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白い闇を抜けて[短編小説]

 人生を振り返る時、人類の歴史そのものがそうであるように「もしも」という考えは意味をなさない。もしもあの時、左ではなく右の道を選んでいたら。あの日、約束を破りさえしなければ。そんな「もしも」に続く無数の「たら」、「れば」を抱えて悔やみながら生きている人は案外多いはずだ。
 もしもあの人と出会わなければ。坂上千里は高校の教師になってからも、何度となくそう思いながら暮らしてきた。誰にも言えない秘めた関係。まだ若すぎた彼女にとって、その男との関係は、なかったことにするしかない黒歴史だった。
 全てをなかったことにするためについた嘘は、自分自身の知り得ない所で負の因果を形作っている。そして巡り巡った因果の渦は、やがて大きな弧を描いて彼女のもとに帰ってきた。この先もそれがないとは言えないだろう。その瞬間、彼女は新たな「もしも」になるかもしれない選択をしなければならない。

「坂上先生?」
 わき道の暗がりから急に男に声をかけられ、千里は思わず立ち止まってしまった。学校からの帰宅途中、ちょうど駅前の商店街を抜けた所だ。まだ宵の口だったからというのもある。もし夜更けなら、気づかない素振りで明るい場所まで急いだに違いない。よく知っている人ならば追いかけてくるだろうし、ちゃんと顔を確認できる場所で改めて挨拶すれば良いだけのことだ。
 だが、立ち止まってしまったらそうもいかない。今更歩き出せば、単に無視したことになる。それで知り合いだったら、どんなに取り繕っても気まずさしか残らないだろう。
 そもそも立ち止まってしまった理由には、どこかで聞いたことがある声だという気もしたからだ。何よりも、相手は千里が教師だということを知っている。高校の同僚でないことは確かだが、研修か何かの時に知り合った男性かもしれない。
「どなたですか?」
 千里は暗がりに目をこらしながら、誰だか分からない相手に返事をした。
「やっぱり坂上先生なんですね。ぼくのこと覚えてますか?」
 やっと闇の中から背の高い男の姿が現れた。確かにどこかで会ったことのある顔だ。だが名前が思い出せない。人の記憶を試していないで、さっさと自分の名前を名乗りなさいよと少し苛立つ。そうでなくても千里は機嫌が悪かった。
 そんな千里の顔に現れた苛立ちを敏感に感じ取ったのか、男が急にすみませんと言ってぺこりと頭をさげた。その仕草が、記憶をよみがえらせるスイッチを入れた。
「もしかして中野君?」
「そうです、卓球部だった中野和明です。ご無沙汰してます」
 そう言うと中野は、またぺこりと頭を下げる。暗がりにもかかわらず頭のてっぺんに大きなつむじが二つ見えた。途端に何年ぶりだろうと、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。中野は千里が担任として初めて受け持ったクラスの生徒だった。
 彼は卓球部だということを強調したが、千里にはほとんどその記憶がない。卓球部は顧問の代わりに何回かだけ練習に立ち合ったことがある。実際に顧問をしたのはダンス部だけだ。授業も部活動も何もかも手探りだったから、鮮明な記憶もあれば余裕がなくて覚えていないことも多かった。ふっと中野の名前が浮かんだのは、それなりに関わりがあったからだろう。
 私立と違い、公立学校の教師は定期的に異動がある。ひとつの学校にはおよそ3年から長くて6年ほどいられるが、多くの教師は4年程度で異動するのが平均的だった。
 千里はこの最初に勤めた学校に5年間いた。赴任して三年目に高校一年生のクラスを受け持ち、その年度の生徒が学校を卒業するタイミングで今の二校目の高校へと異動したのだ。中野は高一生の時に受け持った生徒だから、進路については詳しく知らない。
「もうとっくに大学は卒業してるよね?今は何してるの?」
「いやぁ、実はまだ卒業とは言えないんですよ。大学院の修士課程に進んだんで」
「えっ、大学どこだっけ?」
「東海大の工学部です」
「理系だったんだぁ。知らなかった」
「先生、高3の担任じゃなかったですもんね」
 それでなくても生物科の教師は担任でない限り限られた受験生としか関わらない。高3生に教えるのは看護や医療系、生物系を志望する生徒だけだ。理系であっても工学系や理学系志望の生徒は物理か化学を選択している。高一生の時に担任しただけなのだから、中野の進路を知らなくても当たり前ではあった。
「凄いね。君はエンジニアになるんだ」
 千里がそう言うと、中野は顔を赤らめた。もう年齢も二十代の半ばに迫っているだろうに、まだ顔に幼さが残っている。特にこれといった特徴のなかった生徒だが、童顔と気真面目さだけが妙に印象に残っていた。
