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「せかいのおきく」俺は世界で一番おまえが好きだ!と言える時代の尊さみたいな・・。

予告編では、モノクロの時代劇映画であり、「うんこ」が印象的なものだということはわかった。佐藤浩一と寛一郎の親子共演というのもあり、黒木華主演で、阪本順治監督となれば、それなりのものを見せていただけるだろうと見に行った。

舞台が安政五年から二年ほどの物語。つまりペリーが浦賀に来てから数年、日本が大きな変革を迎えようとしている最中の江戸の長屋の物語である。映画の中には、そんな政治状況は全く出てこない。そして、侍のいざこざみたいなのも、佐藤浩市が殺され、黒木が喉を切られたシーンだけだ。それも、何故にそうなったかは説明されないから、そのシーンで重要なのは、黒木がその事件で声を失ったということだけだ。

そう、あくまでも、江戸に生きる底辺の若者の恋物語をどう紡ぐかという映画なのである。情景を江戸に変えることで、今につながる何かを求めるように坂本監督は考えて作った映画だろうとは思う。時代劇にしたら、かなりふわふわした感じなので、観る人によって様々な捉え方をするだろう。私的には、黒木と寛一郎の飾りのない愛が最後に結びつくみたいなところは綺麗だとは思うが、メッセージ性が薄いために、やはりあっさりし過ぎている映画に感じた。

「せかい」という言葉は、江戸時代から地図などには書かれていたらしいが、一般的にはまだよくわからない言葉であったのだろう。だから、ラストの方で真木蔵人演じる僧侶がその言葉を説明するところは興味深かった。真木蔵人、好演です!確かに向こうの方にあって、後ろに続いているみたいな説明は当たってはいるが、???という時代である。それよりも、佐藤が殺される前に寛一郎に「せかい」って知ってるか?と言って説明するところの方がわかりやすい。そして、佐藤が寛一郎にいう「惚れた女ができたら言ってやんな。俺は世界で一番おまえが好きだってな」この映画の中の「せかい」という意味は、黒木と寛一郎の世界、男と女の世界ということなのだろう。

で、その寛一郎と佐藤浩市の親子共演は、なかなか締まったシーンになっていた。佐藤が自分の死を予感し、うんこをしながら汚穢屋の寛一郎に最後の言葉を残すというシーン。ある意味、親子でこのシーンを撮ることでそこに有機性が出ている感じだった。寛一郎がもっと良い役者になった時に語り継がれるシーンだろう。そう、寛一郎の演技はかなり良かったと言える。

そして、あまりそこを強調して書くと文章全体が臭いそうなので、ここまで書かなかったが、この映画全編「うんこだらけ」の映画である。なぜに汚穢屋という商売を主役にしたかと考えれば、「うんこ」は身分に関係なく出るものだし、臭いものだからだろう。それを生業にしている、池松壮亮と寛一郎の印象は強くなるし、こういうものたちがいて、江戸の街も成立していたことが理解されることも重要だろう。下水道完備の江戸でも、糞尿処理には苦労していたというのがわかる。

ただ、その汚穢屋の寛一郎に対して、恋心を示す黒木華の気持ちがいまいちわからない部分がある。確かに冒頭の雨宿りの部分で、黒木が寛一郎に一目惚れ的な表情をする。多分それだけだ。恋などというものは理屈がないのはわかっているし、そんなものだろうと言われればそうなのだが、それを恋の成就まで持っていく描き方がわかりにくいのがこの映画の欠点であり、それが私に理解できたら、この映画の評価は高くなったと思う。確かに、江戸時代の恋愛などこんなものでしょうと言われればそうなのだが・・。もっと簡単に考えて、父親に似た男を好きになったということでしょうか?

阪本監督自身、スタンダードサイズの映画は初めてか?多分、この江戸の長屋風景を描くにはこのサイズがいいと思ったのだと、私は勝手に理解した。昨年、ビデオで山中貞雄監督の映画を見直した際に、スタンダードサイズの縦移動の使い方の巧妙さに唸らされたが、多分、阪本監督もああいうような映画を撮りたかったのだろうなとこれも、勝手に想像してしまった。

とはいえ、各章の最後がカラーになるやり方には必要性を感じなかった。色よりも画の面白さで、章を転換して行ったほうが良かったのではないか?まあ、趣味の問題だろうが・・・。「うんこ」の色を出したくなかったからモノクロにしたのかと思ったら、カラーのうんこシーン出てきましたものね。

そして、ラスト、クレジットが流れる中で三人が歩いて消えていくところで、「青春だ」と叫ぶシーンがあるが、まず江戸のこの頃にその言葉を使っているとは思えない。まあ、歴史考証など関係なしにそう言わせたかったのでしょうな。そう、この映画は江戸末期の底辺の者たちの青春映画なのですよ、ということらしいです。


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