯で、とても美味しかった。
「すごいね。まるで旅館の食事みたい」
 素直な感想を述べると、和真は顔を皺くちゃにして笑った。
「これはね、ぼくの手柄なんだ。不景気で職にあぶれた料理人を雇ったんだよ」
 和真がこの施設で働くようになったのは4年前だという。美樹が最後に訪れたのは5年前だから、その後のことだ。正直、この高齢者施設にあまり良い印象を受けていなかった。雰囲気も暗いし、どちらかというと昔の精神病院のような薄気味悪さを感じていたのだ。
 ところが今回来てみて、外装から内部の作りまで大きく変わっていて驚いた。まだ所どころに冷たさは感じるが、全体には開放的で明るくなっている。それが和真を中心とした改革の結果だと聞いて、美樹は納得した。
「ここのオーナーが父の旧友でね。経営破綻しそうだという話を聞いて、来ることに決めたんだ」
 大手とはいえ銀行に勤めて数年の和真が経営陣に加わることには、反対する者も多かったことだろう。田舎はどこもいたって閉鎖的だ。きっと和真の実家も資金を出しているに違いないと美樹は思った。
 だが、そうだとしても僅か4年ほどで経営を立て直し、今は県内に幾つかの施設を広げているのだというのだから、和真には並外れた才能があったのだろう。はじめは単なる職員なのかと思っていたが、この大きな施設の管理者を兼ねながら全体を統括している責任者なのだと聞いて、美樹は羨望の眼差しを向けた。
「何者かにはなる人だと思ってたけど、やっぱり和真君は凄いね」
 自然とそんな言葉が美樹の口からこぼれる。二人にとって空白の時間が、とても長く感じられた。
「美樹ちゃんだって凄いじゃないか。ちゃんと夢を実現させたんだから」
 高校時代から放送部に入り、将来はアナウンサーになるのだと言っていた美樹の言葉を和真は覚えていた。
「あの頃から輝いてたもんなぁ」
 和真は懐かしそうにそうつぶやいた。もし、あの頃に和真とつき合っていたら、自分の人生はどうなっていたのだろう。ふとそんな思いが美樹の胸にこみ上げてくる。
 高校時代の最後の文化祭が終わり、その後夜祭で和真に告白された。秋風が吹く校舎の片隅で美樹は「考えさせて」と言ったまま、その後もちゃんと答えなかったのだ。
 和真のような優秀で文武両道のスーパーマンに好かれるほど自分は魅力的な女性だという満足感だけで良かった。周囲の友人が羨望する中で、美樹は曖昧な未来を見ていたと言える。東京のテレビ局で女子アナになって、やがては有名人と結婚する。その可能性があるのかを確かめるために和真に近づいた。だから、本当に和真とつき合う必要はなかったのだ。
 決して嫌いだった訳ではない。けれど、受験の方が仮の恋人より大事だったと言える。色恋より現実の利益だ。何としても志望大学に合格して実家を出たかった。自由な身になって、夢であるアナウンサーになり、子どもの頃に得られなかった幸せな家庭を持ちたいと願った。そして何の根拠もなく、それが出来ると信じていた。和真ほどのスーパーマンが、自分という女性に好意を持ったのだから。
 だから、和真が告白するまでとその後で、大きく態度を変えた。できるだけ顔を合わせないようにしたし、もともと志望大学のランクは和真の方が遙かに上だったから、学校の特別授業でも会わずに済んだ。今思えば、なんと自己中心的で酷い仕打ちをしたのだろう。美樹は胸の奥が痛むのを感じた。
「実はね、美樹ちゃんのお父さんから手紙を預かってるんだ」
 急に和真がそう言った。美樹の意識が急速に現実へと引き戻されていく。
「もしかしたら、君が実家に寄らずに帰ってしまうかもしれないって心配してね」
 父親は娘の性格をよく知っている。祖母の謂れのない怒りに触れた瞬間、美樹は約束も何も放り出して東京へ戻りたいと思っていた。それを見越した父親は、一手先んずる手段をこうじていたのだろう。
「ぼくがこんなことを言うのは筋違いかもしれないけれど、もう美樹ちゃんは逃げない方がいいと思う」
 和真は預かっていた手紙を差し出すと、真剣な目で美樹を見つめていた。美樹は、和真が逃げるという言葉を選択したのはなぜかと引っかかる。
「私、逃げてるの?何から?」
「全部だよ。君の人生の全てから」
 和真はそう言うと、急に席を立った。
「千代子さんの様子を見てくる。午後は時間を空けてあるから、その手紙を読んだら事務室に来て」
 大きな背中が、また遠ざかっていった。だが、思い出の中の背中とは違う。それは、何かを乗り越えてきた男の背中だと美樹は思った。きっと和真は、すでに何もかも知っているのだろう。だからこそ、逃げるなと言ったのだと美樹は感じた。
 これまで父が送ってきた手紙の中でも一番の分厚さだ。封を切るまでに十分以上の躊躇があった。こういう所が逃げているという事なのだろう。美樹はやっと諦めて、白い封筒を破った。

 ◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 父親の手紙自体は思ったほど量が多くはなかった。分厚かったのは戸籍謄本のコピーなどである。それらの無機質な感じが余計に心をざわつかせた。
 最初の行に「美樹へ」と書かれた文字は、所どころ微妙に震えている。それもまた、嫌な感覚を美樹に与えた。

美樹へ
 お前がこの手紙を読んでいるということは、すでに施設で母に会っているということだろう。あの気丈だった人が、今はただ海を眺めるだけの老人になってしまったことは、私にとって深い哀しみであると同時に、後悔の象徴でもある。
 この半年ほどで、母はお前の母親である七海への恨み言を言うようになった。海を眺めることが、その引き金になっているらしい。きっと七海という名前を思い出すのだろう。
 お前にはずっと秘密にしていたが、七海は亡くなったのではない。お前を産んで半年ほどした秋の日に、男と駆け落ちしたのだ。相手は布団のセールスをしながら全国を渡り歩いているという男だった。
 七海はその男と関係を持ち、お前や私たちを捨てた。実の娘のように可愛がっていた母は、きっと男に騙されたのだと警察に行き、興信所を雇ったりしていたものだ。だが、その後の消息はいっさい分からないまま時間だけがいたずらに過ぎて行った。
 やがて七海が失踪してから3年が経ち、まず親戚筋が離婚したらどうかと言い始めた。老舗旅館の若女将が不在では、将来が危ういというのが理由だ。失踪から生死がわからない状態が3年間以上続いた場合は離婚が認められる。
 だが、その時は母が承諾しなかった。自分が女将として頑張れるうちは、不在だろうと何だろうと、若女将は七海なのだと言い張ったのだ。
 きっと大変だったと思う。だが、母は七海を心底気に入っていた。だからこそ厳しく女将の仕事を学ばせようとしていたのだが、今思えばそれが仇となったのだろう。
 失踪から7年が過ぎ、とうとう母も根負けして、家庭裁判書に申し立てを行うことに同意してくれた。ちょうど不景気なのもあって、七海にかけていた生命保険を当てにせざるを得なくなったというのも大きな理由だった。
 私は裁判所に申し立てを行い、七海の失踪宣言を出してもらった。それで法律上は七海が死亡したときと同じ扱いになる。保険金を受け取り、旅館の経営は持ち直せた。同時に幾つかの縁談話があり、お前が小学三年生になった時に再婚したのだ。
 あとは、お前も知っている通り。お前が中学生になる頃から母はどんどん認知症になっていき、今はますます悪くなっている。そして、あれほど心配していた七海の事も、すっかり憎しみの対象になってしまった。
 お前は七海の写真が1枚も残っていないことを悲しんでいたね。あれは残っていなかったのではなく、私が全て捨てたのだ。庭で燃やした。最初は母の目に触れさせないために。そして後にはお前に思い出を残さないために。
 先日、お前がナレーションを担当したというテレビ番組の記事を雑誌で見た。お前の写真も載っていたね。活躍が嬉しかったのと同時に、あまりにも七海と顔立ちが似てきたことに驚かされた。やはり母子なのだなと思いながら、もうひとつの真実に打ちのめされていく自分がいたよ。
 はっきり伝えよう。お前は、私の娘ではない。お前の父親は七海が駆け落ちしたセールスマンの男だ。最初にそれを知ったのは、血液型からだった。お前はA型で、私はO型だ。そして七海はB型だった。O型とB型の夫婦から、A型の子どもは生まれない。その事実を知った時、私は再婚することを決めたのだ。
 お前にとって妻は性格の合わない相手だったのだろう。あいつも仕方ないと諦めていたよ。それでも、血のつながらない母親としてやれることは全て嫌がらずにやっていたと思う。お前にとっては気にくわない事ばかりだったかもしれないが、いつかお前が母親になったら、あいつの真意はわかってくれると信じていた。だから、お前が結婚するまでは、真実は隠し通そうと妻とも話していたのだ。
 しかし、母が七海への恨み言を言うようになって事態は変わった。勘の良いお前のことだから、もしかしたら疑念を抱くかもしれない。この街には、真実を知る者がたくさんいる。お前が本気で真実を知ろうと思えば、苦も無く辿りついてしまうだろう。大学に進学したまま東京で暮らすようになり、ほとんど帰省もしないのを良しとしたのには、そんな背景もあったのだ。
 だが、母も余命が短い。施設でもずっと海を眺めて過ごしているという。お前の顔を見たら、きっと七海が戻って来たと思う事だろう。はじめこそ恨み言を言うかもしれないが、本心では七海を愛していたのだ。血はつながっていなくても、本当の娘のように思っていた。
