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ヘップバーンによろしく [短編小説]

 夕方から降っていた雨が、明け方には本格的な雪になった。雪には哀しい思い出がある。その思い出がよみがえるから、雪が降るといまだに上手く眠れない。もう7年も前のことなのに、まだ過去の影から逃れることが出来ないのだとうんざりしてくる。
 高校三年生の秋から卒業までの所属が不確かだった約半年間、AО入試で早々に大学受験を終えた私は、受験指導をしてくれた予備校の講師と恋に堕ちた。はじめて付き合った年上の男性。いや、そもそも男性と付き合う事そのものが初めてだった。彼は、それまで学校の勉強しか知らなかった私に、本当の学問を教えてくれた人だ。
 まさか自分が、二回り以上も年上の人を本気で好きになるとは思ってもいなかった。友人たちにもそんな恋愛経験者は一人もいない。先に好きになったのは私だったが、告白してきたのは彼の方からだった。ずっと胸の奥に秘めておくはずだった恋心なのに、彼が私の心の扉を強く叩いたのだ。
 きっかけはオードリー・ヘップバーン。親に勧められて嫌々受講した予備校の体験授業で、映画を題材にした彼の授業を受けた。ヘップバーン主演のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』を題材に、彼はイギリスの近現代史や社会と芸術の関係を講義していた。ずっと薄っぺらな教科書の勉強しかしてこなかった無知な私は、まさにこの物語の主人公である下町生まれの粗野な花売り娘と同じだったろう。
「この物語には、実在のモデルがいるんだ」
 彼はミュージカルの原作が『ピグマリオン』というバーナード・ショーの戯曲であることと、そのモデルになった画家と女優の話をしながら、歴史や政治にまで話を広げる。メモをとるのも忘れて、夢中になって聞いた。気がつけば4時間の授業が、あっという間に終わっていた。
「ヘップバーンについては、もっと話したい事があるんだけど、それは次の機会に」
 そう言って彼は颯爽と教壇を降りていく。ずっとオードリーに憧れていた私が、この一回限りの体験授業だけで満足できるわけがない。すぐに通年で彼が担当している「芸術系小論文」という授業の受講を決めていた。
 彼自身もヘップバーンが好きなのは、この最初の体験授業で聞いていたのだが、親しくなってみるとその博識さに圧倒された。予備校の授業ではオードリーばかりを取り上げるわけにもいかないから、質問に行った私だけが受けられる特別な授業になる。
 まさに彼は、私にとってのヒギンズ教授になったというわけだ。
 それでも、秋までは講師と生徒の関係を超えてはいない。私はAО入試の指導も彼から受けることにしていた。志望理由書を添削するためという必然から、予備校では禁止されていた個別のメールでのやり取りも内緒でするようになった。
 彼は女子高生っぽい悩み事にも丁寧に返事をくれる。書類が仕上がっていくのと比例するように、彼に対する私の思いも強くなっていた。
 ふたりの関係が大きく進展したのは、大学へ合格してからだ。合格発表の日、家族よりも先に彼に伝えた。彼は喜んで、直接おめでとうが言いたいとメッセージをくれた。
 当時、まだ彼は既婚者だったが、奥さんとは別居中で、都内のマンションで一人暮らしをしていた。日頃のやり取りからマンションの場所を突き止めていた私は、その日、大胆にも彼の部屋を訪ねたのだ。
 一目だけでも会いたいという幼さから生じただけの突発的な行動だった。決して、それ以上のものを求めていたわけではない。だが、彼の思いは、そのことであふれてしまったらしい。
「あの日、留美が部屋まで訪ねてきて、我慢できなくなった」
 だいぶ後になってから彼はそう言った。講師と生徒という一線を越えないように、彼はずっと堪えていたのだろう。だが、その日から彼の態度は明らかに変わった。そして、はじめてのキスも、抱かれたのも、結局彼が最初の人になった。
 どちらの経験も雪の日の夜だったのを覚えている。二人で窓辺から降り積もる雪を見たあの日々のことが、今も胸の中で疼く痛みとして残っていた。あんなに幸せだと感じた数ヶ月を、結局私が壊してしまったのだから。

