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「弥生、三月 君を愛した30年」現代に成り立つ恋物語。映画的な演出とは何か?を考えさせられる

今年の春は、桜の開花が早く、今日も暖かいので、ここ2.3日で満開になりそうな気配である。この映画、その桜の蕾が所々に出てきて、最後に開く話という事だ。私も3月生まれだし、結構いい話だと思う。ただ、脚本家が本業の遊川和彦監督の演出力はやはり物足りない。

主演の成田凌と波瑠が高校生から、50才になる前までを演じる。この辺り、二人は問題なく演じ切っている。特に、成田の高校生演技と父親としての演技の幅には少し驚かされた。とにかく、今伸び盛りの役者である。

そう、30年という時間を2時間に封じ込めているのだが、これがどうもダイジェスト風に見えてくるのがいけない。高校時代、二人の結婚の失敗と再会、そして東日本大震災の出来事での別れ、そして高校時代の友人が30年の時を超えて二人を結びつけるラスト、とそれぞれの話はそれぞれに面白い。そして、こういう恋愛劇は現代だからこそ成立する気はする。これ、テレビドラマの流れなら、回が変わって時間が省略されているのはいいのかもしれないが、映画としては、いつの間にか時間が飛んでる感じに繋がっていてドラマが端おられている感じに見えてしまうのだ。もう少し章というものを明確にすべきだった気がする。

そして、やはり脚本家はストーリーを追うことに囚われすぎるのだ。だから、画で情感や喜怒哀楽を表現しきれないのは、ある意味紋切り的な失敗である。そして、私が日頃から思っている、映画の「間」というものがない。同級生の墓の前を交錯しながら、人生を語るだけでは、その重みはあまり観客には通じない。そして、時代の過ぎるのを電話の技術革新の差に見出そうとしても陳腐なだけである。

舞台を宮城にしているのが、時代の流れの中に東日本大震災をうまく使いたかったというのはあると思うのだが、それも、波瑠の相方の小澤征悦を殺して波瑠を独り者にする道具にしかなっていない。

そして、何回か、話が過去に戻る時があるのだが、この時間軸の使い方も、「何故そうしたのか?」という意志がなさすぎるのだ。テレビドラマのいわゆる、長いだらだらした展開なら、こういうのも許せるが、2時間の濃厚なものを観客が求める映画の画面では、受け入れがたい。時間軸を破壊したいなら、もっと計算されたものが見たいと思うだが、監督さんの心は如何に?というところ。

最終章となる二人が結ばれるシークエンスは、監督はイメージを大きくはっきりと持っていたのだろう。構図も流れも至ってスムーズだ。二人が再開する、古本屋の「奇跡の人」のところも、ある意味ベタなよくある光景だが、いいと思う。ただ、ここでも使われ、最後にも流れる「見上げてごらん夜の星を」はいかがなものか?これだけで古臭いし、実際の彼らは今50前のバブルの空気をなんとか知ってる世代である。もっといい曲はなかったのか?監督の頭の古さという感じがする。なんか、しっくりこないんですよ!

ある意味、三月に絞って語られ続けるストーリー。今年の三月のこの不穏な空気もまた誰かが映像にしていくのだろうか?三月とは、別れと出会いが交錯する季節である。だからこそ、ドラマチックではある。この話のタイトルも映画の中では「弥生、三月」だけである。その後の余計なものは多分広報上のこのなのだろうが(だいたい制作に電通が大きくかかわってるようだしね)、こういうサブタイトルはテレビ的で私は嫌いである。

後、成田凌の母親役の黒木瞳のおばちゃんぶりがなかなか良かった。彼女も私と同じ歳だから、今年還暦。それ相応の味も出せるようになったということですね。最後に出てくるママになったばっかりの彼女と比べると、やはりこの人は侮れない化物女優さんであるのですが…。

そのラスト、「三月生まれは、これから春になる季節に生まれてきたので、人生いつも未来はいいことが起こると信じている」(ちょっと違うかもしれない)ということを言っているが、私もそうなので、それは真実だと思っている。まあ、今年は残念なお誕生日月なのですけどね…。

最初にも書きましたが、いい話だと思います。でも、映画としての重厚感が足りないし、やはり脚本家の撮った映画という色を消せていないのは残念でした。後、この手の日本映画全体に言いたいのだが、全体の細かいカラーグレーティングができていない。デジタルで様々に色で表現できるんだから、とことん突き詰めて春の色を出して欲しいと思うのよね。余談でした。

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