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ランナー誕生!

『下の歯は屋根の上、 上の歯は樋の下。』

親知らずの抜歯をきっかけに、上の歯を富士山、下の歯を海底へと無事手放し、いつも頭の片隅で引っかかっていた懸念事項がスッキリとなくなった。

山と海を制覇したような気になり調子に乗っていた私だが、その経験によって酸素の重要さやありがたみを始めて実感することが出来た。

陸地で日常生活を送っていると、酸素不足に命を脅かされるようなことなど皆無に等しい。

薄れゆく酸素に高山病の危険を感じたり、へその緒から全ての栄養分を受けて育つ胎児のように、酸素タンクに繋がれたレギュレータを命綱にせずとも、身軽で自由に飛び跳ねることができるのだ。

そんな毎日が平々凡々とすごしていたある日、駅で何気なく見かけたポスターにくぎ付けになった。

『京都シティハーフマラソン 参加者募集』

マラソンなど体育の授業でムリヤリ走らされたことしかなく、運動部にすら所属したことがない私だがなぜか、そのポスターから目が離せなくなった。

リク デハ マダ ナニモ ナシトゲテナイ・・・

山とか海とかわざわざどこかに行かなくとも、酸素豊富な陸地で出来ることもあるはず。京都シティハーフマラソンが今回で最終回だという宣伝文句も、私を後押しするきっかけには十二分だった。

ランニングシューズなんて持っていないし、ハーフマラソンが何キロなのかも知らないままだったが友人達にも声をかけ、3人の素人メンバーで勢いよく申し込んだ。

まともに走ったこともない私に与えられた練習期間は、わずか三ヶ月。
三ヶ月が長いのか短いのかもわからなかったが、とにかく走り切れるに決まっている。

その先訪れる受難を知る由もなく、根拠のない自信に満ち溢れていた。
まともなスニーカーさえ、もっていないのに・・・

開催要項の書かれたパンフレットによると、制限時間は『2時間15分』
マラソン大会に出たこともない私にとって、それがどのくらいの高さのハードルなのか全く未知だった。

自分がどんなに大それたことをしようとしているのか、家の周りを少し走ってみることですぐに理解できた。

とにかく靴を買わねば!靴箱にあったコンバースでは、マラソンには不向きという事を知ることから始まった。

誰かに習う訳でもなく、自己流でとにかく走り続けた。最初は1km走ってバテていたのに、3km、4kmと走れるようになって息もあがらなくなってきた。

出来ない事が出来るようになる課程は、何よりも嬉しい。走ったことのない私が、走ることのできる私に徐々に変化していく歓喜は何物にも代えがたかった。

やがてそれは中毒性を帯び、身体からの悲鳴をかき消すほど走ることに夢中になった。痛みすら成長過程でのプロセスだと前向きに捉えていた私の脚に、ある日激痛が走った。

筋肉痛や、打撲などとは明らかに違う激しい足の裏の痛み。走るのが辛くてウォーキングに変えてみたものの、だんだんと歩くことさえままならなくなった。

残り時間がわずかなので、これはマズイと思いすぐに近所の整形外科に駆け込んだ。痛みの原因がわからず、病院をはしご。ようやく付いた診断結果は『足底筋膜炎』だった。

二週間の走行禁止令がでて、青ざめた。整形外科は、無駄なレントゲンをとり、効かない電気をあて、とりあえずの薬と湿布薬の処方で儲ける役立たずでしかなかった。

まだ10kmも連続で走ることができないのに、このまま練習できなくなればハーフマラソンを2時間15分以内で走れるわけがない。焦る気持ちとは裏腹に、時間だけが無常に過ぎていく。

ようやく痛みもなくなって、走行を再開できるようになり休足の遅れを取り戻すべく、ロング走を決行してみることにした。1周4kmの京都御所の周りを4周するという無謀な挑戦だ!

今思えば、ロングでもなんでもない朝飯前の距離だがその時の私には、遥か彼方のとんでもない距離に思えた。

無事に16kmを走り終えたが、2時間以上もかかってしまった。距離だけでなく、スピードも上げていかないと制限時間内に走り切れない!

