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誰も知らない [掌編小説]

 お爺さんは、いつも公園の片隅で煙草をくゆらせていた。ちょうど木漏れ日が降り注ぐ花壇の近くにお手製の小さな折り畳み椅子を置いて、ぼんやりと午後を過ごしている。首に巻いた真っ赤な手編みのマフラーが印象的なお爺さん。髪は真っ白で、初対面の時からかなりの高齢だろうとは思っていたけれど、実際には八十三歳だと後で知った。
 お爺さんの名前は坂本源吾という。響きがとっても気にいって、ほどなく私は源吾さんと呼ぶようになった。広島県の生まれだそうだ。いつだったか、子供の頃に原爆の閃光を見たと話してくれた。とはいえ、知り合って三ヶ月ほどしか経っていない。身寄りはなく一人で暮らしているらしい。

「もうすぐ桜が咲くねぇ」
 源吾さんは、葉が落ちて丸裸の桜の樹を見上げていつもそう言った。昭和三十年頃に植えられたという老木で、近くには記念碑がたてられている。
「ずいぶん気が早いですね。まだまだ先じゃないですか。雪だって降るかもしれないし」 
「この齢になるとね、月日なんてものはあっという間なんだよ」
 源吾さんとの会話は短くて、いつも二言、三言のやり取りで終わりになってしまう。けれど、それが何となく心地良くて、私は公園のそばを通りかかる度に源吾さんの所に立ち寄っていた。

 ところが、クリスマスが過ぎ、いよいよ大晦日まで残り数日という頃になって、源吾さんの姿を全く見かけなくなってしまった。体調を崩しているのではないかと心配になったが、住所までは訊いていなかったので、様子を見に行くことも出来ない。
 そのうち年が明け、1月も半ばを過ぎたことで、いよいよただ事ではないと感じた私は、矢も楯もたまらず駅前の交番を訊ねていた。名前は知っていたし、スマホで撮った写真もある。どこに住んでいるのかを訊ねる材料としては、それで十分だと思っていた。ところが交番にいた若い巡査は、明らかに困った顔をした。
「家族でもない人に、住所をお教えするわけにはいかないんですよ。住所をご存じな方に道順を教えるのは構わないんですが」
 それからは一方的に、個人情報の保護についての聞きたくもない説明をされる。人一人の命に関わることだと言っても、まともに聞いてくれない。
「じゃあ、せめてお巡りさんが様子を見てきてください」
 気になるのは源吾さんが無事かどうかなのだから、それで良いと思った。だが、それさえもうまくはいかなかった。
「そもそも、坂本源吾さんという方がどこに住んでいるのかが、わからないですね。巡回連絡カードにも記載がないし」
「でも、いつもそこの公園にいたんですよ」
「そう言われても、分からないものは分からないんです」
 やり取りに心底苛立った。肝心な時に役に立たない。
「もういいです。何かあったら、お巡りさんの責任ですからね」
 とうとう捨て台詞を吐いて交番を飛び出してきてしまった。あとは地道に自分の足で調べるしかないと覚悟を決め、公園沿いに店を並べている商店街を訊ねて歩く。
 毎日公園にいたのだから、必ず源吾さんを知っている人がいると思っていた。だが半日以上も歩き回ったのに、手がかりひとつつかめない。最後は公園を通る人のすべてに手当たり次第に当たってみたが、誰もが源吾さんの事を見かけたことがないと言う。私はすっかり途方に暮れてしまった。