 千里はさっきまで苛立っていた気持ちがいつの間にか少し晴れているのに気づく。久しぶりの教え子との再会が、どうやら心を穏やかにしてくれたようだった。どうせなら道端での立ち話ではなく、もう少しゆっくり話したいと千里は思った。
「今日はこの後予定があるの? よかったら何か食べに行かない?」
 少し唐突な誘いだったかもしれないが、中野も同じ気持ちだったらしい。バイト先の中華料理店が近くにあるからどうかと言った。何でも評判の店らしい。酢豚が人気だと聞いて、千里のお腹が鳴る。今度は千里が顔を赤らめた。中野が無邪気に笑う。
「腹もへる時間ですよね。駅の向こうなんで、あっちの地下道を通って行きましょう」
 ちょっとしたフォローをまじえてそう言うと中野はさっさと歩き始めた。目的が出来ると、それに集中する性格らしい。おしゃべりを楽しみながらのんびり歩くという雰囲気ではなかった。黙々と右斜め前を歩いていく。
 一緒に歩いたことで、改めて千里は中野の背がずいぶんと伸びている事に気づいた。昔は千里と同じぐらいだったはずだ。そんな所に長い年月が過ぎたことを感じながら、また千里は今の学校での不愉快な出来事を思い出していた。だがもう特に苛立つことはなく、落ち着いて冷静に考えられる。昔の教え子と再会した効果だろうか。
 今、千里が何に苛立っていたのかは明白だった。クラスの中でいじめが起きている。担任しているクラスの17名いる女子の中で、ひとりの女生徒が仲間外れにされていた。誰もその女生徒と口をきかず無視している。そして頻繁に、その女生徒の物がなくなった。探せば校内にはあるのだが、発見されたのは男子トイレや屋上など明らかに嫌がらせだと分かる場所だ。ある時は焼却炉の中から見つかった事もある。とにかくその陰湿さに千里は気が滅入っていた。
 考えてみれば、勤めた最初の高校にはいじめの類などひとつもなかった。どちらかというと、今一緒に歩いている中野のような生徒が多かったと思う。女子だって、スカートの丈が短かったり髪を染めている生徒はいたが、不良というほどのタイプではなかった。問題になっているスクールカーストもない。とても平和な世界だった。
 教師にとって二つ目の学校は難しい所に異動されるケースがあるとは聞いていたが、一応は進学校として名の通っている高校だ。偏差値だってなかなか高い。それでも中堅以下だった最初の高校に比べると問題だらけだった。
 それを思うたびに、今の教育ははたして正しいのかとまで考え込んでしまう。学年主任に相談しても、「あまり事をあらだてるな」としか言わない。大人がこんな調子だから、子どもは矛盾を山ほど抱えてしまうのだ。だから余計に苛立ってしまう。
 やはり私立高校で職を探そうか。最近、千里の考えの帰結点はいつもそこだった。それでも、何だか逃げているようにも感じてしまい、実際にはなかなか踏み出せない。たまに実家に帰れば、母親から結婚はまだかと突かれる。結婚どころか、今の学校に異動したことで恋人未満だった男たちと別れるはめになった。所詮はそれだけの付き合いだったということだが、実はいまでも未練を引きづっている男がいた。大学生時代につき合っていた相手だ。それが恋人をつくるという意欲を削いでいる。
 それでも教師になったばかりの頃は、とにかく充実していた。楽しい事や大切なものは、全て最初の赴任先に置いてきてしまったのかもしれない。かつての教え子と一緒に歩きながら千里はそんな気持ちになった。
「地下道を歩いていると、なぜか嫌な事を考えちゃいますよね」
 急に中野が振り向いてそう言った。まるで心の内を読まれたようで、心臓の鼓動が激しくなる。千里は思わず立ち止まってしまった。数歩先で中野も立ち止まる。改めて周囲を見ると、私鉄の線路の下を通っている地下道はだいぶうす暗かった。
「でも、ここを抜けると明るい場所に着くんです。だから、それだけ考えるようにしてます。高校生の時から、ずっとそうしてました」
 なぜ中野がそんな話をしたのか理由は分からなかったが、もしかしたら自分の態度にそう言わせる何かが現れていたのではないかと千里は思った。
「ごめんね、もしかして何か気を使わせるような雰囲気だった?」
 素直にそう訊ねると、中野はちょっと考えてから答えた。
「ええ、先生らしくない感じでした」
 その言い方が妙にわざとらしくて、つい笑ってしまう。中野も笑っていた。人通りのない地下道に二人の笑い声が反響する。
「私らしいって、どんな感じなのよ」
 笑いながら千里はそう質問してみた。だが、それには答えず中野はまた歩き始める。はぐらかされたのが少し悔しくなって、大人気もなく何度も聞いた。そのうち地下道の曲がり角になり、そこからが出口が見えた。中野が言った通り、そこには明るい光が溢れていた。

