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ルペルカリアの恋人 [短編小説]

 バレンタインデーは憂鬱だ。この季節になると、通り過ぎてきた過去の記憶が嫌でもよみがえってくる。こんなもの早くなくなってしまえばいいのに。雲ひとつない冬の空をぼんやり眺めながら、美穂子はそんなことを考えていた。
 だいぶ老朽化が目立つようになった校舎だが、周囲に高い建物がひとつもない分、見晴らしは素晴らしく良い。夏は風の動きを、冬は太陽の陽射しを肌で感じながら一日を過ごせる。いつも狭いアパートの部屋に引き籠もりがちな一人暮らしの美穂子にとっては、得がたい職場環境だといえた。
 この進路指導室も、窓こそ普通の教室よりも小さめだが、効率よく西陽が射しこむせいか、部屋の中は暖房なしでも適度に暖かい。今日は午後の授業がないので、本来なら二週間後に迫った学年末テストの問題を作っているはずだった。 
 だが今、目の前には会議用の長机をはさんで、泣きじゃくっている女子生徒がいる。徹夜で作ったチョコレートを生活指導の教師に没収されたのだ。美穂子が顧問をしている美術部の生徒だった。クラス担任は六限目の授業が残っているからという理由で、仕方なく美穂子が放課後まで彼女の相手をすることになったのである。
「コーヒーでも淹れようか。それとも紅茶の方がいい?」
 何度か声をかけてみたが、その都度彼女は首を振るばかりだ。もうかれこれ30分以上にもなるが、いっこうに泣きやむ気配はない。可哀想に、きっと本命の彼に渡すチョコレートだったのだろう。ラッピングも手書きの綺麗な絵だ。一目で彼女の思いが伝わってくる。そんな心を込めたプレゼントを渡せなかったばかりか、本人の目の前で没収されてしまった。彼女にしてみれば、簡単には立ち直れないほどショックだったに違いない。
 私立高校の美術科教師になってから間もなく丸六年が経とうとしている。だが、こんな修羅場とも言える場面に立ち会うのは美穂子にとって初めての経験だった。取り乱して授業に出られない状況を報せるために生徒の家へ電話をかけたが、夫婦共働きだという事でなかなか連絡がつかない。こんな時は、どうしても担任を持たない教師が割りを食う。やり場のない思いを持て余しながら、これといった慰めの言葉も思いつかないまま、美穂子はただ時間をやり過ごしていた。
 そもそも、学校で男子生徒にチョコレートを渡すのが校則違反だとされていること自体が、どうかしていると反発する気持ちもある。生徒には禁じておきながら、職員室では男性の教師たちが義理チョコなるものを欲しがる矛盾と欺瞞にも、新任の頃から怒りを感じてきた。チョコレートひとつで、女子力が高いだの低いだのと言われる理不尽さを、はたして世の男たちの何パーセントが理解しているのだろう。考えるほどに、ますます美穂子の憤りは増していった。
 そんな個人の感情は抜きにしても、日頃からおとなしい印象しか受けなかったこの女子生徒の、勇気をだした行動の結果が、こんな情けない結末となって良いはずがない。横暴な権力には断固立ち向かわなければ、大切なものを失ってしまうことになる。
 突然、美穂子の胸に過去の苦い思い出がよみがえった。とりとめのない怒りや焦燥といった感情とともに、バラバラになっていた記憶の断片がジグソーパズルのように組みあわされていく。あの日は自分も、目の前にいる女子生徒のように泣きじゃくっていたのではなかったか。そんな思いがこみ上げてきた途端、美穂子の心は否応なく遠い過去へと引き戻されていった。