「やっぱりこちらでしたか」
 夜になり、街灯が灯った公園でぼんやりしていると、先刻交番にいた若い巡査が自転車に乗ってやってきた。気になったので、あちこち問い合わせてくれたという。どうやら私の捨て台詞がこたえたらしい。公園を中心にして、周囲にあるデイサービスなどの高齢者施設に連絡してくれたそうだ。
「坂本源吾さんは、隣町にある有料の老人ホームにいたそうです」
「いた? 過去形なんですか?」
「はい。残念ですが、今月2日に搬送された病院で亡くなられたそうで…」
 急に足元が崩れたような気がした。眩暈がして倒れそうになる。若い巡査が腕を支えてくれたけれど、立っていることはできなかった。近くのベンチまで連れて行ってもらい、腰をおろす。座った途端、涙があふれてきた。
 やはりただ事ではなかったのだ。なぜ、どこに住んでいるのかをちゃんと訊ねなかったのだろうと後悔が押し寄せてくる。ひとしきり泣いている間、若い巡査は立ち去らず、傍にいてくれた。
「元気な時は毎日のように外出していたそうですから、探していた坂本さんに間違いないと思います」
 若い巡査は、老人ホームの住所と電話番号を書いたメモをくれた。なぜ隣町の公園まで来ていたのかはホームの職員も分からない様子だったという。
 私は巡査に礼を言い、ひどい捨て台詞を吐いた非礼を詫びた。少なくとも、目の前にいるこの若い巡査は、源吾さんがこの世界にいたことを知っている。ほぼ一日中、知らないという言葉しか聞いてこなかった私にとって、それは大きな救いだった。

 落ち着きを取り戻せた私は、少しでも源吾さんの思い出を話しておきたくなって、思い浮かんだ順に口を開く。自分でも情けなくなるぐらい、たわいもないことしか話せなかった。
「源吾さんは、いつもこの桜を眺めながら、もうすぐ桜が咲くねって言ってたんです。可笑しいですよね」
「この桜の樹に思い出があったのかもしれませんね。もしかしたら…」
 泣き笑いする私の言葉に答えながら、巡査は桜の近くにたてられている石碑に近づいて懐中電灯で照らした。
「あっ、やっぱりそうだ」
 そう叫ぶと、巡査が激しく手招きをする。呼ばれるままに灯りで照らされた石碑の裏を覗き込むと、植樹の寄付をした人たちの名前が彫られていた。
「ここに坂本さんの名前が」
 指でさされた先を目で追うと確かに源吾さんの名前がある。並んで同じ苗字の女性の名前があった。
「源吾さんは身寄りがないって言ってたけど…」
「年齢からして、先に亡くなられたんでしょう。ご家族の誰なのかまでは、もう知ることが出来ないけれど」
 若い巡査は、心から残念だという様子でそう言った。その顔を見ていたら、また哀しみがこみ上げてきて、ひとしきり泣いてしまう。
「源吾さんはずっとここにいたのに、誰も源吾さんの事を知らないし、気づきもしなかった」
 自分自身の後悔と激しい憤りが混じりあって胸が痛くなった。足元が崩れたような感覚はいっこうに収まらない。今にも暗い穴の中へと落ちてしまいそうな気分だった。
「でも、あなたは坂本さんを知っていたし、言葉を交わしていたじゃないですか」
 巡査の声が再び倒れそうな心を支えてくれた。今日まで話したこともなかった遠い存在の人が、今は一番近くにいる気がした。
「自分は今、猛烈に反省しています。交番の前に立って道行く人を見ていると、時々、違う時間の流れの中にいるような人を見かけるんです。あくせくしていない、ゆったりしたその人だけの時間を生きている人」
 巡査は自嘲した口調で言葉を続けていく。
「本来なら、そうした人たちこそ、しっかり見守っていかなければならいはずなんです。きっと坂本さんは、何度も交番の前も通っていたことでしょう。その存在に自分は気づかなかった。反省しても、もう取り返しのつかないことです。でも反省するしかない。反省して、二度と繰り返さないよう、肝に銘じます」
 若い巡査は顔を歪め、今にも泣きそうになるのを懸命に堪えているようだった。今日はじめて、ちゃんと巡査の顔を真っ直ぐに見た気がした。
 源吾さんの事にばかり気を取られていたけれど、考えてみれば、この街で私を知る人がどれ程いるのだろう。ふと、そんな思いが頭をよぎった。
 今日、源吾さんを知らないと言った人たちを、私も知らない。アパートと職場の間を往復するばかりの毎日。その中で、たまたま出会ったのが源吾さんだった。
 もしかしたら、この巡査が話していた通り、この街で暮らす誰もが違う時間の中を生きていて、互いを深く知ることもないままに短い生涯を終えるのかもしれない。そう思ったら、また源吾さんの言葉が蘇ってきた。
「この齢になるとね、月日なんてものはあっという間なんだよ」
 急に胸が絞めつけられた。なんと孤独な人生だろう。そんな日々を繰り返していく事に意味などあるのだろうか。そんなことを思ったら、また涙があふれてきた。若い巡査は今度も立ち去らず傍にいてくれた。