◇◇ ◇ ◇◇ ◇ ◇

 酢豚を食べたのは何年ぶりだろう。千里は一口頬張っただけで目を見張る。驚きを隠せなかった。長年給食のない学校ばかりだったので、今でも昼食はほとんどパンばかり食べている。朝は基本的にコーヒーだけで固形物は食べないし、夕食はほとんどが近所の店で食べる和食の定食だ。ちゃんとした米の飯が食べたいから、どうしても和食になる。実家でも中華料理を食べる機会はほとんどない。唯一、たまに食べるラーメンだけが中華の要素だといえた。
「ほんとに美味しいね、この酢豚」
 豚肉のかたまりを噛みしめて味を堪能すると、千里は感嘆の言葉を中野に向けてつぶやいていた。厨房では調理している年配の男の周囲を若いイケメンの男が忙しく動き回っている。ホールでは千里と同年代か少し年下に見える女性が一人で接客していた。
「グルメ雑誌で特集されたこともあるんですよ」
 中野はそう自慢げに言いながら、千里が美味しそうに食べる様子を嬉しそうに見つめていた。自分のバイト先に知り合いを連れて行くのは、その店に相当の愛着があるからだろう。店に入った瞬間のやり取りから、中野が良い環境で働いているのが手に取るように分かった。信頼関係で結ばれている。
「いいお店だね。もうバイトして長いのかな?」
「ええ。去年の冬からだから、ちょうど一年ぐらいになります」
「ご家族でやってる店みたいね」
「よく分かりますね。厨房で調理してるのがお父さんで、娘さんのご夫婦が店を回してるんですよ」
「バイトは中野君以外にもいるの?」
「もうひとり大学生の女の子がいます。そろそろ来るんじゃないかな」
 中野がそう言った矢先に、ひとりの小柄な女性がホールに姿を現した。中野から大学生だと聞いていなければ、中学生ではないかと思うぐらい童顔だった。
 彼女は接客していた娘さんから幾つか引継ぎをすると、代わってひとりで接客をはじめる。その時になって初めて中野に気づいたらしく、驚いた顔をして頭をさげた。その仕草が可愛くて、千里は思わず微笑んでしまう。中野を見ると、同じように微笑みながら手をあげていた。
「可愛い子だね。もしかして中野君の彼女?」
 千里はちょっとからかおうと言ってみたのだが、中野は真っ赤になってそれを否定した。料理の美味しさもだが、そんな中野の初心な反応がますます気持ちを和ませてくれる。千里は中野と会えた偶然に心から感謝していた。
 ところが、思わぬ事態が起きた。食事を食べ終え、温かな烏龍茶を飲みながら互いの近況を語り合っている最中に、予想外の客が店を訪れたのだ。千里が担任しているクラスでいじめに合っている女生徒とその両親だった。
 女生徒は千里に気づいた瞬間、驚いて立ちすくんだ。それまで何度も面談をしてきた母親は露骨に嫌な顔をする。そして初めて千里と会った父親は、明らかに動揺していた。千里も平静を装いながら、心は千々に乱れている。それでも席から立ち上がり、三人に会釈した。中野はそれぞれの異様さを敏感に感じ取ったのか、複雑な顔をしている。
「先生、どうかしたんですか?」
「ごめん、早く出たい」
 小声でささやく千里の顔は先ほどまでと違ってすっかり青ざめていた。中野は女生徒の家族を接客していた女子大生のアルバイトに合図をして会計を済ませた。
「先生、今夜はもうちょっとつき合ってください。飲みに行きましょう」
 店から出ると、中野はそう言って千里の手を引いた。有無を言わせない力強さがあった。いつの間にか千里は、教え子のその力強さに甘えていた。

