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「最高の教師 1年後、私は生徒に■された(第7話)」学園の歪んだ構造社会が、一般の社会にリンクして見えてくることでドラマが有機化してきた。

最後の教頭、荒川良々の謝罪会見はなかなか秀逸だった。いじめ問題とかがあって、学校が謝罪する場合、その後に大体、その内容の薄さが批判され、「本当に悪いと思ってるのか」という意見が出るのが当たり前だからだ。ここにあるように、本当に自分が全責任を取ろうなどという教師は今は皆無に等しい。

そう、学校という組織は、生徒を募集し、入学させて、無事卒業させれば良いところなのだ。そこに、優秀な生徒を育てるとか、生徒の個性を伸ばすとか、そんな綺麗事はいらない。進学校なら、いい大学にいれて仕舞えば、その高校は良い高校みたいになるのは、ここ半世紀何も変わらない。

学園ドラマで、今回みたいに生徒だけで問題を解決しようと長々と話をするシーンが今まであっただろうか?教師の心の内の変化をここまで描こうとしたドラマがあっただろうか?そう考えさすだけで、なかなか秀逸なドラマに仕上がってきた感じはする。

初めは、松岡茉優の二度目の人生のやり直しドラマだったのが、彼女の心の変化が学園全体の意識変化みたいになっていく感じがなかなか興味深い。前回、芦田愛菜が死に、その問題についてどう考えるかを1回分を使って皆で考える回。そこで、その実態について早急に考えるよりも、楽しく学園生活を送れていた芦田が亡くなったということが、どういう意味を持つのかという回なわけだが、生徒も教師も、自己のアイデンティティを通して、この学園という場が何を意味してるのかを考え出す。ある意味、今も、こんな学園はないと思う。子供たちはまだそういうことを考える脳が出来上がっていないし、教師は、教科以外のことを教える技は教わっていない人ばかりだからだ。

荒川が、松岡に言う、「格好いい先生」と呼ばれたいだけで先生になったと。まあ、日本の職業選択はそんなものだし、それを否定する私ではない。そして、最後の会見は格好悪いスタイルだが、最高に格好いいシーンになっているわけで、人の意思とは、こんな形で現実化する場合もあるよねと納得もさせられた。

そして、その荒川と話す松岡が、事件の加害者のような人に対し「誰かの尊厳に砂をかけてまで何を守ろうとしているのか」と言うことをいう。それは、なかなか深い言葉である。自分軸をしっかり持てない人に限って、他人に対しいらぬおせっかいを焼いたりする。それが、変異していじめに変化する。

そう言う意味で、クラスを仕切っていた、加藤清史郎がクラスの話し合いの場にうまく踏み込んでいけないのは、仕切ると言う感じの自分のアイデンティティがそこで消えているからだ。不良の世界は、リアルな世界で自分が目立つ位置にいればいいのだが、実際に自分軸が弱いから、人が怯えることが重要なわけだ。

そう、ここにきて、タイムリープ的な設定はともかく、教育において、今まで踏み込んでいけなかったような部分をうまく描いていこうとする脚本であることがわかってくる。松岡自身が殺されたことにプラスして、芦田が殺された問題が増えたわけだが、どこに着地点を見つけていくか、すごく興味深くなってきた。

「覚悟を持った本気は、世界を常識を変える」と言う芦田の言葉も繰り返されたが、ある意味、これは、我が国に対する大きなメッセージだろう。我が国が、今、それを避けていることで、世界の中から遅れをとっていたりするのだ。

覚悟をもて、日本!

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