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「代理出席」承ります [短編小説]

「ジューンブライドじゃないのがねぇ」
 隣のテーブルから、ふいにかん高い女の声が聞こえた。耳障りな声だ。座っているのは女二人で、たぶん母娘連れだろう。
 声の主は母親らしき女性の方で、気配からして暑苦しさをまとっていた。手前の若い女性は、熱心に式場のパンフレットを読んでいる。ちらっと二人の様子を見ると、母親の方はハンカチを扇子のようにひらひらさせながら、汗ばんだ顔を扇いでいた。
「もうちょっと早く来てれば、涼しいうちに式を挙げられたのよ」
「そんな事言ったって、もう夏の予定しか空いてないんだから仕方ないでしょ」
 娘の方が、口調もいたって冷静だ。たぶん、今日は何度もこんな会話を繰り返しているのだろう。
「そんなことなかったよ。確か月末に一ヶ所だけ残ってたじゃないか」
「あれは仏滅だからよ。平日の仏滅の朝一番に式を挙げるなんて、絶対嫌ですからね」
 娘は、本当に嫌そうな声で答えている。だが、まだ母親の方は諦められないらしい。はっきりとは聞き取れなかったが、何か文句らしい言葉を並べている。
 亜佐美の脳裏に、これまで見てきた挙式前の母娘の顔が何組か浮かんできた。どこも、こんなものかもしれないと思いながら、目の前に置かれた水のグラスに手をのばす。さっき一気に飲んでしまったので、ほとんど氷だけになっていた。

 六月の花嫁。ジューンブライドという言葉に、亜佐美はうんざりしていた。今月は、この言葉に追いかけ回されている。今日も朝から結婚式場をかけ持ちしていた。夕方から始まる披露宴まで時間を潰さなければならない。
 六月生まれの特権にしてしまえばいいのに。ジューンブライドについて、亜佐美は最近そんな風に思っていた。そうすれば、こんなに式場が込み合う事もない。いつからか、誕生日を迎える度に結婚を意識するようになった。そうさせるのは、自分というより周囲からのプレッシャーだ。一番は、やはり母親だろう。
 来月の誕生日になれば、亜佐美は三十歳になる。女優としての結果はまだ出せていない。そんな中、丸一日がアルバイトで潰れていくことに釈然としない思いがあった。だが食べていくためには仕方がないのだ。食えなくて夢を諦めた友人たちをたくさん見てきた。決してその一人にはなりたくない。だからどんな仮面であっても被ろうと覚悟を決めている。泣いても笑っても同じ一生なら、無理をしてでも笑っていよう。そう亜佐美は思っていた。

「ねえ、千晴。お前、ほんとに達郎ちゃんでいいのかい?」
 急に、母親の矛先が変わった。どうしてこんなに後ろ向きで、挑発するような言葉が出てくるのだろう。自分の母親に似たものを感じた亜佐美は、手持ち無沙汰なのもあって、好奇心に抗えない。
「他に誰がいるって言うのよ。今どき、中華料理屋を継ぎたいから婿養子になるなんて男、探したっていないんだからね」
「だけどさぁ、お前にはもっと違う人生があったんじゃないかって、思っちまうのさ。あたしが病気になったばっかりに…」
 見ず知らずの母娘の会話なんて、聞き耳を立てるものではない。そう思いつつも横目で見てしまったら、案の定、娘の方と目が合った。瞬時にスイッチが入って、少し先を歩いていたウエーターに手を挙げる。亜佐美の表情は、すっかり無関心さを演じていた。
「お願いした料理、まだかしら。ちょっと急いでるんですけど」
 恐縮そうに去っていくウエーターを見ようともせず、亜佐美はスマホをいじった。隣の母娘はすぐに警戒心を解いたようで、まだやいのやいのと話している。
 結局、この母親は自慢の娘の結婚相手に満足していないらしい。苦労して大学まで行かせた娘が、せっかく良い会社に就職したにもかかわらず、自分の病気のせいで人生を変えてしまった。そんな風に思っているようだ。玉の輿にでも乗せたかったのかもしれない。
 聞けば聞くほど、考え方が自分の母親と似ていて、亜佐美はどんどん嫌な気分になった。きっとこの娘だって、いつも自分の意志で決めてきたのだ。
いまだに夢を追い続けている自分に結婚などという選択の機会が来るかどうかは不明だが、少なくとも、母親の願った通りにはしないだろう。見知らぬ母娘の会話を聞きながら、そんな思いだけが、亜佐美の心の中にしっかりと刻まれていった。

