見出し画像

春の雨に傘はいらない [短編小説]

 本当に心の優しい人は、決して優しさの押し売りはしない。人の心のあり様について考える時、水野奈美には必ず思い出すエピソードがあった。
 もう二十年ほど前になるだろうか。奈美はまだ小学生で、季節はちょうど今頃だ。塾からの帰りに自転車で家路を急いでいると、突然雨が降り出した。そのまま止まらずに帰りたい。そう思いペダルを踏み込んだ矢先に、目の前の信号が赤に変わる。
 いろいろな事が重なっていた時期だった。学年が変わる直前の三月の終わり、父親の会社の倒産や両親の離婚で、奈美の周囲はざわついていた。その日は転居する前の最後の塾だったはずだ。
 小学生の奈美にとっては、きっと全ての不運が押し寄せてきたような心境の頃だっただろう。信号が変わって止まらなければならないことさえも、身に起きた不運のひとつのようで、とても哀しくなった。そんな時に、その出会いがあったのだ。渋々と自転車を止めて信号が変わるのを待っていると、すぐ傍に人の気配がした。
「信号が変わるまでだけど」
 そんな言葉と同時に、髪を殴りつけていた雨粒の衝撃が消えた。奈美が振り向くと、見知らぬ女性が傘をさしかけてくれている。たぶん当時の母親より若いだろうということは分かったけれど、顔は覚えていない。
 彼女は、奈美の顔を見るでもなく、ほんとにさり気なく傘をさしかけてくれたのだ。その数秒間で、どれほど気持ちが温かくなったことだろう。
 だが幼かった奈美は、信号が青に変わった途端、「ありがとうございました」とだけ言って、力いっぱい自転車のペダルを踏んだ。それが未だに奈美の胸に後悔として残っている。もっとちゃんとお礼を言いたかった。
 走り出した奈美の顔に、再び強い雨が当たる。それでも彼女がくれた温もりは消えなかった。一期一会。ずっと後になって知ったその言葉が、彼女との出来事にぴったり当てはまる気がした。

 不思議なものだ。人によっては些細な出来事としか思えないだろう経験が、奈美にとっては、その後の生きる力になったと言える。母親と二人で暮らすようになって、お金がない貧しさを知った。それでも心まで貧しくならずに済んだのは、明らかにあの時、あの女性がさし掛けてくれた傘のお陰だと奈美は思っていた。
 まだ母子家庭の子どもの七人に一人が貧困と言われている今のような時代ではなかったが、それゆえに当時の貧しさは余計残酷に子どもの心を傷つけていた。学校でも、人気の中心になっているのは豊かな家庭の子どもたちばかりで、奈美はずっと肩身の狭い日々を過ごしていたのだ。それでも、心は腐らなかった。中学生の時、見知らぬ不良たちにレイプされた時でさえ、奈美は立ち上がることが出来たのである。

 転機が訪れたのは十六歳の時だ。都立高校の定時制に通い、昼間はバイトの毎日。その日、たまたま立ち寄った原宿で、奈美はスカウトされた。
 声をかけられたのはモデルの仕事だ。はじめのうちは交通費程度の給料がもらえるだけだったが、カタログや広告、雑誌などへの露出が増えるにつれ、もらえるギャラは増えていった。
 それまで鬱屈していたものが、連鎖反応で爆発していくように、奈美はモデルの仕事へとのめり込んだ。評価されることの喜びが、その頃の奈美を突き動かしていたことは間違いない。そして、その評価されたい思いのせいでひとつの壁にぶち当たった。それは、事務所に所属している者と、当時の奈美の様にフリーの者の扱いの差だ。
 フリーで働く利点には、ギャラが全額自分に入るということがある。また、定時制とはいえ高校生だった奈美にとって、スケジュールや生活のスタイルに合わせて自分の都合で仕事を入れられる点も大きかった。大学に進学したいという漠然とした思いがくすぶっていたからかもしれない。
 もうひとつ、フリーにはやりがいもあった。自分の働きが百パーセントその後の仕事を決めると言って良いほど自由度が高かったのだ。だが、やがてそれは魅力ではなく足かせのように思えてきた。自由度が高いと言うのは、裏を返せば何の後ろ盾もないということだ。守ってくれる人や売り込んでくれる人が傍にいない。
 そのため、奈美はよく現場で差別を受けていた。撮影前に並んでメイクをしてもらっていても、隣に座るマネージャー付きの有名事務所のモデルとは明らかに待遇が違う。結局、学校の教室と同じことが、場所を変えて行われているだけだと奈美は感じていた。