「さっきのは、いったい何だったんですか?」
 近くの居酒屋に場所を変え、とりあえずビールで形ばかりの乾杯をした後、中野は千里に質問してきた。それは詰問するというのではなく、穏やかに言葉を促すような言葉遣いだった。
「こんなことを教え子に話すのは気が引けるんだけど…」
 ジョッキのビールを干した後、やっと千里が重い口を開く。きっと今日は、ずっと秘めていたことを誰かに話すべきだという意味で、神様が用意してくれた日なのだと千里は思った。
「さっき店に入ってきた女の子がいたでしょう。私が担任している生徒なんだけどね、クラスでいじめにあってるの」
 どこから話せば良いのだろうと迷いながらも、千里はまず現状を伝えることにした。それはある意味、先程の動揺とはかけ離れたところにある。だが、話さなければ自分自身の心を整理できなかったからだ。
 千里の話は、しばらく女生徒のことに終始した。中野はそれを時々うなづきながら聞いている。やがて、いじめ問題の状況説明は終わり、やっと先ほどの動揺が何であったのかに話が及んだ。
「彼女のお父さんに会うのは初めてだったんだけどね、私が彼と会うのは初めてじゃなかったんだ」
 千里の言葉が中野にはすぐには理解できなかった。しばらく二人の間に沈黙が漂う。やっと中野が意味を薄っすらと理解した時、千里の目には涙が溢れていた。
「まさか、こんな形で再会するなんて…」
 それ以上は言葉が出てこない。嗚咽だけが繰り返された。
「先生、今夜は飲みましょう。もう何も話さなくていいですよ」
 中野はそう言うと、新たに酎ハイを頼んだ。
「きっと、先生にとって今日は再会の日なんです。あっ、先生だけじゃないですね。ぼくも再会できて嬉しかった」
 そう言いながら、中野は改めて乾杯の音頭を取った。何杯目かの酎ハイのグラスを傾けながら、先生は初恋の人なんですよと中野が口走った。冗談にしか聞こえないが、そう言われて悪い気はしなかった。久しぶりのアルコールと中野の優しさが千里の乱れた心を少しずつ平静に戻していく。一日の中で二度も中野に救われていると千里は思った。
 何もかも忘れてしまいたい。とにかく心の苦痛は全て消し去りたいと千里は願っていた。思いがけない再会と、願ってさえいなかった再会。中野が言う通り、今日が再会の日だとしたら、明日から自分がどうすれば良いかを考えるべき夜なのかもしれない。
「明日は休みなんだから、今夜はとことん飲むよ」
 本気で飲もうと千里は思った。真面目に考え込んでも、答えなど分かるはずがない。まさか、かつて狂うほどに愛した男の娘が自分の教え子になっているなんて。その教え子がいじめに合い、じわじわと苦しめられることになろうとは。過去に葬ったはずの出来事が、巡り巡った別の形となって戻ってきた。十二年という歳月は、人にとってひとつのサイクルなのかもしれない。そんな考えが千里の心に浮かんだ。