 しばらくして、やっと隣の母娘が席を立ったところに、注文していた料理がきた。牛肉と鶏肉を串焼きにした「ケバブ」をメインに、スパイスを効かせた「アラブサラダ」やひよこ豆のペースト「フムス」。
 最初はランチタイムのビュッフェにしようかとも思ったが、動きたくなかったのと、急にアラブ料理が食べたくなって注文してしまった。予想外の注文に調理の時間がかかったのは仕方ないだろう。逆に、よく断られなかったものだ。亜佐美はバッグからスマホを取り出して、手をつける前の料理の写真をインスタにアップする。
 ギャラの良い仕事をする時は食事をケチらないと決めたから、なかなかにインスタ映えした写真が多い。しばらく画面を眺めていたら、ちょっとだけ気分が良くなった。
 少し遅めの食事を食べながら、もう一度渡されていた資料に目を通しておこうと考えたが、どうも気が乗らない。どこの式場のパンフレットもあまり変わりばえしなかった。六月といえば、それが永遠の決まり文句であるかのようにジューンブライドだ。
 ハワイやヨーロッパで挙式するなら、さぞや気候も心地良く、最高のウエディングシーズンと言えるのだろう。だが、日本ではジメジメした梅雨の季節なのだ。わざわざこの時期を選んで結婚式を挙げようとする人の気が知れない。雲ひとつない青空の下で祝福のライスシャワーを浴び、親友に向けてブーケを投げる。やはり亜佐美にはそんな挙式への憧れと願望があった。
 別に豪華さは求めていない。本当に祝福してくれる人たちだけを集めて、シンプルに式をあげられたら満足だ。今の仕事をはじめてから、亜佐美は以前よりも強く、そう思うようになった。

 六月に結婚する花嫁が幸せになれるというのは、ヨーロッパの古い言い伝えらしい。ギリシャ神話で結婚や出産を司る女神ジュノが六月の守護神だというのが由来だという。だがそんな由来にも諸説あって、亜佐美はもう少し人間臭いものが気に入っていた。
 かつてのヨーロッパでは、農作業の妨げになるという理由で、三月から五月に結婚するのは禁じられていたそうだ。そのため、解禁となる六月には結婚ラッシュとなって、どこもかしこも祝福ムードでいっぱいだったらしい。だから、ジューンブライド。日本ならば、年度末のバタバタから新年度を迎え、ゴールデンウィークを跨いでやっと落ち着いた頃の六月という状況にちょうど当てはまる。とてもわかりやすい。
 要するに、西洋だろうと日本だろうと、仕事の方が大事なのだ。食っていけなければ結婚どころではない。皆もそれを心のどこかではわかっている。
バブルの時代を生きた親たちの世代とは違って、その子どもたちは黄昏時になった日本で成長してきた。いまだに親たちの多くは世間体を気にして豪華さを求めているようだが、子どもたちは明らかに違う。
 広がった格差社会の中で、親たちの中にも子どもの結婚資金を出せない者が増えた。多くのカップルが、ジューンブライドという言葉に乗っかって六月に結婚しようとするのは、このご時世に贅沢をすることへの許しを得るような、無意識にお墨付きを求める気持ちがあるからなのかもしれない。
 実際、六月になってからの結婚式は、はた目から見ても比較的予算のかかっているものが多かった。数も尋常ではない。だから今日も亜佐美は、朝から都内の式場をはしごしている。

