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生きること、について 其の2

生きるとはなんであろうか。

命とは。人生とは。そんな疑問を抱えて二十数年生きてきた。

生き方は各個人の自由である、というのは割と見過ごしがちな事実ではないだろうか。

実の親子でも、他人には違いないので彼や彼女の生き方について口を挟むのはナンセンスだと思う。

毒親などと言われる方達には、恥のはの字もないのではないのかと、生き方について考えると思ってしまうわたしは少し傲慢だろうか。

生き方が各個人に委ねられているなら、その幕引きも自由と言い出したらどう感じるだろうか?

わたしは特におかしい考えだとは思っていない。この辺の価値観は育った環境や宗教なども関わってくるため一概に言い切れない。

特定の宗教(信仰)もなく、親に恩を感じることもなくむしろ恨み、守るべき伴侶も家族もいないとなれば、自ずと似た考えになるのではないだろうか。

死ぬのがもったいない、という考えについても考えた。まだ行ったことがない観光地や出会ってない素敵な人たちやビジネスのチャンスなど、そういう類いのものに未練を感じる時期もあった。が、どんなに長生きしようとも全世界を端から端まで見て回るのが不可能なように、はなから無理なものだと諦めがついてしまってからは人生にもったいないと思うこともなくなった。

一生懸命生きようとする人がいるなかで、先述したことを言うようではひんしゅくを買うのは覚悟の上であるが、とらえ方次第ではわたしも一所懸命生きているのである。その結果が一般的には惨めだと言われるものであっても、これまでの人生を否定されるいわれは無いと断言できる。

生きるということについて真面目に考えないほうが、生きるのに向いていると思う。毎日娯楽に興じ、頭を悩ます時間すらもったいないと考える人たちになれたらどれほど楽かと思う。

無知の幸というものが、不幸にも存在する。知らぬが仏という、ものである。

毎日忙しく生きている人たちは、生きるということにすがりついてはいないだろうか?

ふと冷静になれば、すぐそばに苦痛から逃れる術があるのに、そこから目をそらし続けている。まるで不都合な真実をひた隠しするように。

人生山あり谷あり、というがまさにその通りで塞翁が馬という言葉もある。今辛くてもすぐ楽しい嬉しいことがある、というのは事実である。

だが、わたしは今の苦痛が過ぎ去ってもすぐに別の試練がやってくることを重視している。よく考えてみてほしい、永遠に殴られ続けるゲームがあるとしたら誰もそんなもの相手にしないだろう?

ちまちました幸せがあることで、多くの人が目隠しをされている若しくは進んでしているが、人生の正体は永遠の苦痛を約束する被暴力ゲームである。言い方によっては地獄とも言いうるだろう。


さて、ここまで読んでいただきありがとうございます。

ここであなたに問いたい。

それでも人生を続けますか?

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