 付き合い始めて三ヵ月後、彼は別居していた奥さんと正式に離婚した。私との関係をいい加減なものにしたくないと考えたからだ。私が大学を卒業したら一緒に暮らそうとまで二人で話していた。
「でも、ぼくの方が先に死ぬのは確実だからなぁ」
 はじめから年齢差を気にしていた彼は、時折そんなことを口にする。いつもふざけているような口ぶりだったが、きっと本音だったのだろう。
「あなたが100歳まで生きれば、老後はそんなに変わらないよ」
 彼が年齢のことを口にするたびに、私はいつもそう言って励ました。長生きのための願かけに、一緒に霊験があるという寺を巡ったりもした。
 だが、やはり私は怖くなったのだ。彼との関係が深まれば深まるほど、仲の良い友人にも相談できない年上の恋人の存在は、徐々に私の心を蝕んでいった。
 発作的な行動だったと思う。急に何もかもが嫌になって、私は一方的に彼との関係を壊した。誰にも彼の事を知られず終わらせるために、高校の卒業式の直前に唐突な別れのメールを送って、すべての連絡方法を絶ったのだ。
 警察に訴える。親の介入を匂わせた文面のメールが効果を発揮したのか、彼は逃げた私を追っては来なかった。それでも、私の合格先を知っている彼が急に大学に現れるのではないかと、その後の一年は、いつもびくびくしていたと思う。インスタやツイッターといったSNSも一切やらなかった。
 もうひとつ、彼と付き合った後遺症があったとすれば、同年代の男性が、どうしても子どもっぽく見えてしまったことだろう。声をかけてくる先輩たちや男友だちは何人もいたが、結局恋人にはならなかった。むしろ、男を見る目が厳しいとよく言われたぐらいだ。
 振り返れば、それなりに楽しく過ごした大学時代だったけれど、心の傷跡はなかなか消えてはくれない。こうして雪が降る日は、どうしても気分が重くなって、学生時代は講義を休んだりもしていた。
 だが社会人になった今、雪だから仕事を休むという訳にもいかない。あまり眠れてはいないが、もう起きてもいい時間だ。金曜日なのが救いだった。
今日一日がんばろう。私はカラ元気を出して、羽毛布団から抜け出した。
 
