それでも、明日は来る
先日、祖母が亡くなった。
最後に会ったのは年末年始に帰省した時。
GWにも会いに行こうと思っていたが、間に合わなかった。
なかなか食事が取れなかった祖母は、年末年始も入院していた。
その後退院したものの、1週間ほど前に別の病院に入院したばかりだった。
地元にいる母が病院に付き添ったり、妹がお見舞いに行った話を聞いてはいたが、病院の空気がかなりしんどいようで、これが終末期医療というものかと詳しくない人も実感せざるを得ないような、死の匂いがすると言っていた。
亡くなる前日は熱が出て息苦しそうで、会話もできない状況だった。仕事の休憩時間にその連絡を受けた時は、思わず涙がこぼれたし嫌な予感がして、仕事中も祖母のことが頭から離れなかった。
その翌日に日付が変わってすぐ、祖母は帰らぬ人となった。病院から知らせを受けた祖父やおば、母や妹がすぐに駆けつけたが、誰も間に合わなかった。
思えば、人が死に向かっていくのをこんなにも近くで見たのは初めてだった。先に亡くなった父方の祖父母とは会う機会も少なく、実家を出た私には体調などの話は届いておらず、突然亡くなったような印象だった。それでもお葬式では、子供や孫たちに惜しまれる様子を見ていると自然に涙はこぼれた。
祖母が病院で癌の宣告を受けた日、私はたまたま帰省しており、母とおばと4人で病院に付き添った。病院に行く前の4人の食事が、祖母との最後の外食だった。当時は現実を知るのが怖かったし、母もはっきりと言わなかったと記憶しているが、あの時、残された時間についてもっと聞いておくべきだったと後悔している。
もちろん、人は皆いつか死ぬことは理解している。でも生まれた時からそばにいる人がいなくなることを想像するのは難しい。いざ現実になると、後悔ばかりが思い出される。
入院中、家に帰りたいと願っていた祖母は亡くなったのちに家に帰ることができた。
私が対面した祖母は、布団の中で穏やかに眠っているように見えた。
しかし手や頬は冷たく、耳は青白く爪は真っ白。
棺桶に入る前の遺体に触れたのは初めてだった。
私は昔から恥ずかしがり屋でスキンシップも苦手で(特に身内からの)、大きくなってからは抱きしめようとする祖母を拒んだりしていた。歳を重ねた祖母との外出は、一緒にいることを恥ずかしく感じる時もあった。祖母が亡くなった今となっては、本当に後悔しかないし謝りたい。
祖母が亡くなったことで、昔の思い出を振り返る機会になった。
お盆やお正月に親戚みんなで集まる時は、巻き寿司や揚げ物、煮物などなど、たくさんの料理を作ってくれた。
祖母が選ぶお刺身はとても美味しく(やはり高級らしい)、孫やひ孫が喜ぶからとカニの爪なども用意してくれた。幼い頃、妹が刺身が好きと言ったら、毎週祖母の家に行くたびに刺身が出てきて正直飽きてしまった。いつだったか、祖母が買った鮭を冷凍してもらい、自分で焼いたらあまりにも美味しくて感動した。
小学生の頃の夏休みも、学校に迎えにきてくれたり、しょっぱい卵焼きやおにぎりの入ったお弁当を作ってきてくれて一緒にお昼を食べた。
小5の時には、学校で突然体調を崩した私を迎えにきてくれたのも祖父母だった(私は記憶になかったが、お迎えに来た祖父母を見て妹は驚いたから覚えていたらしい)。
祖母と孫でお出かけした時、お昼ご飯にデパートの中のモロゾフによく行った。祖母がサンドイッチで私はパフェ。お昼をデザートにしようとしてるし、大きくて全部は食べきれなかっただろうに、いつも私の希望を叶えてくれた。祖母の苦手なハムを、孫たちはもらっていたらしい(妹の記憶)。
祖母にとっては最後の孫で、歳上の孫たちより一緒に過ごした時間は短い。私は勝手に、祖父母に結婚式に来て欲しい、ひ孫を抱かせたいと思っており、祖母の体調が悪くなってからは余計に焦りが募っていたが、どちらも叶えられなかった。
最後に会ったお見舞いの時、彼氏とはどうなのかと聞かれ、別れるかも(当時はそんな話など出ていない、ただ予感はするという時期)と答えたら、祖母は別れたらいいと言ってくれたし、どんな形でも孫の幸せを願ってくれているだろうと今なら思う。
祖母の納棺の際、業者の方が少しだけ肌と唇にお化粧をしてくれた。しかし、時間とともに口紅が薄くなってきたり、眉毛がないのも気になり、おばと共に口紅を足したり、フェイスパウダーを足したりした。おばが眉毛を整えて、私はペンシルで書き足した。やりすぎないようにいろんな角度ら確認しつつ、スクリューブラシでぼかしながら書いていったが、やはりすっぴんよりも良いと思えたし、メイクの力を今までにない体験から実感した。
祖母が亡くなってから、何度も何度も涙をこぼした。特に印象に残っている場面が2つある。
1つはお葬式で祖父が喪主の挨拶をした時。
生前の思い出話は少なく、亡くなる前の病状についてばかり語っていたが、
「今日からは、私の〇〇(祖母の名前)ではなくなり、○○○○(亡くなった時にもらう名前)になりました。」
という言葉で涙腺崩壊だった。祖父母と孫という関係上、祖父母に夫婦というものを意識する機会はなかったが、何十年と連れ添った2人なんだなと改めて知ることになったし、彼氏と別れて2ヶ月経たない私には色々刺さるものがあった。
もう1つはGWに帰省した時。
母が用意した花を持って、孫2人で会いにいった。着いた時、祖父は畑に出ていた。
お供えするお花を用意する時、母の用意した花だけではボリュームも少なく、色も1色で寂しかった。すると祖父は、自分が育てる鉢の花を切りはじめた。彩りやボリュームを見ながらお花を足していく姿に祖母への愛を感じて、天気がよく気持ちのいい昼前の外なのに、涙が溢れてしまった。
もうすぐ四十九日。妹は予定通り海外に飛び立ち、母やおばは準備で慌ただしく過ごしている。私は一人暮らしの日常に戻った。
彼氏も祖母も失い、これが人生の分岐点なのだろうと実感する中、新しい出会いもあり、しんどい時期が落ち着いてきて、なんだかんだ楽しく過ごしている。
下書きだけが溜まりがちだが、次は新しい出会いについて書き残そうと思う。
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