再び特訓の日々が始まり、練習法も本を読んだりネットで調べて色々取り入れてみることにした。1kmを6分で走ればどうにかゴールできる、それがわかってからは距離だけでなく時間も身体に刻み込んだ。

本番を目前に控えたある日、実際のコースを試走してみることにした。友人と共に意気揚々とスタートしてみたものの、またもや私の足に激痛が走った。

今度は『膝』だった、前回とは反対の足だったので全くノーマークだったのに走り始めて間もなく激痛で動けなくなった。

そのまま一人電車で帰宅し、病院へ直行した。無意識に痛めた足を庇って、ゆがんだフォームで走ったことが原因のランナーズニー(オーバーユース)だろうと告げられた。

残された時間は、わずか一週間しかなかった。一週間で完治させるのは無理だろうという医者の見立てには、私も同意せざるを得なかった。

レースへの出走はドクターストップがかかった。だがここまできて、他人の意見になど耳を貸すはずがない。『わかりました』と上辺だけの返事をして、またしても痛み止めと湿布を処方されて帰宅した。

処方された薬は、1週間分だった。その日だけ薬を飲んで、残りの6日間は薬を我慢し極力安静に過ごした。絶対に絶対にレースで完走したい!その強い思いが秘策を産み出した。

レース当日は、緊張のあまり眠れないまま朝を迎えた。そのころには歩くのには支障がないほどに痛みが和らいでいたが、走るには不安しかなかった。

レースのスタート前に、軽くウォーミングアップをしてみた。その時点で、すでに膝が痛みだした。

予想はしていたものの、ショックだった。結局、大会までの最後の一ヵ月は思うように練習もできず16kmが最長走行距離となってしまった。

走る前から痛む膝で、21.0975kmを2時間15分以内で走らなければならない・・・リーサルウェポンとして、胸に秘めていた策を決行するしかなさそうだ。

私のポケットには、先日医師から処方された痛み止めが6日分入っていた。
スタート前にまず一錠を飲んで、不安と高揚感の入り混じる複雑な思いで走り出した。

まずは5kmの関門クリア。ゴールまでにはいくつもの時間制限の関門が設けられ、クリアしないとラスボスにたどり着けないようになっている。膝の痛みは、薬で緩和されるという期待もむなしくギシギシと骨がきしむような違和感とともにより一層痛み出した。

ちょうど給水所があったので、2錠目の薬を導入。1錠飲んでから、まだ1時間しか経っていないが効かないのだから仕方がない。今日さえ乗り越えることができたら、あとは胃潰瘍にでも何でもなってやる!

そう覚悟を決めて、そこからは給水の度に薬を飲んだ。息が切れて上手く呑み込めず、ラムネのように噛み砕いて食べたりもした。全く効き目を見せない薬は、味のないタブレットだった。

もはやフリスクの方がマシなんじゃないかと思うほど、膝の痛みは増すばかり。それでも必死で今まで培ってきた体内時計による完走可能なペースを死守した。

薬の効果は全く得られないまま、痛む足を引きずりながらもとにかく完走する事だけを考えて走り続けた。

気が付けば効かない薬は全部飲み干し、未だかつて走った事のない16kmのその先へ向かっていた。

今までに3ヵ月もかけて、何か一つの目標を目指したことがあっただろうか?いつも行き当たりばったりで、後先気にせず行動する私だがそれはいつも突発的なだけでなく一時的なものばかりだった。

スポーツ音痴だと思い込んでいた私の中から溢れだしたそれは、眠っていたモンスターを叩き起こしてしまったようだ。

平安神宮の鳥居が見えた時、ようやく立ち止まる事が出来ると安堵した。大鳥居がゴールゲートにもなっている粋な計らいに感謝しながら、目標を叶えられた瞬間・・・感動で涙するに違いないと思っていたが、そうでもなかった。

私も、私の中のモンスターもハーフマラソンの完走という偉業なはずの行為では決して満足しなかった。

ゴールして、一度その歩みを止めた足は・・もうさっきまでのようには動かなくなってしまった。私の数分前にゴールした友人と、惜しくも関門を通過できずリタイアせざるを得なかった友人に両脇を支えられながら帰路についた。

その後はしばらく痛みにより膝を抱えて眠れない夜を幾夜も過ごし、通院しながら大人しく過ごした。眠りから覚めて飛び出す機会を虎視眈々と狙う私と私の中のモンスターと共に再起を図るために。

こうして終わりなき私と私のモンスターの長い旅が始まった。


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