◇◇ ◇◇◇ ◇◇

「今朝までにと言っただろ」
 たいして広くはないオフィスに係長の声が響いた。叱責されているのは同僚の高瀬憲章だ。何か言い訳をしているようだが、その声は聞こえない。
 朝から雪の中を必死で歩いてきて、到着早々にこんな現場を見ると、一気に気持ちが沈む。何やってんのよと、ひとり言がこぼれてしまった。荒れた一日の光景が頭に浮かんだ。
 憲章は思っていた以上にポンコツだった。けっして見た目は悪くないし、人当たりだってソフトで爽やか系だ。初対面の印象は、誰が見てもイケメンの部類だろう。でも、そんな表面的なものは時間が経つうちに剥がれてしまうメッキにすぎない。
 今朝も就業早々から、そんなダメっぷりを発揮している。おそらく急ぎの企画書が出来あがっていないと係長に大目玉をくらっているのだ。
 きっと今日までレイアウトばかりに気をとられていて、肝心の中身が疎かになっていたのだろう。彼なりのこだわりがあるのは分かるけれど、それも時と場合によるのだと、そろそろ気がついてほしい。
 朝一番から注意されたものだから、デスクに向かう横顔には、しっかり縦線の影が入っている。とにかく受けたダメージが表情に出やすい。打たれ弱いうえに、なかなか立ち直りにくいタイプなのだ。
 しかし、だからポンコツだと言っているのではない。誰だって日常的にミスのひとつやふたつはあるものだし、上司から注意されればショックなのはわかる。情けないのは、ミスした分を頑張って取り返すという意欲にいまひとつ欠けていることなのだ。
 ハードなやり取りに不向きで、追いつめられるとすぐに弱腰になる。そして、そんな精神状態が体調に影響しやすい。繊細で、優柔不断で、決して仕事が出来ない訳でもないのに、実力を発揮できないまま何となく損をしているキャラクターだ。
 そう思うから、私はついつい彼に手を貸してしまう。そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか私は彼をサポートするお目付け役にされていた。それがここ一年ぐらいの二人の関係である。
 仕事に対して抱いていた私の夢や希望は、憲章によってずいぶん妨害されてきた。なんて疫病神。今日もそろそろだろうと思っていたら、案の定、彼は係長から突っ返された企画書を手に、そっと私の所にやってきた。
「これなんだけどさ…」
 そもそもこの第一声が違う。そんなことから分からせなければならないのかと、胸の奥から絶望感がこみ上げてきたが何とか耐えた。
「これって、何のことでしょうか?」
 今日は会話を先回りして引き取ってあげるのは禁じようと決めていた。心に我慢という紐を三本巻きつけて、皮肉を込めながら丁寧な応対に勤めた。だがそんな決意を込めた言葉のニュアンスも憲章には伝わらない。
「これだよ。係長との話、聞こえてたよね?」
 なぜ聞いていて当然だと思えるのか。あくまでも係長とのやり取りを聞いているのが前提の話しっぷりに加えて、オフィスの中であるにもかかわらずため口だ。早速、一本目の我慢の紐が切れた。
「申し訳ありませんが、雪で電車が遅延して先ほど到着したばかりなので、お二人の話は聞こえませんでした」
「じゃあ、まず読んでみて。ぼくより留美に向いていると思うんだよ」
「おっしゃっている意味が良く分かりませんが…」
「意味なんてすぐわかるよ。この案件で君以上に向いてる人は、この会社にいないと思うな」
 すでに二本目の紐が切れかかっている。手伝ってほしいなら、素直にそう言えばいいのに、まるで、さも私の事を考えているようなニュアンスで話してくるから余計腹立たしい。
 そのまま黙っていたら、「早く読んでみてよ。読めばぼくの言ってる意味がわかるからさぁ」と急かしはじめた。作り笑顔まで見せてくる。何とか持ちこたえていた二本目がプチっと切れる音がした。このままではらちが明かない。三本目の我慢の紐はどうしても残しておきたかったから、今日こそは、はっきり言ってやろうと思った。
「なんでそんな風に言うのかな」
「えっ?」
「ここは仕事をする場所なのよ。ちゃんと案件の説明もできないの?」
「いや、だからこれを読んでって…」
 いつもと違う私の反撃に、明らかに憲章は動揺している。
「はっきり言えばいいじゃない。自分がやりたくないからでしょう?」
 とたんに彼の顔に貼りついていた縦線の影が、また一段と濃くなった。
「そんなことないよ。やりたくない訳ないじゃないか」
「じゃあ、自分でやりたいわけ?」
「いや、だからさ…」
「はっきりしなさいよ。やりたいの、やりたくないの」
 手に持っていた別の書類を自分のデスクに放り出すと、思っていた以上に大きな音がした。オフィスにいた全員の視線が、私たち二人に集まる。
「やりたいです」
「じゃあ、自分でやって」
 やりたいとか、やりたくないとか、朝っぱらから何て不毛な会話だろう。そのうえ、事情を知らない人が聞いたら、あらぬ誤解をされかねない下品な会話だ。私はおもむろに立ち上がると、彼に背を向けた。その瞬間から、ついさっきまではモヤモヤと不確かだった感情がはっきり形を持ち始める。ぽんこつ男のお守り役とは、今日を境に訣別するのだ。
 企画書の残骸を手にしたまま、半ば呆然と私の後ろ姿を見送っている憲章の視線を感じながら、私はさして用事もない総務課へ向かうために、部屋を後にした。

 憲章とは同期入社だ。付き合いは今年で3年目になる。もちろん恋愛関係などではないのだが、同期の中では始めから一番気が合ったし、仲も良かった。
 うちのような中の下に当たる広告代理店では、新入社員の数は毎年せいぜい10名程度である。どちらかというと体育会系の方が多い新人の中で、彼だけが芸術系の雰囲気を漂わせていた。
 もちろん雰囲気だけではなく、実際彼には芸術的なセンスがあって、映画や音楽、そして絵画にも詳しい。だから、休日にはよく美術館へ連れて行ってくれたりもしたし、映画も一緒に観た。それは昔付き合っていた年上の元カレとの思い出を上書きしていくのにずいぶん役立ってくれたと思う。
 昨年の誕生日にはイヤリングをプレゼントしてくれたのだが、高くもなく、かといって安ものでもない、ほど良い値段の品を、私の好みをよく理解した上で選んでくれた。そんなプライベイトでの印象も重なって、出会った当初は落ち込みやすい憲章の性格も、感覚が鋭いから精神的に疲れやすいのだと思っていた。
 だが、今年になって一緒に仕事をする機会が増えてからは、憲章の欠点があれこれと見えるようになってしまった。学生時代と違って、社会人になってからの恋愛は人生でのウエイトが明らかに重い。社内には同期入社をきっかけに結婚した先輩社員も何人かいたから、状況からすれば憲章との関係が深まってもおかしくはなかったのだ。はやまらなくて本当に良かった。 
 ただ、もしこれからも似たような男しか現れなかったらという不安も感じる。男運というものを最初に使い果たしたのかもしれない。
(今週末は恋愛運が最高潮のはずだったんだけどな)
 いつも見ている占いでは、今週末の牡羊座がトップの運勢だった。特に恋愛運は断トツで、真実の愛に巡り会えるとまで書かれている。そろそろ有頂天になって信じる年齢でもないが、やはり良い占いは嬉しい。ただ、星占いの精度は学生時代より鈍った気もしていた。それも社会人になって自由な時間が減ったからなのだろうか。週末は大学時代の親友から合コンに誘われている。エレベーターが来るまでの間に、私はラインで親友にイエスの返事を送った。