◇◇ ◇◇ ◇◇◇

 美穂子は中高一貫の女子校出身だ。周囲に男子生徒のいない6年間だったからこそ、バレンタインデーが好きだったのかもしれない。そこには、色恋沙汰ぬきの自由さがあったからだ。
 もちろん憧れの先輩や同級生を疑似恋愛の対象にしていた女子もいた。だが美穂子の友人たちは人気のアイドルや流行りのバンドに夢中になっている、いたって普通の女子高生ばかりだった。
 記憶をたどれば、高校2年生の冬までは、毎年せっせとチョコレートやクッキーを作っていた。あの頃は学校で教師に没収されるなどという馬鹿げたことはなく、クラスや部活動の友人たちばかりか担任や顧問にも配っていた。単純に美味しいと喜んでもらえるのが嬉しかったからだ。
 美穂子の母親もお菓子作りが好きな人だったので、その手伝いをするようになってから、いつの間にか作り方を覚えていた。凝り性な母親のお陰で、家には菓子作りの道具も揃っている。材料さえ買ってくれば、何人分作るのも苦ではない。だから今でも中学や高校の同窓会で、美穂子はお菓子作りの名人として語られているのだ。
 だが、大学受験のためにバレンタインを一回見送った高校三年生の冬以来、彼女の日常からはお菓子作りの機会がすっかり失われてしまった。特にバレンタインデーの2月は、まさに受験の真っただ中だったからである。
 美穂子の第一志望は茨城県にある有名国立大学の芸術学群だった。私立には幾つか合格したがやはり妥協は嫌だ。どうしてもその国立大学に入学したいと思った美穂子は後期試験まで粘ることにする。結果、受験も終わり無事合格が決まった時には、すでに高校の卒業式は終わっていた。同級生たちとの卒業旅行を楽しむ暇も、入学を祝いあう機会もない。都心から遠く離れた大学に通うため、彼女は慌ただしく引っ越しをしてアパート暮らしを始めた。そこには、お菓子を作る場所も時間の余裕も微塵もなかった。それ以来、残念ながら美穂子のお菓子作りの腕前は封印されたままになってしまったのである。

 その後の大学生活は、課題に追われながらも人並み以上に成長できた期間だった。それなりの進学校として名の知れた高校で、毎日受験勉強に追われていたのとは全てが違う。学ぶ喜びにあふれていた。好きな美術にどっぷりと浸かって過ごせた日々は、今振り返ると得難い時間であったといえる。
 同じ世界観を分かち合える一生ものの友人もできたし、もちろん幾つかの恋愛もした。得られたものや経験は数えきれない。それでも、人の業というのだろうか。未だに得られなかったものの方が心を強く揺さぶる時がある。それが、バレンタインデーに憂鬱さを感じるようになった原因なのかもしれない。そう思い当たったとたん、美穂子の中でずっと封印してきた何かが弾ける音がした。
 そうなのだ。まさに失ったものが多かったのが、あの頃なのだ。大学三年生の冬、美穂子は志していた画家の夢と、はじめて真剣に好きになった彼をともに失った。ちょうど、ゼミの教授から推薦を受け、権威ある絵画展に出品する絵を描いていた頃だ。新人の登竜門とも言われていた絵画展である。
 当時の美穂子をたとえるなら、まさに水を得た魚だったろう。好きな芸術に満たされた環境の中で伸び伸びと力を伸ばし、同学年の誰より高い評価を得ていた。だから、もしその絵画展で入賞できたなら、迷わず画家としての道へ進もうと美穂子は心に決めていたのだ。
 絵のモチーフにしたのは、ローマ時代に行われていたという「ルペルカリア祭」。この祭りは豊饒祭として毎年2月15日に農耕神ファウヌスへ捧げられていたものだ。豊作の祈願に加え、当時は別々に生活していた若い男女が唯一知り合える機会でもあったという。
 ルペルカリア祭の前日、つまり現在のバレンタインデーにあたる日に、未婚の娘たちは自分の名前を書いた札を壺の中に入れた。そして祭りの当日になると、男たちは壺から札を一枚引き、そこに書かれた娘と祭りの間を一緒に過ごせるのである。

