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「沈黙のパレード」やはり、映画としての演出、画造りをして欲しいのですよね。そうすれば、もっと面白くなると思うのだが…

私は映画館では、前の方で観るのが慣例なのだが、今日も前から3番目の真ん中で見ていた。映画が半分くらい進んだ時に、横の離れたところになんか光を感じた。本当に、映画見ながらスマホいじってる人がいるとは!!初遭遇に少し興奮した。まあ、客も3割くらいしか入ってなかったということでいじったとも思えるが、後ろからはかなり目立っていたのでは?映画館というところが、どういうところかの認識ができていないというかね、本当にやめていただきたい。

で、何故、こんな枕を投げるかといえば、映画とテレビの演出の違いというものがすごく気になったからだ。言いたいことは、テレビで演出を学んだものが、映画を撮ったときに映画的にしようとしないことに対して、もはや文句を言うこと自体が古臭い話になってしまったのだろうか?もしくは、映画を語る上での作品構造論的なものはどうでも良くなったのか?と言う話である。

堅苦しい話は、後にしてというか、そんな話は後にしてくれという声も聞こえてくるので、まずこの映画「沈黙のパレード」の感想から書いていく。

話の内容的には面白かった。多分、このシリーズの中でも映画に向いているもの。2時間を飽きずに見せられるもの。と言うことで選ばれたのだろう。動機は、出てくる人間皆にあるのに、真犯人が見えてこないドラマは最後まで飽きずに見られた。今回は、福山雅治の親友でもある北村一輝が、過去に追って捕まえられなかった犯人を追うような話であり、どちらかといえば今回の主役は北村だったりする。そこを、福山がアシストする感じだが、物理学的な話は殺人のやり方を解明するだけで、最後は福山が刑事の一人みたいな感じで動く。そう、あの数式落書きのシーンもない。そう言う意味では、あまり「ガリレオ」っぽい話ではないのだ。まあ、「沈黙のパレード」と言う題名はなかなか見事だし、映画のまとまり自体は悪くないので、それなりに楽しめた。だが、人に愛された娘が殺されたことにより、皆の心の中は晴れなかったり、事件の教訓は何か?みたいなテーマ性が浮かんでくる着地点がしっかりできていない物足りなさはあった。結局、娘を殺した犯人の証拠が出ていないわけだし、結構モヤモヤのままに皆が日常に帰っていくのは辛い…。とはいえ、映画のお客さんが、そこそこ楽しめる作品にはなっている。

良いところといえば、今回は、北村一輝と柴咲コウの演技に尽きる気がする。北村は「テッパチ!」の演技も良かったが、なかなか人間の底にある感情をうまく表現していた。年の功ということもあるだろうが、雰囲気がとても良い俳優になってきたと感じる。そして、柴咲コウの最近の輝きはなかなか強烈である。美しく、たおやかに演技している。周囲に自分を馴染ませた上で、自分を強烈に見せていくような。本当に油が乗ってきた感じの演技。この二人がいるので、主役の福山雅治はアシスト的な雰囲気になっているのだろう。とはいえ、この三人のチームワークがなかなか素晴らしい。ノイズになりうる、渡辺いっけいがいないのもよかった。

そう、この映画の作品評価としては、中の上程度。昨日書いたスペシャルドラマよりもつくりはうまいし、劇場で金とっても文句はないという評価。ただ、周囲を埋める、椎名桔平、檀れい、村上淳といったところが少し弱い感じはする。もう少し大物をと思ったのは、私だけではあるまい。