 その後、縁があって知人が運営する芸能事務所に所属することになり、事務所の子になるだけでこんなにも楽なのかと驚いたのを覚えている。宣材写真を撮ってしまえば、待っているだけで仕事が来た。どこに行っても、事務所の看板の力で丁寧に扱ってもらえる。やったことのない演技の仕事が、オーディションもなしで決まった時には薄気味悪くさえ感じた。案の定、事務所に入って3年目を迎えた時に、一気にやる気を失う出来事が起きる。
 奈美は二十歳になる直前だった。学費のために積み立ててきた貯金が貯まったので、大学へ進学したいと事務所に申し出たのがきっかけだ。返事はノー。マネージャーの北村ばかりか社長まで現れて、まだ今はそんな時期ではないと説得された。それどころか、社長は奈美にヌードになる覚悟まで求めてきたのだ。
「映画の主演の話が来てるんだよ。高校生の役なんだけど、異常な犯人に拉致される設定だ」
 売れっ子の女優が主人公を演じ、女子高生時代に巻き込まれた辛い事件を乗り越えていくというストーリーだという。当然、脱ぐのは女子高生役だけ。だが、一気に名を売るチャンスだと言われた。
「主人公が過去を思い出しながら進んでいくから、この役はダブル主演の価値があるんだよ」
 正直、心が揺れなかったと言えば嘘になる。大学へ進学したいと思った大きな理由のひとつに、僅かずつだが仕事が減っていたことがあったからだ。
グラビアモデルの評判は良かったが、ちょうど奈美によく似た新人が現れ、大胆な写真で人気を得始めていた。何か自分に価値をつけなければならない。そんな焦りが、その頃の奈美にはあった。
 マネージャーの北村を見ると、ずっと下を向いて何かを考えている。社長が一気に詰めよってきた。
「お母さん、ずっと工場で働きづめなんだろ? そろそろ親孝行してやったらどうなんだい」
 社長は、さも親切心からこの仕事を勧めているのだと言いたげだ。だが結局、それが殺し文句だったといえる。奈美は最初で最後になった映画主演の仕事を受けた。