 午前中は、新郎から新婦へのサプライズとして企画されたフラッシュモブのキャストだった。所属している劇団が受けた仕事だ。式の途中まではホテルのスタッフだと思わせておいて、突然鳴り響く音楽とともに歌い踊る。今回は人気の高いミュージカル風の演出で、ちょうど映画で公開されている『アラジン』が題材だった。
 くだらない寸劇の後、新郎が替え歌にしてきた「ア・ホール・ニュー・ワールド」を歌う。せっかくのデュエット曲なのだから、新婦と一緒に歌うのだと思っていた。しかし、第一印象からして目立ちたがり屋の雰囲気をたっぷり漂わせていた新郎は、自分が喝采を浴びたかったらしい。子役として某有名劇団の『ライオンキング』に出演したことがあるそうで、今は素人でも歌がやたらと上手い。どうやらこの機会に、その歌唱力を両家の親族や友人知人たちの前で披露したかったようだ。
 ヒロインであるジャスミン姫の役は亜佐美になった。歌にも演技にも自信はあるが、余興とはいえ、結婚式で新郎の恋人を演じるのは、あまり気持ちの良いものではない。酔った新郎は、下手な演技で身体をすり寄せてきたりする。子役だけで役者になるのを諦めたのは、正解だと心底思った。役者にとって大事な気品もオーラもない。新婦も少し困ったような複雑な顔をしていたのに気づきもしなかった。
 その上、調子に乗った新郎は、悪ふざけして亜佐美の頬にキスまでしてきたのである。鈍感なのかデリカシーが無いのか、呆れて言葉も出なかった。思い出すだけでも腹が立ってくる。結局、新婦への気遣いで変な汗をかいてしまった亜佐美は、午前中だけで一日分のエネルギーの大半を消費してしまったのだ。

(もう一杯だけ、コーヒーを飲んでいこう)。
 嫌な思いはコーヒーで洗い流すに限る。亜佐美は気を取り直して、この後の披露宴で読むスピーチ原稿を黙読しておくことにした。自分の仕事は、幾つものペルソナをかぶり分けること。ペルソナとは、もともとギリシア劇で使われていた仮面のことだ。亜佐美は、今やっている仕事が、すべて舞台の役作りと同じだと思っている。そのための時間を作るのは本番と同じぐらい重要なのだ。
 夕方からの仕事は劇団に秘密にしている代行業のアルバイトで、実はこちらの方がフラッシュモブより何倍もギャラが良い。劇団から支払われるギャラにはランクがあって、研究生で所属年数の少ない亜佐美は、まだ最低ランクだからだ。
 当然、ギャラだけでは食べていけない。コンビニから飲食業までアルバイトをやってきたが、問題は舞台のある時期だ。稽古と本番でシフトに入れなくなると、どうしても辞めざるを得なくなった。
 そんな時に見つけたのが、この代行業だった。登録しておけば、都合の良い時に仕事を入れられる。結婚式への代理出席などという仕事があること自体不思議なのだが、実のところ需要はかなり多い。結婚式だけでなく、冠婚葬祭のすべてが対象だ。
 披露宴や葬儀の代理出席などはかわいい方で、中には家族代行から恋人代行といった際どいものもある。依頼者の代わりに謝罪に出向くサービスまであった。事実は小説よりも奇なりというが、世間には多種多様な悩みを抱えた人が多い。