「ルペルカリア祭の、恋人たちの絵を描くことにしたわ」
「それはいいね。君らしい選択だよ」
「どうしてそう思うの?」
「君には華やかな絵がよく似合う」

 あれは何度目かの二人きりのデートだった。ふいに森博之との思い出が、闇の中に咲く花のようにパッと心の奥に浮かぶ。彼は嬉しそうに笑っていた。美穂子は、その時の彼の笑顔を今でも忘れられない。
 ルペルカリア祭をモチーフに選んだのも、つき合いはじめたばかりの時に彼から聞いた話がきっかけだった。大学院の修士課程にいた彼はとても勉強熱心で、いつも美穂子に創作のインスピレーションを与えてくれる存在となっていたのだ。
 あの日、少し早いバースデイプレゼントだと言って彼がくれた花柄のストールは、どこにあるだろう。過ぎ去ってしまった過去の光景が急に心の中を満たした。久しく忘れていた温もりの記憶がよみがえってくる。初めて触れた指先。重ねたくちびるの感触が今でも自分の中に残っていることを美穂子は複雑な思いで受け止めた。
「ぼくより君の方が絵描きに向いている」
 何気ない日常の瞬間に、彼は何度もそう言った。何を捉えてそう言ったのかまでは今では思い出せない。だが、その繰り返しの中で確かにつかめたものがあった。残念ながらそんな風に思えた人とはその後一人も出会っていない。友人たちが次々と結婚している今も、美穂子にはチョコレートを渡したい相手はいなかった。
 二人は考え方がとても良く似ていたのだ。男と女を繋ぐ大きな要素は、似た考えを持てるかどうかだと美穂子は思っている。互いに見つめ合うだけの関係ではなく、ともに同じものに向かって進んでいける関係。性が異なるという圧倒的な違いがある中で、似たものを好み、似たものを共感できる人と出会えるのはまさに奇跡だろう。そして、彼も教授からの推薦を受けていた一人だった。
 同じ美術展に出品するライバルなのだから、搬入するまで互いの絵は見ないようにしよう。そう二人は約束した。同じ目標に向かっているのが、とにかく嬉しかった。そして美穂子は、描いた恋人たちの絵をバレンタインデーのプレゼントとして彼に贈ろうと密かに考えていた。お菓子作りをやめてしまったために渡せない手作りチョコレートの代わりとしてだ。きっと喜んでくれるだろう。何枚も描いたエスキスの中の恋人たちは美穂子と彼のように見えた。

 しかし、そんな美穂子の考えは、途中から別の方向へと変わっていった。ルペルカリア祭とバレンタインデーのつながりを詳しく調べていくうちに、どうしても違うテーマで描きたくなってしまったからだ。
 バレンタインデーは、ローマ皇帝クラウディウス2世に処刑された聖人バレンチヌスを祭った日に由来している。クラウディウス2世は、歴代の皇帝の中でも特に軍事力を重んじる人物だった。兵士が妻や子供を持つと、生きて帰りたいという思いが強まってしまい、戦場での士気が弱まるかもしれない。そう考えた皇帝は、ある年からルペルカリア祭での男女の出会いと結婚を禁じてしまったのである。
 ところがキリスト教の司祭であったバレンチヌスは、その後も密かに若者たちの結婚を行っていた。それを知った皇帝は怒り、バレンチヌスを牢につないでローマ宗教へ改宗するように迫る。だがバレンチヌスは逆に愛の尊さを説いて皇帝に抵抗し続けた。そのため、とうとうルペルカリア祭の前日である2月14日に処刑されてしまうのである。
 やがて後の世の人たちは、バレンチヌス司祭の勇気ある行動を称えて彼を「聖バレンタイン」と呼び、恋人たちの守護神として祀るようになった。そしてバレンチヌス司祭が処刑された日を「聖バレンタインデー」と呼ぶようになったのだという。

