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「95(第6話)」 夏の日の喪失からの花火の虚しさからの傷つけあうだけの日々へ・・。

と言うことで、松本穂香と高橋海人のラブホテルの一夜で桜井ユキを孕ったと言うことなのだろう。何故に松本がその時にゴムをつけなくていいと言ったかは、彼女の経験を表現しているのかもしれない。そう言うことは、桜井が高橋の子とも限らないという余白は残ってはいる。

ある意味、高橋がその瞬間に脳裏に花火が打ち上がったのかもしれないが、この夜のことが、高橋にそれほど特別な夜でもなかった感じには描かれている。そして、花火大会の話で盛り上がって、そこから先はカラオケボックスの渡邊圭祐が絡んでくる。というか、何故に、そこに煙火店の関係者がいる?そして、花火を打ち上げる話を彼にして、いつの間にかそうなることに・・。そして、夏は無理だと言う話から、クリスマスに渋谷で花火を打ち上げる話になる。そんな話の中での屋上での花火大会。この風景に80年代の青春を過ごした私は、映画「ファンダンゴ」を思い出す。フジテレビが宣伝しまくったこれと似たような青春映画だったが、花火のシーン以外はあまり内容を覚えていない。その記憶の断片だけが残る感じが青春というものかもしれない。

そんな中、中川大志が襲われる。この時代、若者たちは、その場所のイニシアチブをとりたかったのかなんだか知らないが、まだ、暴力でそれができると信じられていた時代だったわけだ。今、そういう感覚が若者気質として亡くなったのは何故だろうか?時代が闘争を求めていない?ここでも、その敵に対して熱く攻撃的になってるのは高橋だけだ。何故だかわからないが・・。そして、空手道場に再入門とか、これ、多分嗤えるシーンなのだろう。

でも、地域の戦争で時代はそれなりに虚しく変化はしていくだろうが、当事者の心の中は、何も変わらないみたいな、そういうモヤモヤが、このドラマの映像からは流れている感じなわけで、そういう意味では、演出の城定秀夫は確かにもがいている。そこがいい。

で、チームのメンバーの女子が援交をやったということで波紋にされる。そんなことで、というか、親の経済状態でチームがばらけていく感じは、まだ、金が世の中を生きる上でとにかく重要だった時代みたいなものも匂わせる。ここまで見てきて、1995年という時代が、高度成長期とバブル後の閉塞時代の真ん中にあり、普通に出せるはずの若者の、その場限りのパワーみたいなものの使い所が無くなりかけた時代というところなのかもしれない。

そう、若者が、酒やタバコでなんとなく大人気分になれた最後の時代とも言えるのか?いろんなことを考える。まあ、Z世代と呼ばれる人々には、ここで描かれるのは時代劇であるが、そこからどういう印象を持つかは知りたいところだったりもする。そう、この燻って火がつかない感じが私には愛おしいというところなので・・。

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