 亜佐美が一度だけ受けた恋人代行は、八十歳になる老人が依頼者だった。最近は女子大生やOLがパパ活だとかジジ活と呼んでいて密かに増えているようだが、それを会社が大真面目に仕事として受けている。
 この老人は、死ぬ前に、もう一度だけ遠い昔の初恋の気分を味わいたいということで、動物園を一日かけて一緒にまわった。
「君は、初恋の人が今どこで何をしているか知っていますか」
 別れ際に、老人は遠くを見ながら亜佐美に質問した。知りませんと答えると、その老人は会いたくないかと重ねて聞いてきた。
 亜佐美にとっての初恋は、今の夢につながっている大事なものだ。でも、結局はその人と離れ離れになってしまった。そんな話をしたら、老人も自分の思い出を語ってくれた。戦争に引き裂かれた哀しい話だった。
「初恋は実らないんだ。だけど、大事なものを与えてくれる」
 なぜ実らないのか理由を訊ねたかったが亜佐美は我慢した。夕陽に照らされた老人の影が、とても薄い気がしたからだ。
「だがね、ごく稀に初恋を実らせる人がいる。そういう人は、たぶん魔法が使えるんだ」
 その後、しばらく夕陽を眺めていた老人は、そんな謎の言葉をつぶやくと、ありがとうと礼を述べて去って行った。
 亜佐美は、ちゃんと対応できなかったのではないかとしばらく気にしていたのだが、老人はとても満足していたと後で社員から聞いた。それからまたしばらくして、その老人は亡くなったそうだ。
 個人と接する時間が長くなると、どうしても受ける影響が大きくなる。それ以来、亜佐美は代行する対象を結婚式と葬儀だけに絞るようにした。どちらかというと、葬儀の参列者の方が得意だと思っている。どこか哀し気に見える顔立ちをしていると劇団でも言われていたからだ。周囲にあわせて笑顔をふりまくのは、かなり苦痛だった。それでも葬儀より結婚式のニーズが多い方が喜ばしい事ではある。いろいろ面倒はありながらも、亜佐美はこのアルバイトに満足していた。

 三杯目のコーヒーを飲み終えた頃、壁の時計が四時を告げた。そろそろ移動しても良いだろう。テーブルの上に出していた資料をバッグにしまい、亜佐美は席を立った。心の準備は十分に出来ていたが、体力が消耗している分、気力がついてこない感じがしている。
 窓の外は相変わらず雨だ。自分の重みに耐えきれなくなった雨の雫たちが、ガラス窓を流れ落ちていく。その向こうには、白く霞んだビルの群れが並んでいた。
 少しでも気分を盛り上げよう。こういう時はミュージカルの歌を口ずさむのが効果的だ。亜佐美は勢いよく伝票を取り上げて、ステップを踏むようにレジへと歩いた。

◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇◇

 いつも、披露宴会場に入る前にゲスト用の更衣室で着替えをする。目立ち過ぎない服を選んできたつもりだったが、実際に着てみたらかなり派手に思えた。服はすべて自前だから、こうも結婚式が続くと予期せぬ弊害があらわれる。クリーニングが間に合わない。いけないと思いつつも、思わずため息がもれる。
 薄めの化粧に直すために洗面所へ立ち寄ったせいで、会場に入ったのはかなりギリギリの時間になった。それでもまだ新婦の友人たちに用意されたテーブルには誰も座っていない。式次第で座席を確かめ亜佐美は席に着いた。
 今日の披露宴会場には、新郎新婦が座るメインテーブルの両端に家族のテーブルが置かれている。育ててくれた両親への感謝の気持ちを表す場合の配置らしい。とにかく目立ち過ぎないようにと、もう一度心に言い聞かせた。
 亜佐美が披露宴に代理出席するのは、今月だけで十五回目になる。ほぼ毎日だった。高校や大学の友人として九回、会社の同僚として三回、親族として二回。そして今日は新婦と幼馴染みの親友役を演じるのだ。その上、オプションで友人代表のスピーチまでやることになっている。
 新婦の友人たちは本人と同様に内気なタイプばかりだそうだ。人前に出るのは恥ずかしいからとスピーチ依頼を誰もが断ったらしい。ならばプログラムそのものから外してしまえば良いのに、新郎側とのバランスでカット出来なかったのだという。困り果てた新婦が代行派遣会社に依頼してきたというのが今回の経緯だった。
 亜佐美の正体を知っているのは新婦と母親だけだと聞いている。父親は家族そのものに関心がない。定年になったら熟年離婚される有力候補者だろう。果たして今日出席している父親は本物なのかと疑念が湧いた。これもある種の職業病かもしれない。
 裏側を見てしまった経験は女優の仕事には活かせるが、人としては危うさもはらんでいる。新婦と事前の打ち合わせをして感じたのは、とにかく新郎の家族を気にしている事だった。招待したい親族や友人の数も、新郎の方が圧倒的に多かったらしい。バランスを調整するのが大変だったのだろう。
 依頼者との守秘義務があって、亜佐美のようなアルバイトの身では他に代行のスタッフが入っているかいないかを知ることは出来ない。だが、新婦の口ぶりからして、どうやら親族役も何人か頼んでいるようだ。どこまでが真実で、どこからが虚構なのかは正直知る由もなかった。

