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「窓辺にて」今泉力哉監督の恋愛感を題材にしたSF映画?

前作「猫は逃げた」は見逃したので、私的には今年初めての今泉力哉監督の映画。東京国際映画祭では観客賞を獲ったというから、結構エンタメ色が強いのかと思ったら、まあ、静かな会話劇だった。そしてカメラもほとんど動かない、フィックスで会話を捉えて、それを繋げて行く様は、小津安二郎的なものも彷彿させるが、小津ほど活劇にはなっていない。今泉流の静なる映画である。

だから「観客賞」というのは、どういう観客が選んだのだろうか?と考えてしまった。稲垣吾郎のファンだったら、まあそれなりに楽しめるだろうが、これが「好き」と言えるのは映画に求めてるものがなんなのか理解に苦しむ感じもする。時間も143分と長め。心理的展開以外に大きなドラマがないため、眠気を感じた人はなかなか最後まで見ていられないような作品にも思える。明らかにビデオで見る作品ではない。私的には、それほど長さは感じなかったが、もうひとつ構成に抑揚が欲しい気がした。

テーマは、主役の稲垣吾郎が、妻の中村ゆりの浮気に強い嫉妬みたいな怒りを感じないという話。それを聞いた若くして文学賞を受賞した玉城ティナはそれを最後に小説にする。そして、彼女が別れるといった彼氏はそれを読んで、「こんな男いませんよね」「これSFですよね」と稲垣の前で喋って終わり。そう、この話はSFだという括りでクレジットが出てくるのだ。

そう言われると、なんか映画全体の意味合いをSFとして考え出す私。確かにLGBTが不自然でないものとして語られる世の中。そして、男が女を狩るというよりは、女が男を狩っているような世の中。それは、私のような古い人間から見たらSFなのかもしれない。確かに、今更男が女をレイプしてもインパクトはなく、ただ叱責されるだけだが、逆なら「時代は変わった」ということになる。そう、ここでの稲垣吾郎的な人間は増えているのかもしれない。そして、それは宇宙的視野で考えれば認識できるような話として消化すればいいのかもしれない。

映画の中に「文字」での表現は出てこないが、この映画の中の出演者は半分は物書きを生業にしている者たちだ。そう、いらない妄想も、リアルなことも文字にして認識したがる感じ。そういう空気感は脚本の中に見事に世界として提示されてると思う。そう考えれば、日頃、本を読まない人には、こういう会話劇は、映画として受け付けないのではないかと私は思うわけである。

ただ、監督、ただのそういう映画にするのはやだったのか、稲垣がパチンコを初めてやるシーンとか意味不明のシーンを突っ込んでくる。ここでパチンコに大当たりして、隣のお姉さんに出球を全部プレゼントするも、お姉さんが追いかけてくるとか、このシーンいるの?と思う人は多いだろう。まあ、このパチンコをやるきっかけになる、タクシー運転手との会話で「パチンコは金も時間も失くす遊びだから贅沢だ」というセリフは面白かった。監督、この言葉を使いたかったのでしょうね。ただ、これは稲垣の感情とはシンクロはしないよね・・・。

会話で繋いでいく中で、稲垣に付き合う玉城も今ひとつ存在感が弱い。他の男が押し倒したくなるようなアンニュイな感じが欲しかった気がする。そう、性を取り扱う映画にしては色香を感じないのだ。ここは完全に欠点だと思う。

とはいえ、中村ゆりが、浮気相手と事を終えて服のボタンをつけているところと、最後のおにぎりを食べるシーンは、彼女の2面的な美しさみたいなのが見れた感じで嬉しかった。今泉監督の映画の良いところとして、私が美女と思う人は、ちゃんと美しく撮ってくれるところがある。そう、監督自身は女性に対して至ってノーマルだ。そういう観点からここでの主人公を描くのがもうひとつ難しいのかもしれない。とはいえ「his」では、しっかり同性愛について描いていましたね。まあ、他人の変わった性癖ってわからないですよね。考えれば、自分以外は、皆変態と考えた方がわかりやすい。

テーマの目の付け所はとても良いのだが、映画脚本としてうまく消化されないままに撮ってしまった感じもする。それが143分という長さになったのではないか?と私は思う。そう、こういう題材ならもっと観念的に描いていっていいし、心象風景をもっとデフォルメして提示した方がわかりやすい気はする。そして100分程度にまとめて濃厚にするのがベストな気がする。

そして、見終わって思ったことは、確かに今文学に興味がある人って、少し昔の次元にいるようで、SF的な妄想が激しい人なのかもしれないということだ。中村ゆりを見るためにもう一度どこかで再見すると思われるこの映画。今度は最初からSFとして見ていきたいと思ったりする。

稲垣吾郎は好演でした。


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