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友だちとの会話は、いつも「雑談」だった

「コミュニケーションは雑談の繰り返しである」というお題が出たら、ファシリテーターはどうやって仕切るんだろうな……と考えてました。

ファシリテーターって、一般には共通の目的達成のために話を促したりまとめたりする進行役ですよね。

でもそれって「雑談」じゃないですよね。
「本日のテーマは『雑談』で、◯時までに雑談の内容を整理して共有します」とかで始めるんでしょうか。ポストイットに雜談書いて、張り出しちゃったりするのかなぁ。ファシリテーターが自然に準備した冗談がスベる時とか、ものすごくいたたまれない気持ちになるんだけど、あれはどうにかならないんだろうかといつも思います。

これは偏見なのかもしれませんが、得てして上手なファシリテーターは雑談力も高い気がします。

参加者が脱線しそうになるギリギリのラインを見極めて、自分で先に雜談を差し込み、また元に戻すみたいなことをさらっとやってのける。そういう人っていうのは、だいたい冗談の使い方も上手くて、相手に対してどこまで突っ込んでいいのかを見極めるために、冗談を武器として巧みに使っているいう印象があります。

逆にいまひとつだなと感じさせるファシリテーターは、アイスブレーキングのためのアイスブレイク、場を和ませるための冗談を発しているような感じで、手段が目的化しているように感じます。

「イエス・キリストはさ 笑ったことがあります?
 聖書に一度でも出てくる?」
「…… いや …… 一度も」
「そうでしょう そしてボクはね、ボクの精神衛生上 “笑わない様な奴はつきあうな” って考え方になれ親しんでいるものですから」

(三原順/「はみだしっ子」Part.15 カッコーの鳴く森)

これは聖書に限らず、私自身も冗談も言わない相手と付き合うのは苦手です。冗談を言ってはいけない「雜談」を1時間続けろっていわれたらかなり苦痛だと思います。

効率的なミーティングを行うためにアジェンダを設定し、共通のゴールに向かって驀進するというのは、過酷なビジネスの現場においては正義なんだろうと思いますし、そうあるべきだろうとも思います。でも一方でその目的が比較的緩やかで、良好なコミュニケーションの成立の方がむしろゴールへの近道であるというケースは往々にしてあると思うんですね。

そういう時には、いかにもリニアな感じの「対話」より雜談の繰り返しのほうがより有効で「より深いお互いの相互理解」を生むような気がします。

例えば私の印象では「対話による相互理解」は紙の上に点を打ち、その点と別の点を線で結びながら一定の方向に向かっていく感じ。

一方「雜 談」は紙の上に書かれた任意の一本の線で、また別の雜談をすると線が一本引かれるイメージです。10本や20本では重なることはいくらもないですが、何十本、何百本と線を引くうちに線が集中的に重なる部分が出てきて、そこに相互理解が生じるといった印象です。

私はnoteに「雜談」の印象を持っています。

LINEやXでも雜談はできますが、文字量の少ないSNSでは交互にやりとりしている量は多くても「雜談」としての線は短く、なかなか交わることが出来ません。一方、noteはどれを読んでも、それなりのボリュームがあり主張があります。コメント欄はありますが、SNSとしての機能性は重要視されておらず、より自由な発言ができるように工夫されています。

それは大きな喫茶コーナーで、コーヒー片手にカウンターテーブルを回り、他人の雜談に耳をそばだてているような感じ。

ちょっと思いついて始めただけのnoteですが、こんなことを一年も続けていたら自分自身が丸裸になってしまいそうな印象があります。

まあ、それならそれでいいような気もしますが。
とりあえず息切れするまでは続けてみようかと思います。

さて、どれだけ続くでしょうか、見ものです。
んじゃねまたね。

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