「よろしくお願いします」
 突然声をかけられ、亜佐美は驚いて左隣の席を見た。センスの良いお洒落なドレスで身を包んだ同年代の女性と目が合った。きっと親は金持ちだろう。
「田中美菜といいます。本川さんですか」
 彼女は式次第を手に、亜佐美に笑顔を向けている。もう一度自分の名前を確かめるように、亜佐美も式次第を見た。ちゃんと本名が印刷されていた。
「ええ、本川亜佐美といいます。よろしくお願いします」
 偽名を使う時よりは気楽だが、いざ本名で挨拶するのも気が引けるものだと感じた。
「もしかして、雅子の幼馴染の方ですか?」
「…はい」
「やっぱり。私は大学の同級生なんです」
 田中と名乗ったその女性は、とても可愛い顔立ちだった。一目見ただけで活発そうな印象だ。友人代表のスピーチなら、彼女に頼めば良かったのではないかと思った矢先に、彼女からその話題が出た。
「後でスピーチされるんですよね。雅子から聞きました」
「そうなんです。だから緊張しちゃって。他の人に頼めないかって一度断わったんですけど…」
 そう答えてしまったのは迂闊な一言だったようだ。「そうだったんですか」と、明らかに彼女は驚きの表情を亜佐美に向けた。どうやら披露宴では友人代表のスピーチをやる気満々だったらしい。
 数秒の会話の印象でも、かなり一方的に話すタイプだ。新婦を雅子と呼んでいる様子から親しさを感じはするが、もしかしたら新婦は彼女が苦手なのかもしれないと亜佐美は思った。
「やっぱり、幼馴染の方が感動的なスピーチになりますよね」
 さんざん不満を漏らしたかと思えば、いつの間にか、ひとりで勝手に納得している。亜佐美でさえ、話すのが面倒くさいと感じてしまった。日頃はどういう関係なのかわからないが、内気なタイプの新婦と共感できる点は少なそうだ。もう少し席を考えて欲しかったと思ったが、今さらどうにも出来ない。トイレにでも避難しようかと思い始めたところで、彼女が急に話題を変えた。
「そうだ、雅子の幼馴染なら、道雄くんを知ってますよね?」
「道雄…君?」
 一瞬、自分がよく知っている道雄の顔が浮かび、慌ててそれを打ち消した。彼女が言っているのは新婦の幼馴染のことだ。
「生まれたの月島なんですよね? 雅子の初恋の人が道雄君なんですけど」
 心の中に警戒心が湧いた。そんな話は打ち合わせで聞いていない。諦め気分で適当に相槌を打っていたら、話題が変な方に飛んでしまったようだ。
「月島なのはあってるけど、初恋の話は初耳ですよ」
「あたし、もしかしたら道雄くんに会えるんじゃないかと思って、楽しみにしてたんだけどなぁ」
 どんなに楽しみにされても、聞いていない話は答えようがない。亜佐美がはじめて新婦と会ったのは一週間前だ。丁寧に話してくれたが、それでも時間の壁は超えられない。知らない事の方が多いのは仕方ないことだ。
 式次第を見ても、道雄という名前の出席者はいない。この友人用のテーブルには、亜佐美の右隣に座るはずの赤垣勝という名の男性しかいなかった。
「おかしいなぁ。月島にいた頃だったはずなんだけど」
 まだ彼女は思案気に首を傾げている。あざと女子という言葉が頭に浮かぶ。生返事をしながら次の話題を探している所へ、やっと他のゲストが到着し始めた。どうやら最寄り駅の私鉄で事故があり、遅延していたらしい。他の対象が現れると彼女の興味は、すぐにそちらへ移っていった。
 この子どもっぽさを、新婦は苦手というより嫌っているのかもしれない。それでも新郎側とのバランスを考えると、呼ばないわけにもいかなかったのだろう。急に新婦が可哀そうになった。
 とにかく彼女とは視線を合わせないように心がけよう。そう思っていると急に会場の雰囲気が変わった。すでに他のテーブルでは、すべてゲストが到着し終わっているようで、気づけば司会者がマイクの前に立っている。まだ亜佐美の右隣は空席だったが、五分押しで披露宴が始まるようだ。照明が暗くなり、ゲストたちの話し声が消えた。
「新郎新婦の入場です」
 司会者が発した声を合図にBGMが流れ、新郎新婦が会場に入ってくる。ゲストたちの拍手が鳴り響き、視線がそちらに集中していた。新郎新婦はゆっくりと入場している。
 ふと、亜佐美は右隣に気配を感じた。どうやら遅れていたゲストも間に合ったようだ。特に相手を見る必要もないので、拍手を続けながら新郎新婦だけを見ていた。