 しばらく総務課で時間を潰して、飲みたくもない自販機のコーヒーを片手にオフィスに戻ってみると、すでに憲章の姿はどこにもなかった。他の社員もおおかた外出したようだ。外出時に各自が書き込むホワイトボードに、それぞれクセのある字が躍っている。憲章の字もあった。どうやら今日は営業のアポが入っていたらしい。急ぎの企画書はどうしたのかと係長にそれとなく探りをいれたら、驚いたことに私がやることになっていた。
 一瞬、何が起きたのか理解できず呆気に取られていると、「彼じゃ埒が明かないからさ、君にやってもらうことにしたよ」と係長が笑いながら言う。その笑顔にどう答えて良いものか迷っていると、「君には直接話すって言って出て行ったんだけどね」と、今度は少し申し訳なさそうに、係長は言葉を付け足した。
「来週の火曜日にプレゼンするから、週明け一番に出来てればいいよ」
 開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだ。デスクには、ホワイトボードの走り書き以上に読みにくいクセ字のメモと一緒に、彼が握りしめていた例の企画書の残骸が置かれていた。
―データはメールで送ってあります。この埋め合わせは必ず。憲章
 よりにもよって週末の金曜日に、なぜこんなお荷物を抱え込まなければならないのか。慌ててラインの画面を見る。親友に送ったイエスのスタンプは未読だった。申し訳なさを感じながらコメントを削除し、急な仕事が入って行けない旨を伝えた。
 一気に仕事へのモチベーションが失せていく。何もかも、ポンコツのせいだ。それでも気持ちを懸命に立て直しながら、私は企画書の趣旨に関する係長からの申し送り書類に目を通す。そこではじめて案件の内容を知った。
 書類の一番上に、『オードリー・ヘップバーンの写真展を開催することについて』と記されている。そういうことだったのかと、無意識にため息がもれた。同時に彼が私に向いている仕事だと言ったのも、あながち口から出まかせではなかったのだと思い知る。
 悔しいけれど、最初の一行から目が釘付けにされてしまった。確かに憲章が言った通りなのだ。この会社で私以上にオードリーを語れる者などいるわけがない。
 嫌でも元カレとの思い出に直結するオードリーだが、彼女の事だけは不思議と別格だった。元カレから教えてもらった知識も加わって、今では動かしがたい私の大切な財産になっている。
 係長の目論見は、20世紀を代表する女優オードリー・ヘプバーンを撮影した写真を全国の主要都市で巡回展示することだった。
 サンプルとしてプリントされた写真を見ると、一流のハリウッドフォトグラファーであるマーク・ショウやボブ・ウィロビーなどの作品が200点ほどもある。その可憐な姿は、「永遠の妖精」と謳われたオードリーが最も輝いていた50、60年代のものばかりだ。そして、誰よりもオードリーファンを自称する私でさえ、まだ見たことのない写真も数多くあった。
 我ながら単純だと半ば呆れながら、やはり喜びは隠せない。先ほどまでのイライラがすっかり吹き飛んだ私は、週末をオードリーと一緒に過ごせる幸福を噛みしめるのと同時に、こんな機会をくれた憲章へ感謝の気持ちが込みあげてくるのを感じていた。
 とにかく、我慢の紐はまだ一本残っている。今日の内にそれが切れることはないだろう。係長も公認なら、今日一日は大手を振ってこの企画を練っていられる。オフィスでDVDを見ていても、必要な資料を購入しても問題はないはずだ。
 私は早速簡単なタイムテーブルを作成し、必要な資料をピックアップしはじめる。パソコンの壁紙には『ローマの休日』でアン王女を演じるオードリーが踊っていた。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

