「インビジブル(第10話)」こういう犯罪の流れがフィクションに思えなくなった状況がヤバいのだろう
冒頭で永山絢斗が殺され、桐谷健太が自ら自分が黒幕だと名乗る。ここから、もはや騙し合いが始まり、スタジアムでの大団円へと流れていく。最終回は、スリリングでいて、このドラマに内在する現代の狂気みたいなものがすぐそこにあるということを提示もしている。えげつない殺人の向こうには人の狂気の在りどころの吐露みたいなものがあるわけで、警察に潜り込み、自分のエクスタシーみたいなものを感じるために殺人を行うという、もはや、狂気のリミットみたいな桐谷健太は普通にあなたの組織にもいるのでは?と問いかけられたようだった。
そう、子供のいじめでも、社会組織の中での悪口の応酬も、加害者が何を求めているのかと言えば、相手がムカついて浮かべる表情だ。その表情を見て彼らは自分が優位に立ったと思う。そして、マウントすることにより自己承認していくわけで、この自己承認方法は、リミットを知らない。極端なことをいえば、いじめ抜いて相手が死んでくれれば本望というような人間がいるのだ。そう、世の中の理性のコントロールが、昨今、著しく歪んできている。
このドラマで提示される、インビジブル、クリミナルズという集団は、そんな理性が破壊されたものたちが、その承認願望を果たすためのものに集まったものだ。そう、現金が欲しいだとか、恨みがあるとか、そんなものは皆無であり、世の中に必要な愛情みたいなものの正反対のものなのだと思う。
そして、桐谷健太の事件に対する楽しみ方は、映画「ジョーカー」に通じるものもあるし、ある意味、社会の根っこに、公の機関にも、こういう輩が増えつつあるような気がするから、このドラマは普通に楽しめないところがあるのと同時に、こんな社会が現実にあるというリアル感も同時に感じたりする。「ジョーカー」も見終わった後に私はそう感じたからだ…。
まあ、バットマンのようなアメリカンコミックの世界の映画が最近になってまたウケているわけで、インターネットの普及もあり、こういう、思考の飛躍がリアルに実現するという妄想が平気でできる時代だということだろう。
そして、インビジブルであると宣言して警察に近づいてくる柴咲コウ演じるキリコというキャラクターがここでは魅力的すぎる。こんなインビジブルがいれば、存在が隠れているにせよ、そのセンスについてくる犯罪者は頭のいい輩たちだろう。そう、センスにはセンスがついてくる。そういう意味では、日本の公の組織はセンスが悪い感じがするから、センスの良いインビジブルやクリミナルズが潜入しやすくなっているとも言えるのかもしれない。
そういう意味で、このドラマは、ただのフィクションではなく、大きな問題定義をしているようなものになった気はする。途中、少しもたついた感はあったが、最終回は面白かった。そして、高橋一生のキャラクターはなかなかニヒルな英雄であり、ラストも格好良い見せ場を作りながら、演じあげた感じ。彼であったからこうなったという感じが好ましかった。
あくまでも、このドラマは「正義とは何か?」というものを今に問うたものだとは思えるが、そのテーマが現在では、最も難しいという感じはしますよね。特にテレビドラマとしては難しい。その部分を理解しながら、このくらいまとまりがあれば、このドラマは成功だったのでしょう。
私自身は、柴咲コウの格好よさに魅了されて満足でした。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?