 不倫の関係だとは初めから薄々気づいていた。当時、教師になるか就職するかで迷っていた千里は、企業訪問の結果で進路を決めようとした。ちょうど研究室の教授の紹介で、共同研究している企業を訪れる予定になっていたのだ。そこで、その男に出会った。同じ大学のОBだった。
 本来会う予定だった社員の都合が悪くなり、その男が代わりに千里の対応をした。企業での研究内容や企業で研究職に就く意義などを聞く。訪問は一日だけの予定だった。だが結局、それだけでは終わらない。翌日になって男から千里に連絡が来たからだ。話し足りないことがあるのではないか。そんな男の言葉に、会社の外で個人的に会うことを約束した。その時点で警戒すべきことだと今の千里になら分かる。だが、彼女には本当に話したい事がまだ幾つもあったのだ。
 都内のホテルのラウンジで待ち合わせをし、食事をしながら話した。その後は男が行きつけだという店で酒を飲む。同じ分野を研究している先輩でもあり、働き盛りの社会人である男はとても頼りがいがあって魅力的だった。
 最近は就職活動中にセクハラにあう学生が多いという。内定が欲しければ一緒にホテルに来いという露骨なケースが報じられていた。考えてみれば、千里のケースも一種のセクハラだろう。だが、当時の千里にはその認識が全くなかった。偶然の出会いから恋愛に発展した。男女の関係になった後で、好きになった相手が既婚者だという事実をはっきりと知ったに過ぎない。
 年上の男は、大学で知り合ったどの男よりも優しく、そして狡猾だった。いつでも千里を褒めて、有頂天にさせてくれた。
「君は企業で働くより、先生になる方が向いていると思う」
 何度目かの情事の後、男がそんなアドバイスを千里にした。企業の研究職は狭い世界でしかないからだと言う。それよりも、毎年何十人もの生徒に生物の面白さを伝えていく仕事の方が何百倍も価値がある。男の言葉は甘い酒のように千里を酔わせた。
 だが、結局二人は別れたのだ。ある日、研究室の教授から呼び出された。男の妻が大学へ訊ねてきたという。
「君に紹介した企業に、ここのОBがいるんだが、君は会った事があるかね?」
 教授は男の名を口にした。千里はとっさに知らないと嘘をついた。教授の目には疑いの光が浮かんでいたが、それ以上は訊こうとしない。
「そのОBの奥さんがね、企業訪問に来た女子大生とご主人とが不倫をしていると疑っているんだ。訪問した学生は何人かいるらしくてね、その中の一人が君らしい」
 教授は、男の妻がどうやって学生のことを調べたのかは話してくれなかった。それでも常軌を逸した行動だと呆れている様子は伝わってくる。こんなことに巻き込まれること自体、明らかに不愉快だと感じている様子だった。疑っている相手が何人かいるというなら、しらを切り通そう。千里はそう覚悟を決めた。
「とにかくそんな方は知りません。それに、企業訪問をさせていただき、私は教師になる事にしました。訪問先の方に会う理由など全くありません」
 きっぱりと言い切った態度が功を奏したのだろう。教授も「君のわけがないと追い返したんだ」と言ってくれた。
 その夜、男から電話が来た。教授から直接電話があったらしい。奥さんを苦しめるなと言われ、今後もし千里に近づいたら共同研究も白紙に戻すと言われたそうだ。
 教授は何もかも気づいていながら、あえてそれを闇の中へと葬ってくれた。そう思った途端、熱病のように憑りついていたものが千里の中から落ちた。男は電話でも言い訳ばかりしている。正直、見苦しいと感じた。一秒過ぎるごとに熱が冷めていった。
 それでも悔しいけれど未練だけは残ったらしい。その証拠に、いまだにちゃんとした恋愛が出来なくなっている。結局、学校という職場での出会いの少なさも手伝って、十二年経った今も身体のどこかに年上の男の名残りが残っていた。
 因果応報とは死んだ後のことではないのか。あの時、教授に嘘などつかず、本当の事を話して懺悔していれば、また結果も違っていたのかもしれない。そんな思いが、酒の酔いとともに気だるい身体を巡る。
 生きている間に因果が巡ってくるなんて、誰も教えてくれなかった。やり場のない気持ちが、胸の奥からこみ上げてくる。いっそ今、目の前でにこやかに酒を飲んでいる教え子を誘惑して、泥沼のような世界に足を踏み入れてしまおうか。そんなどす黒い意識が急速に芽生えていた。
「ねえ、中野君。君には彼女がいるの?」
 自分でも嫌になるような鼻にかかった声がこぼれだす。少しでも千里の痛みを和らげようと気を使っている中野は、いつも以上にグラスを空けているのか、かなり酔っていた。
「残念ながら、恋人になってくれるような奇特な女の子はいません」
 すっかり呂律も怪しくなっている中野が、それでも意識だけははっきりさせようと水をたて続けに飲みほしながらそう言った。
「君も大人なんだから、女の勉強もしなくちゃダメじゃん」
 そう言って千里は中野のグラスにボトルから焼酎を注いだ。いつの間にボトルで注文したのかも分からなくなっている。
「じゃあ、先生が教えてくださいよ」
 中野は冗談っぽく笑いながらそう言った。
「わかった! 今夜はあたしが君を男にしてやろう」
 千里がまるで中年の親父かなにかのような口ぶりで中野の肩に腕をまわす。傍から見たら、ただの酔っ払いにしか見えない痴態ぶりだったろう。
 いつの間にか千里は意識が途切れ途切れになっていた。柔らかなくちびるの感触や、胸に触れる指先を感じたような気がする。何だか大きなものに抱きしめられながら、眠りの中に沈んでいく気がしたのを最後に、頭の中には真っ白な世界が広がっていた。
 暗闇じゃなくて良かったという思いだけが、まるで永遠の時間の中を彷徨うように、いつまでも残っていた。