 だから、そんな母の晩年を、お前の力で穏やかなものにしてやってほしい。それを伝えたくて、こんな手紙を書いた。本当なら、会って話さなければならない事だろうが、お前が会ってくれるかさえ自信がなかったのだ。
 正直、お前は七海によく似ていると思う。思い込んだことは頑として曲げない。きっと私の手紙だけでは半信半疑だろうと思うから、七海の失踪について証明できるものをコピーして同封した。父親として、娘に対する態度かと問われれば、自信を持って肯定できることではないとも思う。娘を傷つけてまで母親を大事にするのかと罵られるかもしれない。だが一方では、きっとお前なら分かってくれるという思いもある。少なくとも、七海が失踪した年齢よりも今のお前は大人になっているから。仕事で沢山苦労しているだろうから。
 もう一度、お前にお願いしたい。母の、お前のお婆さんの心を、穏やかにしてやってほしい。そして願わくば、改めて直接語り合える機会を、この父にももらえないだろうか。お前に話しておきたい事がたくさんあるのだ。
 人生は一度きりだと、よく七海は言っていた。神仏のご加護も、生まれ変わりのようなものもないと思っていたらしい。母が出雲大社のお参りを勧めた時も、「出雲の神より恵比寿の紙」だと言って笑っていた。母は「色恋よりも金に恵まれたほうが良いと言うんだから商売に向いているわ」と喜んでいたが、七海の本心は神仏など関係ないという意味だったのだろう。
 自分が信じ、自分が選んだ道を迷うことなく進んでいく。七海はそういう女だった。その血は、間違いなくお前にも流れている。その事実を真正面から受け止めて、これからを歩んでほしい。今回、将来について話したいと言ったのは、そういう意味だ。良い結果に繋がる事を、心から祈っている。
                             父より

 しばらく無音の時間が過ぎた。もちろん人の声も物音も周囲にあふれていたと思うが、美樹は何も感じなかった。あまりにも情報が多すぎて、理解できる量をはるかに超えている。それが正直な気持ちだったといえる。
 やっと時計を見ると午後5時を過ぎていた。ふと和真の顔が浮かぶ。午後は空けてあるからと言っていたけれど、あまりにも待たせ過ぎだと思った。慌てて父からの手紙をバッグにしまうと、事務室へと向かう。
 和真はいた。椅子に深く腰掛けて、目を閉じている。眠っているのかもしれない。美樹は静かに近づいた。
「これからどうしますか?」
 ふいに和真が目を閉じたままそう言った。立ち止まった美樹は、じっと和真を見る。また時間が流れた。逃げちゃいけないのだと美樹の心が叫んでいた。
「もう一度、お婆ちゃんに会いたいんですけど」
 美樹がそう言うと、和真は静かに目を開いた。デスクの上の電話で3階に内線をつなぐ。千代子が起きているかを確認したようだ。
「行きましょう。お婆さんが待っていらっしゃる」
 和真はそう言うと、また先に立って歩き始めた。
 3階に着くと、フロアは赤く染まっていた。窓から夕陽が差し込み、海の彼方には夕焼けの空が広がっている。その中に、祖母の千代子が車椅子に座って佇んでいた。
「また、七海さんだと言うかもしれませんね」
 そう和真が言った。構いませんと美樹が答える。そのまま美樹は、つかつかと祖母の傍らに歩み寄った。
「お母さん、また一緒に夕焼けが見られて幸せです」
 美樹は、祖母の顔を見つめながらそう言った。七海になった気持ちで述べた言葉だ。虚ろだった祖母の目が、光を取り戻していく。
「もうすぐ夕飯ね。でも、もうちょっとこうして眺めていましょう」
 祖母はそうつぶやいた。美樹は祖母の痩せ細った手の上にそっと手のひらを重ねる。
「いつか美樹とも一緒に見たいわね。親子三代で」
 何年かぶりで聞く祖母の笑い声は、乾いた木がこすれ合うような音に聞こえた。
「そうですね。きっと叶いますよ」
 美樹はたまらなくなって、嗚咽が洩れそうな口を押える。海へと沈んでいく夕陽が、赤く燃える翼を広げた火の鳥のように見えた。だがそれは、仕事が上手くいっていない時に見る夢とは違って、心の奥のくすぶりをも燃やし尽くしてくれるように感じる。
 美樹は改めて祖母の手を強く握りしめた。その指先に、かすかに握り返してくる祖母のぬくもりが伝わってくる。不在の果てに辿り着いたこの場所で、血のつながり以上の何かが、確かにふたりを繋いでいた。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。


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