「これじゃあ、あまりにも単純すぎるよ」。
 それが二晩がかりで作った企画書にざっと目を通した憲章の第一声だ。
 日曜日の朝、朝食でもとりながら打ち合わせをしようと彼を呼び出した。
この駅前のカフェは、それぞれの家からだいたい同じ距離にある。クロワッサンが美味しい店だ。5番街の「ティファニー」とはいかないけれど、そこそこ高級なジュエリー店のウインドーを眺めながら食事が出来るので、これまでも何度か利用していた。今朝は道端に寄せられた雪がまだ溶け切らずに残っているのもニューヨークぽくって良い雰囲気だ。
 だから、食後のコーヒーで寛げば、気分も和らぎ、打ち合わせも軽快に運ぶと思っていた私は、憲章の言葉に一瞬耳を疑った。
 土曜日に休んだ分、気力が充実しているのだろうか。最初からずいぶん強気に攻めて来たので正直面喰ってもいる。昨夜は三時間しか寝ていない分、最初にぶちかますエネルギーが足りなかったかもしれない。
「単純すぎるって、何について言ってるの?」。
 さも不機嫌そうにパラパラとページをめくる彼の手元を見ながら、理由を訊ねる私の口調も、輪をかけて不機嫌な低い声になってしまう。彼は、そんな質問を返すこと自体が信じられないといった表情で、私の顔をまんじりと見た。つられて私も彼の顔を見返してしまう。なんて険悪なムードだろう。
 さっきからアルバイトの店員が、こちらを見ていた。休日の朝から若い男女が二人で向き合い、睨めっこでもしているような光景は、傍から見たらどんな関係に見えるのだろうか。オードリーが演じるホリーと作家を自称するポール・バージャクのようにはとても見えないだろうと変な連想が浮かんで、ちょっと口元がにやけそうになったとたん、彼が口火を切った。
「これだと、ただ単に年代を追いかけていくだけだろ?」
「一応、オードリーが主演した映画作品の順番なんだけど」
「それは分かるさ。だけど、結局年代順なのには変わりないじゃないか」
 相変わらず彼は、不機嫌そうだ。年代順であることにこだわって、しきりにダメだと言っているけれど、ちっとも理由は話さない。
 私はコーヒーを一口飲んで、心を落ち着けた。もう一度、コンセプトを話してみようか。億劫だが、やはりオードリーの事で考えを曲げたくはない。
「だから、なぜ年代順じゃダメなのよ?」
 こうなれば我慢比べだと思いきって、私は正面から彼の目を見つめた。
 『ローマの休日』が1953年で、オードリーはこの作品で銀幕の世界に舞い降りアカデミー主演女優賞を獲得した。その後、『麗しのサブリナ』、『ティファニーで朝食を』、『マイ・フェア・レディ』と主演していく中で絶大な人気と女優としての確固たる地位を得たのである。
 確かに写真には、映画の一場面も撮影中のスナップや撮影時以外のプライベートもある。年代以外でも分けられるカテゴリーは幾つかあるけれど、それでは分かりにくくなる恐れがあると思った。
 映画の順番で展示していって、何が悪いというのだ。はっきりした理由を言わない限り、絶対に考え直さないつもりだったが、同時に、彼には以前からこういう傾向があったのを思い出した。
 いざという時に、がんとして動かなくなる。私がどんなアイデアを出しても、こだわったら一歩も譲らない。その度に、どうして私のいうことを聞いてくれないのかとげんなりしたものだ。そしてそんな時は、彼が変えることに臆病になっているのだと思って、余計に強い口調で説得したりしていた。まさに今の心境もそんな感じだ。
 私は挑むような視線で彼を睨みつけていたかもしれない。しかし、今日の彼は珍しく物怖じするでもなく、ふいにこんなことを言いだした。
「オードリーの痩せ型のスタイルや長い脚、大きな瞳は、それまでの主演女優のイメージを一新したんだったよね?」
 よくぞ言ってくれたと一瞬で顔がほころぶ。まさしく彼が言う通りだ。今なら彼女のようなスタイルの女優は珍しくないけれど、グラマーな女性が主役だった当時ではあり得ない存在だった。
「だからオードリーは、映画での活躍だけじゃなく、同時代のファッションアイコンとしても名を馳せたって。確か以前君が教えてくれたんだよ」
 そんなことをよく覚えていたなと思うのと同時に、彼がこだわっていたことの本質が以心伝心のように伝わってきた。
「ファッションか…」
 思わず下くちびるを噛んだ。最大のスポンサー候補が百貨店だということを忘れていた。魚座には妙に勘の鋭い傾向があって、同時に慎重派でもある。気づいてしまえば単純なことで、私が考えた映画順の年代構成による展示は確かにありきたりだし、スポンサーへの売りが乏しかったのだ。
 それにしても、今日の憲章はやはり人が変わったようだ。一方的に指摘されたのがちょっと悔しくもあったので、「まるで別人みたいだね。いつもそんぐらい鋭ければいいのに」と皮肉っぽく言ってやったら、「留美のおかげだよ」と、急に殊勝な顔つきで礼を言われた。正直、ちょっとビックリしたのとキュンとしたことで、心臓の鼓動が早くなった。
 一瞬、年上の元カレから言われたような錯覚を覚える。同期の憲章が急に大人に見えた。私は慌ててコーヒーカップを口に運んだ。なぜ、いつもオードリーがきっかけになるのだろう。もしかして、彼女が亡くなった年に生まれたからだろうか。そんな理屈の通らない妄想が、胸の中で渦巻いていた。
 けれどグズグズはしていられない。かなりの大直しだ。正直、ひとりで直せる自信がない。そう彼に告げると、俺もやるよ、と当然のように言った。
「俺がレイアウトを直していくから、留美がリライトを頼む」
 そういうと、憲章はレシートをパッと右手で取り、レジへ向かった。グレゴリー・ペックが演じる新聞記者のジョー・ブラドリーみたいだった。