映画に派手さがない分、演出がすごく気になったのだ。シネスコ画角なのは、テレビと違うところなのだが、その横長の画角を意識して使っていない演出は、やはり見ていて面白みにかける。題名にあるパレードのシーンはかなり長い時間使われて見せられるのだが、ほとんど横の移動的なものが使われていない。カット割も構図もあまり考えられていない。何が言いたいかというと、観客がパレードの中に没入するように画作りがされていないのだ。こういうところに監督の視点というか技量は出る。というか、映画という装置が観客を別世界に誘うものだという感覚がまずないのであろう。ここは、映画を長く見続けてきたものとしては気になる。そして、アップショットの多様が、映画をこじんまりとさせてしまっているのは事実だと思う。先に北村と柴咲の演技が良いと評価したが、彼らの演技をもっと全身で捉えてほしいのだ。そう、彼らは表情だけでなく、全身で役に入り込んでいる。その佇まいまでしっかり演じられているのだ。そこをしっかり見せていかないのは間違っている。そう、世の中で生きている上で、人間を「どんな人?」と評価する場合、足元から顔まで全身を見るのが普通だ。アップショットは、その表情をデフォルメしたい時だけでいいのに、やたらと会話の中でアップが出てくる。舞台演出家が映画を撮るときも、アップショットの挿入みたいなものの下手さに遭遇する時はあるが、それは映画の演出を模索しながら失敗した例だと思う。ここで書いた、テレビ演出家が使うアップの羅列は、テレビ画面の小ささゆえの慣例みたいなものだろう。いわゆる、映像で広大な世界を描く映画のものではない。ストーリーがわかるようにカット割りするテレビと同じような演出は、映画館のスクリーンでは、ドラマを小さく見せてしまうとという基本的認識ができていないとしか思えない。

まあ、昨今のテレビ局が映画を多く作る時代に、今更の話ではあるが、日本映画というものが、本質的に軽く感じるのはこのあたりに由来する。もちろん、その傾向は世界全体にある。映画館無視でストリーミングだけで映画を見せようとする世の中では、さらにこの傾向は強まると思われる。そう、映画っぽい映画が少なくなってくる。(この、映画っぽいという感覚が古臭くなろうとしていることも認識はしている)また、昨今はCGの多様でリアル感は当たり前のように薄れていくし、結果的には、「映画」というものの括りが広がってきて、映像を評価したり評論するということさえ意味のないことになっていっているのだと思う。

そんな中、本日は上映前の予告編に「Dr.コトー診療所」「イチケイノカラス」「七人の秘書」とテレビドラマの映画化が3本もある異様な事態。まさに日本映画はテレビ局が作る時代であり、監督はサラリーマンでいい時代なわけだ。企画者の怠慢もあるが、とにかくもはや映画は、テレビドラマに毛が生えたようなものでいいのか?という議論がもっとされるべきではないか?そのテレビドラマも劣化がひどく、もはや韓国にプロデュース力でも大きく差を付けられている。監督の名前が広報で大きくでなくなった昨今、映画監督はただの下請け的なものなのか?それは違うと思う。あくまでも監督はその作品の総責任者として大きな顔をしていなくては、いい映画は撮れない。パワハラ、セクハラは問題外ですけどね。

確かに「映画」は最後はビデオとして家庭で何回も消費されるものになってしまった。昨日音楽のストリーミングじゃ食えないというミュージシャンのニュースがネットに出ていたが、映画などそれどころの話ではない。ストリーミングでチャリンされた金は作り手にほとんど入ってこないわけだから、たまったものではない。

時代は楽しみを削りながら進んでいるように感じるが、エンタメも映像もさらに必要なものになると同時に、安価なものになりつつある。そんな中でも本物を作っていくのが「映画」というものだと私は思っている。素人がスマホで簡単に4K動画を撮れる時代に、本物とは何かを見せつけるのがプロフェッショナルである。テレビ局が映画を作るなとか、テレビドラマを映画にするなとは言わないが、それを映画館にかけるなら、それなりの覚悟で作ったものを見たいのだ。少なくとも「沈黙のパレード」に欠けているものがそこのような気がする。だからこそ、本気で考えて、映画界を変えていく必要があるだろうと思ったりしたわけだ。福山や柴咲、北村のような役者たちがもっとグローバルに活躍できるようにするためにも!

映画の途中に、スマホを開けて見られてしまうような映画じゃいかんのですよ、本当に!観客になめられてるようじゃダメ!


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