◇◇ ◇◇◇ ◇◇

 その日、奈美は朝から緊張していた。撮影スタッフとはいえ、人前でヌードになり演じなければならない。台本を貰った時、正直後悔した。母親には、まだ映画の内容を告げていなかった。すべてを撮り終えて、後戻りできなくならない限り、立ち止まってしまいそうで話せなかったのだと思う。
 相手役の男優は、知名度こそあるが人気の落ちた元アイドルだ。以前の事務所を辞めてから一時期仕事を干されていた。そのキャスティングからも、この映画の特徴がよく分かる。
 主人公の現在を演じるのは売れっ子の女優で、彼女を支える恋人役も人気急上昇中のアイドルだ。一方、主人公の暗い過去である拉致事件は、何ランクも落ちるキャストで組まれている。猟奇的な精神異常のストーカーにキャスティングされた相手役の男優も哀れだが、その犯人に凌辱される奈美の役柄も、相当にハードで惨めだった。
 奈美にとって心の支えになっていたのは、マネージャーの北村だけだ。事務所では当然禁じられていたが、二人はいつしか男女の関係になっていた。小学生の時に両親が離婚し、その後父親と会うこともなかった奈美にとって、北村との年齢差は壁ではなく魅かれていく要素になった。
 その北村が今回の話を社長と一緒に勧めたのだ。奈美が迷いながらも結局仕事を引き受けたのは、社長に母親孝行しろと言われたのが殺し文句ではあったが、やはり恋人である北村の存在が大きい。
 かといって、北村の愛情に溺れていたわけではない。もちろん恋人だから大切に思ってはいるけれど、それで日常をないがしろにはしたくなかった。
友人とお茶をしたり、仕事の付き合いで飲みに行くのも欠かしていない。自分の好きな勉強や趣味だってやりたいことはやった。だから大学に行きたいのも本当の気持ちなのだ。恋人だけに自分のすべてを割くことは、考えもしなかった。
 でも、抱かれている時は、やはり心地よい。安心感に包まれながら、北村の声を聞くのが奈美は好きだった。
「奈美を人気女優に育てるのが、俺の夢なんだ」
 ベッドの中で、北村は何度もそう囁く。悪い気はしない。北村の大きな手のひらが、身体が、奈美の身体を波のように揺さぶる。その揺さぶりには、陶酔の中で嫌な事を忘れさせてくれる効果があった。
「俺が守ってやるからな。お前は安心して身を委ねていればいい」
 北村の声には、小学生の頃、雨の中で傘をさし掛けてくれた女性の優しさに似たものがあった。さり気なく、だが確かに、その瞬間を冷たい雨から守ってくれる確かさ。だから今日、奈美はヌードでの絡みに緊張しこそすれ、もう迷いはしていない。
「シーン六十三、スタート」
 助監督の声でカメラが回り始めた瞬間、奈美は女子高生になった。狭い地下室で腕をロープで縛られ、鎖に繋がれている憐れな女の子。
「俺の顔を見ろ」
 相手役の元アイドルが、皺の増えた情けない表情で迫ってくる。人前にさらされた胸を鷲づかみにされた。生温かい舌が、肌の上を這いまわる。
「ずっとこうしたかったんだ。もうお前は俺のもんだ」
 日常ではない状況の中で、頭の一部は妙に醒めている。奈美は相手役の台詞の下手さに苛立った。その感情をどう演技に活かすかを咄嗟に判断し、男の肩に噛みついてみる。無我夢中だった。男は本気で痛がり、手で奈美の顔を引き離そうとする。
 中学生の時、無理やり不良たちに犯された時の光景が頭に蘇ってきた。
「逃げれるもんなら、逃げてみろよ」
 はやし立てる不良たちの声が、あの時、豪雨のように襲いかかっていた。
どんなに抵抗しても、手足が自由にならない恐怖と怒り。理不尽な暴力に、無理やり屈しなければならない悔しさ。下卑た笑い声を聞きながら、服を引き裂かれ、下着を引き抜かれていく憤り。冷たい指や硬くなった醜い肉の塊を身体の奥に差し込まれていく時の不快感。
 そんな過去のすべての経験を活かすのだと奈美は覚悟を決めている。惨めな体験も、今こうして演じるためのものだ。そう教えてくれたのもマネージャーの北村だった。
「カット!」
 その声とともに、ずっと食い入るように見つめていた周囲のスタッフたちがざわめいた。相手役の肩から血がにじんでいる。我に返った奈美は慌てて謝ったが、同時に監督が二人に駆け寄ってきた。
「良かったよ。主人公の隠れた一面が垣間見えた。今後もこの方向性で行って」
 相手役の元アイドルも、怒っていないのが分かる。
「俺も本気出していくけど、いいかな?」
 笑顔だったが、目が真剣だった。きっとこの人も崖っぷちに立っているのだと奈美は思う。のっぴきならない過去の状況がリアルになることで、この映画は本当に伝えたいテーマを描くことができるのだと監督は言った。撮影班の空気が変わったのを、その時の奈美は、確かに全身に感じていた。

◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇

「後悔してないのかい?」
 ベッドの傍らでリンゴの皮をむく奈美に向かって母親がぽつりと言った。休暇をとった今日、奈美は入院している母親を見舞いに来ている。二十年間働きづめだった母親は今、不治の病と闘っていた。そんな自分の事だけで精いっぱいな状態にもかかわらず、母親は奈美に女優を辞めさせたことを未だに悔いているようだ。
「せめて早く結婚しておくれ。生きている間に孫の顔が見たいよ」
 母親はそう言って力なく笑った。
 奈美があの芸能事務所を辞めて八年になる。最初で最後になった映画は、主演女優の人気もあって、予想通り大ヒットした。奈美の演技も注目され、その後、雑誌の取材や他の映画へのオファーがしばらく後を絶たなかったという。
 だが、奈美は身を隠した。クランクアップの日、マネージャーの北村に裏切られていたことを知ってしまったからだ。奈美と北村の関係も、すべては事務所の社長が画策した筋書きに過ぎなかった。
 あの日、すべての撮影を終えた奈美は抜け殻になっていたと思う。やっと北村に抱かれながら眠れると思ったあの日、思ってもいなかったラストシーンが待っていた。
「俺には妻と子どもがいるんだ」
 はじめ奈美は悪い冗談だと思って笑った。だが、北村が話したことは、残念ながら真実だった。
 すべては社長からの命令だったらしい。奈美が北村に好意を抱いていたのを利用して、映画のオファーを承諾させるのが社長の狙いだったのだ。
「騙したのは悪かった。でもお互いに楽しめたんだ。結果オーライだろ?」
 その言葉を聞いた瞬間、奈美は北村の頬を殴っていた。汚すぎるその場に一秒でもいたくないと部屋を飛び出した。事務所に連絡もせず、母親の実家がある島根の片田舎で身を隠し続けたら、「ヌード女優、謎の失踪」という見出しの記事が、週刊誌にあふれ出した。結局、奈美の抵抗は、映画のプロモーションにされてしまったのだ。
 母親のもとに暴力団風の男たちが訪れていると聞いて東京に戻った時は、すでに大方の解決がつけられていた。母親は奈美を守るために、恐ろし気な男たちと渡り合い、すべてを金で解決したのだ。
 事務所がした事実を一切公開しないこと。その条件で、奈美は大学進学のための費用を得ることが出来た。母親の考えだった。
 未だにインターネットには、映画の場面をコピーした奈美のヌード写真が残っている。ウィキペディアには、情報として事実も、事実でないことも綴られていた。
 国内の大学では身を潜めることは無理だと判断した母親は、離婚した夫に連絡を取り、娘のために一肌脱いでほしいと頭を下げたらしい。会社が倒産し、父親も相当苦労した末に小さな事業を台湾で起こしていた。
「私のことを許してくれなどとは言えない。だが、お母さんの願いはかなえて欲しい」
 母親の願い。それは、奈美が人並みに学び、働き、結婚して家庭を築き、母親になることだった。それは父親も同じだったのだろうと奈美は思う。自分たちが壊してしまったものを、悔いの残る経験を、我が子にだけはさせたくない。その思いだけが伝わってきた。ことさらには何も言わないが、純粋な優しさだけがそこにあった。
 台湾の大学で経営学を学んだ奈美は、卒業して日本に帰国した。すっかり雰囲気の変わった彼女を見ても、誰もかつての奈美だとは気づかない。名字は父親の姓を名乗る事にして外資系の企業に就職し、今はチームリーダーを務めている。
 結婚する予定の男性はメキシコ人だ。会社の同じフロアにいる。熱烈にプロポーズされ、彼には過去のすべてを隠さずに話したが、「何も問題ないよ」と受け止めてくれた。ここからが三度目の人生だと奈美は思った。
 
 母親を見舞った病院からの帰り道、雨が降りはじめた。信号が赤で立ち止まった交差点で、肩掛けのバックから折り畳み傘を取り出してさす。その時、傍らに男の子が止まった。
 遠い過去の光景が蘇る。あの日、何気なく傘をさしかけてくれた女性のように、今の自分は生きているだろうか。
「信号が変わるまでだけど」
 言う前に、もう奈美の手は動いて傘をさしかけていた。男の子はきょとんとした表情で見上げていたが、急に顔を赤らめ、青になった途端、猛烈な勢いで横断歩道を駆け渡っていった。
 その元気の良さに思わず笑ってしまいながら、奈美は何か温かいものに包まれていることに気づく。もしかしたらあの時の女性も、こんな心境だったのかもしれない。
 春の雨はなぜか温かく、人を優しい気持ちにさせてくれる。人は互いに優しさを分かち合えた時、温もりを感じるのだと奈美は思った。傘はその優しさを取り持っていたに過ぎないのだろう。
「春の雨に、傘はいらないね」
 奈美は独り言をつぶやきながら、傘をたたんだ。横断歩道を渡りはじめる。空から落ちてくる雨粒が、髪を優しく叩いていた。


※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ある映画を観ているときに思いついた雨の物語。優しさというのは、日常の些細な行動の中にこそ宿っているものかもしれません。

いただけたサポートは全て執筆に必要な活動に使わせていただきます。ぜひ、よろしくお願いいたします。