 異変は再度会場に照明が入り、しばらくしてから起きた。開演の挨拶が終わって、仲人が新郎新婦を紹介している間に、右隣の男が亜佐美に小声で話しかけてきたのだ。
「もしかして、元町にいたあさりちゃん?」
 あまりにも懐かしい呼び名に、驚いて男の顔を見た。あさりというのは、横浜で暮らしていた頃の、ごく限られた人しか知らない亜佐美のあだ名だ。
「やっぱり、あさりちゃんだよね」
「道雄?」
 声に出してしまってから、亜佐美は慌てて口を押えた。男も一瞬は嬉しそうな顔をしたが、あっという間に険しい顔つきになっている。さっきまで話題になっていた新婦の初恋相手と同名だが、もちろんこちらの道雄は違う人物だ。
 亜佐美は混乱する頭を懸命に整理した。今、亜佐美の右横に座っているのは間違いなく広瀬道雄だ。家が近所で、それこそ幼馴染と呼べる間柄だった。そしてたぶん、お互いに初恋の相手だったと思う。だが、本来その席に座るのは赤垣勝という男性のはずだ。道雄がどこかの国の諜報員でもない限り、答えはひとつだった。亜佐美の同業者、つまり結婚式代理出席の代行スタッフだ。
 そこからは、主賓挨拶も乾杯もウエディングケーキ入刀の時間も、気持ちを整理するのに必死だった。それは道雄も同じらしく、とにかくお互いを見ないようにする。 
 亜佐美の席位置は会場の正面を見ている分には右隣を見なくて済んだが、道雄はどうしても視界に亜佐美が入るはずだ。とにかく披露宴が終わるまでの辛抱だと心を叱咤しながら何とか乗りこえた。