◇◇ ◇◇ ◇ ◇◇

 翌朝、千里は自宅のベッドで目を覚ました。いつものパジャマに着替えているが、全く記憶がない。自分の脚で帰ってきた実感はまるでなかった。
 それでも焼酎ばかり飲んでいたからか、幸いな事に二日酔いにはなっていない。むしろ目覚めとしては爽快な方だろう。身体の中に貯まった余計なものを吐き捨てられた気がしている。起き上がり、ベッドサイドのガラステーブルを見ると、メモ書きが載っていた。中野からのものだった。

先生へ
 昨夜はごちそうさまでした。先生がカードで支払うと言い張るので、甘えさせていただきました。次はぼくが払います。ぜひまた飲みに誘ってください。
 これは自分の名誉のために書いておきますが、先生はご自分でパジャマに着替えました。ぼくは先生が着替えるところを見ていないし、指一本触れていません。
 ずっと先生に憧れていました。だからぼくにとって先生は、とても大切な人です。そして先生は、何があっても、何であっても、これからもずっと憧れの人なんです。
 たいへんなことが多いと思いますが、自信をもって乗り越えてください。ぼくはいつまでも先生を応援し続けます。
                       中野和明

 中野は何時までこの部屋にいたのだろうと千里は思った。彼となら寝ても良かったのにと今は本気で思っている。教え子ではあったとしも、卒業してしまえば男と女だ。まだ若い彼の足かせにはなりたくないが、しばらく同じ時間を過ごしてみるのも悪くないと思えた。
 少なくとも中野と一緒なら白い闇の中を歩んでいくことは出来るだろう。暗い闇はごめんだが白い闇なら許せる気がする。地下道を二人で歩いたことを思い出していた。その闇の向こうには、あふれる光があった。白い闇の向こうには何があるのだろう。千里は静かに目を閉じてみた。そこにはまだ白い闇が広がっていた。


※私自身が、「もしも」と過去の選択について考えてしまうことがよくあります。意味をなさないと書きましたが、「もしも」を考えることは未来のためのシミュレーションなのかもしれないと最近は思っています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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