 その後、憲章が一人暮らししているマンションに場所を移して、私たちは企画書の修正に取りかかった。いつの間にそんなに詳しくなったのかと舌を巻くほど、彼はオードリーの事を熟知していて、作業は順調に進む。
 写真の展示プランとして、「ファッション」、「映画」、「プライベート」の3章で構成し直してみたら、私が二晩がかりで考えたものより数段良く収まった。まるで初めからそのように分類するのが当然だったというような出来栄えだ。
「二人で泊まり込んで仕事するなんて、はじめてだな」
 それぞれのパソコンに向き合いながら、ふいに憲章がつぶやいた。考えてみたらその通りで、もっと深く考えれば、二人っきりの部屋で朝を迎えるなんて、なんて大胆な事をしでかしているのだろうと急に怖気づいた。
「二人っきりだからって、変なことしないでよ」
 急に上ずった声をあげてしまった私の様子がおかしかったのか、彼は噴き出した。それから急に、牡羊座の女性は自分についてきてくれる人を好むんだよねと、さも占い雑誌の受け売りみたいなことを言う。その後の一瞬の間が、私の聴覚を敏感にした。
 引き寄せられるように顔をあげると、憲章と視線がぶつかった。真っ直ぐに私を見つめながら、彼がポツリとつぶやく。
「ねえ、俺たちって、ホリーとバージャクみたいにはいかないのかな?」
 結局、それが私にとっては殺し文句だったようだ。
『ティファニーで朝食を』のホリーとバージャクは、お互いの性格に戸惑いながらも、無意識のうちに惹かれあっていった。そして、紆余曲折の末に彼女は真実の愛に気づき、二人は結ばれるのだ。
 ポンコツだと思っていた憲章が、今日一日ですっかり逞しく見えるようになった。『ローマの休日』でも、『麗しのサブリナ』や『マイ・フェア・レディ』でもなく、私にはこんな恋がお似合いだったのだろう。つまり、星占いの週末予想は大的中だったという事だ。
 明け方、また雪になった。一人で窓の外を眺めながら、不思議と例の胸の痛みが消えている事に気づく。
(やっとヒギンズ教授から卒業できたようです)
 私はおそらくもう二度と会うことのない思い出の中の元カレに向かって、そう告げていた。
「ヘップバーンによろしく……」
 ふいに、疲れて先に眠ってしまった憲章の寝言が静かな部屋に響いた。私は思わず微笑んでしまう。
 憲章の寝顔には、すでに元カレの影は重なってなどいない。まだまだ油断大敵だが、ちゃんと二人の道を歩いてみようと思った。
 企画書には、各章ごとに生前のオードリーが語った言葉を配していた。

 とにかく人生を楽しむこと、幸せでいること。大事なのはそれだけ。

 私は選んだ言葉をパワーポイントで作った企画書の最後の章に打ち込むと、ベッドで横たわる憲章の横に、そっと滑り込んだ。


※まだ雪が降る季節ではありませんが、先日オードリー・ヘップバーンを取り上げているドキュメンタリー番組を見たのでアップしました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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