 しかし、続く歓談と食事の時間は、そうもいかない。あまり無視するのも不自然だ。左隣に座っている田中美菜は、瞳をキラキラさせながら赤垣勝を演じている道雄に話しかけている。
 気がつけば彼女ばかりではなかった。テーブルの女たちは、みんな道雄に興味があるらしい。確かにこんな最悪のシチュエーションでなければ、亜佐美も話したくなっただろうと思うほど、道雄は魅力的な男性になっていた。
 道雄は、赤垣勝として亜佐美にも話しかけてくる。怪しまれないためにそうしているのだろうが、亜佐美にしては迷惑だった。間違えて本名で呼んでしまったら大失態だ。考えるだけで恐ろしい。とにかく可能なかぎりは無視しようと決めて食事に集中する亜佐美に、急に田中美菜が話しかけてきた。
「そういえば本川さん、さっき勝さんを道雄って呼んでませんでした?」
 他のゲストたちは新婦の席に挨拶に行って不在だったが、それにしても一番訊いて欲しくない質問だ。会ったその日に勝さんと名前で呼ぶ彼女の神経を疑いながらも、無視するわけにもいかないし、下手な事は答えられない。
「聞こえちゃったんですよ。あさりちゃんだよねって言った勝さんと、道雄って訊き返した本川さんの声。あさりちゃんて、亜佐美だからあさりちゃん? 可愛い」
 もはや、天然なのか、わざとバカのふりをして質問している狡猾な女狐なのかわからない。笑いながら話しているが、目は笑っていなかった。
「もしかして二人とも、何か隠してるんじゃありませんか」
 ここでもし、二人が偽物の友人だとバレてしまったら、大変な事になる。新婦は面目丸つぶれだし、当然、代理出席を請け負っている会社にもクレームが入るだろう。SNSで拡散でもされたら責任問題になるかもしれない。コンビニで商品を口に入れたりしているお騒がせ行為のアルバイトたちが、実名から住所までネット上にさらされている事例が脳裏をよぎる。絶体絶命の状況に、亜佐美は思わず目を閉じた。
「それって、美菜さんの気のせいじゃないかな」
 その時、ずっと黙っていた道雄が言葉を発した。彼女に満面の笑みを向けながら、それでいてやんわりと否定している。「美菜さんみたいな可愛くて素敵な人が気にしてくれるのは凄く嬉しいけど」と親しげに名前を呼びながらのリップサービスも忘れない。その周到な言葉回しに亜佐美は多少イラっとしたが、言われた田中美菜の頬が赤くなったのは確かだ。
「私、道雄なんて言ってないですよ。それに道雄っていうのは、あなたが新婦の初恋の人の名前だって教えてくれたんじゃない」
 ここが攻め時だと思って、亜佐美は攻撃に転じた。「さっきその話題で話したばかりだから、そう聞こえたのかしら」とあくまでも断定せずに否定する。
「ぼくは赤垣勝です。赤い色の赤に、垣根の垣、どんな試練にも打ち勝つの勝と書いてまさる」
 二人がかりの否定に、田中美菜もあっさり引き下がった。
「サプライズで、初恋の道雄くんが偽名で出席しているのかと思ったんですよ」
 その、いかにも残念そうな口ぶりから察すると、どうやら本気でそんなことを考えていたらしい。亜佐美と道雄は思わず苦笑した。
 今日、この場に二人を同席させた神様のサプライズの方が、よっぽど驚きだ。亜佐美はやっと道雄の顔をじっくりと見た。たぶん二十年ぶりだろう。式場の照明で、道雄の瞳がキラキラと輝いていた。

 こうしたハラハラしたやり取りは、かえって亜佐美を落ち着かせてくれたようだ。一度苦境を過ぎてからは、新婦の親友を演じることに集中できた。
道雄も赤垣勝なる謎の人物を上手く演じきっている。何より、ちゃんと言葉のキャッチボールをしてくれることが嬉しい。まるで気の合う仲間と芝居の稽古をしている気分だ。素直な気持ちで、この場にいられるようになる。おかげで食事の後の友人代表スピーチは、原稿も見ずに心をこめて話すことが出来た。
「月島で暮らしていた頃、雅子には初恋の人がいました。道雄君という可愛い男の子でした。初恋は実らないものです。でも今、雅子は初恋の男の子より何十倍も素敵な男性と巡り会いました。ふたりの恋は、しっかりと実って愛になったのです。雅子、本当におめでとう。お二人が末永く幸せであることを、心から祈っています」
 結婚式の話題として話して良いものか悩んだが、事前の打ち合わせには登場しなかった初恋のエピソードも、ちょっとだけスパイスとして加えてみた。
 新婦は一瞬なぜ知っているのかというように驚いた顔をしていたが、やがてハンカチを目から離せなくなった。新郎がそんな彼女を、優しく労わっている。式が始まる前は、こんなに虚構だらけでスタートする結婚生活が本当に上手くいくのか疑問だったが、人には嘘が必要な時もあるのだと亜佐美は思い直していた。
 どんな仮面を被ったとしても、その下には必ず生身の顔があり、柔らかく傷つきやすい心がある。それを守るための仮面が罪であるはずがない。
 午前中のフラッシュモブよりも、しっかりと演じきれた実感が亜佐美にはあった。本当の親友のような素直な気持ちで思いを伝えられたはずだ。それに、あの酔っぱらって羽目を外してしまうようなダメ男よりも、こちらの新郎の方が見るからに誠実だと感じる。この二人は、きっと幸せになるだろう。そう亜佐美は確信した。