 どれぐらい泣いていただろう。ふと顔に冷たいものが触れた。驚いて顔をあげると、暗い空から大粒の雪が舞い落ちていた。
「初雪ですね。予報では何も言ってなかったのに」
 夜空を見上げながら、巡査がそう言った。その間にも雪はどんどん勢いを増して降ってくる。巡査が懐中電灯の灯りを桜の樹に向けると、枝が闇の中に白く浮かび上がった。
「桜の花が咲いたみたい…」
 思わずそうつぶやいていた。桜が咲くのを待ち続けていた源吾さんの思いを天上にいる誰かが叶えてくれているのかもしれない。そんな荒唐無稽な考えが頭に浮かんでくる。
 気がつくと、夜にも関わらず、たくさんの人たちが立ち止まって夜空を見上げていた。向かいのマンションでは、窓を開けて眺めている家族もいる。やがて何人かの人たちが、桜の下にも集まってきた。
「綺麗ね。花が咲いているみたい」
 杖をついたお婆さんが、話しかけてくる。
「あのお爺さんがいたら喜んだでしょうに」
 その言葉に驚く間もなく、数人の人がそうだねと声をあげた。その人たちは源吾さんのことを知っていて、どうやら最近姿を見せないことを心配していたのだという。
「あのお爺さん、昔はご近所に住んでいたの。小さな町工場の社長さんだったのよ」
「いつも奥さんの形見の真っ赤なマフラーをしていましたね」
「原爆の被爆者で、ずいぶん苦労したって聞きました」
 言葉が出なかった。丸一日かけても見つけられなかった人たちに、ほんの数分の間で巡り会えたのだ。そして皆が、それぞれの源吾さんとの思い出を分かち合う。そこには源吾さんを中心とした共感の輪が確かにあった。

 源吾さんが亡くなったことを伝えようかどうしようかと迷っていると、それを察したのか、若い巡査が話してくれた。一瞬のどよめきが、すぐにまた静寂へと変わる。
「じゃあ、きっとお別れを言いに来てくれたのね」
 杖をついたお婆さんがしみじみとそう言うと、皆が納得したように夜空を見上げた。
(そうか、天上にいるのは源吾さんなんだ)
 そう思ったとたん、冷え切っていた胸の奥が温かくなったのを感じた。
「春になったら、もう一度集まってお花見をしませんか」
 言葉が、自然と口からこぼれでる。
「いいですね。ぼくも参加させてください」
 若い巡査が真っ先に答えた。他の人たちも次々に賛成していく。それぞれバラバラの時間を生きているのかもしれないけれど、源吾さんをきっかけに繋がった同じ時間を共有することはできた。少なくとも、今ここにいる人たちは、もう誰も知らない人ではない。
「もうすぐ桜が咲くねぇ」
 相変わらず桜の花びらのように舞い落ちている雪の中で、源吾さんの声が聞こえた気がした。


※冬に書きかけたままにしていた掌編を仕上げました。文字量的にはショートショートですが、内容的には掌編だと思うので、そう記載しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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