 なぜあの時、最初に思いついたインスピレーションのまま、恋人たちの絵を描かなかったのだろう。そうすれば、こんな気持ちにさいなまれ続けることはなかったはずなのに。そう思いながらも、同時に美穂子の胸には、別の考えが湧きあがってもいた。
 違うのだ。今思えば、それはもうひとりの私が目覚めた瞬間だったのかもしれない。抗うことが出来ない圧倒的な権力にも立ち向かい、抵抗し、自らの信念を貫いたバレンチヌス司祭の生き様に、眠っていたもうひとりの自分の心が震えたのだ。たとえそれが、こうした逸話にありがちな架空の人物像だったとしても、人の心にそれを尊ぶ思いがあるからこそ、時代を超えて語り継がれているのだろう。
 あの時、美穂子にはそれまで自分の描いてきた絵が、とても陳腐なものに見えた。キャンバスの表面をなぞっているだけの、色と色の混合物。そんな絵に、自分はどんな思いを込めようと思っていたのか。美穂子は思い切りよく、それまで描いていた絵を捨て、新しいキャンバスと向き合った。
 描いたのは、深い闇の中で微かに光る司祭の姿だ。ルペルカリア祭の前夜、ゴルゴダの丘で処刑されたキリストのように磔の刑になっているバレンチヌス司祭。それが、一ヶ月近く部屋にこもり、まさに寝食を忘れて描いた新しい美穂子の絵である。気力も体力も、もうわずかしか残っていないというぐらいにまで消耗したが、限界を超えて描ききれたという確かな手ごたえもあった。絵を描きはじめて初めての感覚だった。
 搬入期限の最終日まで手直しを加えていたため、絵の具の一部はまだ乾ききっていない。そんな絵を、なんとか締切時間ギリギリに美術館へ搬入した。だが美穂子は、そこで愕然とさせられることになる。先に仕上がって、すでに会場の壁に展示されていた彼の絵が、構図から絵柄まで自分の絵とよく似た作品だったからだ。
 もちろん全くの偶然だった。だが周囲は誰もそうは思わない。なぜ人は、根も葉もない噂話をあんなにも楽しめるのだろう。思い出すだけで、美穂子は口の中が苦くなった。その日のうちに彼女は、日頃はのんびりした大学のキャンパスをひっくり返す大事件の渦中の人物になっていたのである。
 ある人は、名のある絵画展のプレッシャーに負けた美穂子が、制作途中の彼の作品を見て、盗作したのだと吹聴した。またある人は、盗作とまではいかないにしろ、モチーフを聞いて無意識のうちに真似てしまったのだろうと二つの絵の関連性を分析する。
「君は何も悪くない。こんな問題になること自体が、おかしいんだ」
 美穂子が盗作も真似もしていないことを一番知っていた彼は、誰よりも彼女を弁護するために奔走してくれたが、事態はそれで収まるタイミングをとっくに逸していた。最後に彼は、自分の作品出品を辞退しようとまでしたのだが、教授が美術展への美穂子の推薦を取り下げる方が一足早かった。
 結局、美術展は美穂子の絵の展示スペースの白壁を空けたままで短い期間を終えた。まるで初めからそこに掛ける絵など存在しなかったのだというように、人々は壁の前を通り過ぎていく。受賞したのは知らない人ばかりだ。出品を辞退したことによって、彼女への盗作の嫌疑はそれ以上追及されることもなく、やがて誰も口にしなくなった。人の噂も七十五日とはよく言ったものだ。
 傷つけられた者がいたことさえ、忘れ去られていくのだと彼女は思った。口惜しさと虚しさだけが残った。絵を焼き捨てたのは、後にも先にもあの時だけだ。涙が枯れた瞳に映ったのは、炎の中に消えていくバレンチヌス司祭のうつむいた顔だった。
 あの出来事から美穂子と彼の関係もなんとなくぎくしゃくするようになり、噂が消滅していったように二人の繋がりも消えた。デビューするきっかけも絵に対する情熱さえも失った彼女は、画家になる夢を諦めて高校の美術科教師になったのである。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