 席に戻ると、左隣の田中美菜が、絵に描いたようなふくれっ面で待ち構えていた。
「やっぱりサプライズだったんじゃないですか」
 ワインを何杯も飲んだせいで酔ってきたのか、ずいぶんと頬が赤い。プレッシャーがなくなった分、亜佐美は面倒くさい彼女にも優しい言葉をかけてあげたくなった。
「あとで、あなたに一曲プレゼントするわ」
 そう言って、隣に座っている道雄に「ア・ホール・ニュー・ワールド」の替え歌を書いた紙を渡した。スピーチから戻ってくる途中で、サプライズに歌を披露したいと司会者に耳打ちしてきたのだ。使い回しだけれど、ここでそれを知る人は誰もいない。
 歌えるかと道雄に訊ねたら、もちろんだよと快諾した。さすがは亜佐美がミュージカル女優を目指すきっかけになった男だ。父親がバンドマンだった道雄は、幼い頃から演奏も歌も飛びぬけていた。彼が歌ってくれたミュージカルナンバーは、今でも心の中に残っている。
 現在の彼が何を目指しているかは不明だ。でも自分と同じ代行業をしているなら、やはり自分と同様に食えない役者なのかもしれない。思い切って、恋人はいるのかと訊ねたら、残念ながら絨毯に乗ってくれる人がいなかったと答えた。気障な答えだが、目は真剣だ。それで十分だった。
 キャンドルサービスで会場が暗くなった時、「初恋は実らないなんて、誰が言ったんだよ」と道雄が小声で訊いてきた。そっと人差し指を口に当てながら、亜佐美は道雄の顔を覗いてみる。今度はキャンドルの炎が、瞳の中でゆらゆらと揺れていた。
 いつか初恋の話をしてくれた老人は、初恋を実らせることが出来るのは魔法を使える人だと言っていた。幾つもの仮面を操れる力も、魔法のひとつなのかもしれない。亜佐美は役者こそが魔法使いなのではないかと思った。
 お互いにとっての空白の期間は、この式が終わってからたっぷり話せばいい。時間は十分にある。今は神様から与えられたこの舞台で、式場に集った人たちにプロの歌をプレゼントするのだ。
 キャンドルライトの中で、前奏が流れてきた。なんて演出力の高い司会者だろう。マイクのある場所へ行くために急ぎ足で赤いカーペットの上を並んで歩いていると、まるで未来を先取りしているような気持ちになってくる。
 六月生まれではないけれど、ジューンブライドも悪くはないと亜佐美にも思えてきた。見せてあげよう輝く世界。最初の歌詞が心の中に浮かんでくる。スポットライトの照明に切りとられた床が、魔法の絨毯になっていた。
「ア・ホール・ニュー・ワールド」。今日が二人にとっても、まったく新しい世界の始まりになるのだ。


※代行業を請け負う会社は実在します。興味深くホームページを読んでいくうちに浮かんできたのが、この物語。「代行屋シリーズ」というのも面白いかもしれないと思っております。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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