「先生、どうかしたんですか?」
 ふと呼びかける声に気がつき、美穂子は我に返った。いつの間にか泣き止んでいた女子生徒が、顔を覗き込むように見つめている。慌てて時計を見ると、間もなく六限が終わろうとしていた。
「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていたから…」
 そう返事しながら、ちくちくと胸が痛んだ。泣き続けていた生徒を放置してしまった罪悪感と、思い出した過去の傷跡がもたらした痛みだと美穂子は思った。二人の間にまた沈黙が漂う。先に口を開いたのは女子生徒だった。
「すみませんでした。私、もう大丈夫です」
 何が大丈夫なのかはわからないが、確かに彼女の表情には、もう再び泣きだす気配は感じられない。よく見ると、彼女の手にはスマホが握られていた。ラインの画面が開いている。
「彼がずっと心配してくれているみたいで…」
 そう言うと、女子生徒はちょっとだけ美穂子にラインの画面を向けた。見たことのある男子生徒の顔写真が、たくさんのメッセージとともに並んでいる。見るからに体育会系の風貌で、素朴な人柄が伝わってくる写真だ。授業中にこそこそと隠れてラインをしている、その男子生徒の姿を想像して、美穂子はつい笑ってしまった。
 同じようなことを思っていたようで、女子生徒もつられて笑う。部屋の空気が一気に和んだ。次の瞬間、美穂子はこの雰囲気のまま、彼女を独断で帰らせてしまおうと思っていた。もうすぐ放課後だ。担任がホームルームを終えて戻ってくる前に、部活の顧問の権限を行使してもいいだろう。
「どうする? 没収したものは返さないのがルールだけど、食べ物だし、私の権限で返してあげようか」
 しかし、意外な事に女子生徒は大きく首を横に振った。一度没収されたものを彼にあげるのは気持ちが悪いと言う。それよりも、この事件で彼の人柄がわかって嬉しいのだそうだ。最後の言葉に、美穂子は何かで殴られたような気がした。
「チョコなんて、また作ればいいから」
 当然のように、女子生徒は没収されたチョコレートを受け取らずに帰っていった。きっと彼女は、今夜もう一度彼のために思いを込めたチョコレートを作り、自ら描いた絵でラッピングをほどこすのだろう。手元に残された、もはや行き場のなくなったチョコレートを見つめながら、美穂子はさっきまでふり返っていた自分の過去について、改めて考え直していた。
 いったい、教師とは何なのだろう。生徒に何かを教えているつもりで、実は教えられることの方がはるかに多い。ふと眼がしらが熱くなり、鼻の奥がつんとした。同時に、笑いがこみ上げてくる。あの盗作疑惑の渦中で、彼は美穂子のことを心配し続けてくれていた。その後、関係がぎくしゃくしてしまったのは、すべて美穂子自身のせいなのだ。
 なぜ、あのことを肯定的に考えられなかったのだろう。無数に選べるモチーフの中で、二人は同じものに興味を魅かれ、同じテーマに辿り着き、結果としてよく似た絵を描いた。ただ、それだけのことなのだ。いつも感じていた通り、二人は同じものを見ていただけなのではないのか。それなのに自分は、心のどこかで理不尽な状況の原因を彼に押しつけていた。
 美穂子は胸に鈍い痛みを感じながらも、同時に、ちょうど窓から見える青空のように心が晴れていくのを感じていた。
 今日はチョコレートの材料を買って帰ろう。それから新しいキャンバスも。今暮らしているアパートのキッチンでチョコレートを作るのは難しいかもしれないが、何事も工夫次第だ。
 次から次へと、心の中に発想が湧きあがっていた。新しいキャンバスを買うのは、描きたい絵が心に浮かんでいるからに他ならない。
 今の自分ならば、キャンバスの表面だけをなぞった色と色の混合物ではない絵が描ける気がした。教師になったからこそ深められた絵になるはずだと、美穂子は感じている。
 六年の歳月は決して無駄ではない。タイトルは「ルペルカリアの恋人」。この絵からもう一度、画家になる夢を目指してみよう。
 美穂子は椅子から立ち上がり、進路指導室の窓を思いっきり開けてみた。顔に冷たい風と熱い陽射しを両方感じる。狭い所に閉じこもっていてはいけない。今、目に見える世界のすべてが、それを教えてくれている気がした。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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