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無職、お願い事

無職日記をはじめて今日で三日目である。
私にしては意外と続いているので驚いている。
やはり何もしない一日という罪悪感を無意識に感じているのか、とりあえず何もしていない一日から日記は書いた一日にしたいのだろうと考えられる。

突然だが私は人に好かれやすい。
元々顔が整っているおかげで第一印象がいいこともあるが、その顔面のみを頼りにせず常に笑顔を心がけ、その場にいる人が誰一人不快にならないように気を配るようにしている。

しかしそれに疲れたここ数年、コロナで大人数で集まる機会が減ったのをきっかけに会いたいと思える友人と一対一での交流のみとなっていた。
だからといって特に何というわけではないのだが、とりあえず人間関係は大変だよな、と。
あんなにも眩く輝いていた新社会人の同級生たちの目が、ストーリーが。
みるみるうちに曇っているのだから。

私は一度きりの人生を楽しくいきたいと願っている。
小さいころの自分はかなりの現実主義者で、友人ママを冷めた目で分析しては、なんだこいつガキみてぇな親だな何年生きてんだよ、と悪態をついていた記憶がある。
私がもし今後子どもを産んだとして、その子どもが私のような子どもであれば余裕で育てたくないと即答するほどだ。

そんな私の幼稚園での七夕のお願い事はお米屋さんと専業主婦だった。
周りの子たちが無邪気にスポーツ選手やエンタメ業界、キラキラしたイメージのある夢を願っているときにである。
まだ生まれて3、4年目の奴には、現実を知り本当に憧れている夢を口にできなくなってしまった大人のためにも、もっと壮大な夢をほざいてくれと思う。が、それから20年近くたった現在、当時では謙虚すぎると言われた私の願いすら難しい夢となってしまった。実にしんどい話である。
せっかく現実を見据えて謙虚な願い事をしたにも拘らず、叶わないという現実を二度突き付けられた私のようにはならないよう、今現在の子供たちにはもっと幸せになってほしいと願うばかりである。

まあ願う前に実際に行動にうつせといわれそうだ、なんせ無職で夢はインフルエンサーだもんな、本当に笑ってしまう。
幼いころに現実を見過ぎたが故、今になって現実を見据えたくなくなってしまったようだ。なんてクソみたいな奴だ。親からしたら厄介以外の何者でもない。

だがしかし、実際に今楽しく生きているかと問われれば友人たちともそれなりに連絡を取り、会っているので楽しいといえる。
遊びに誘ってくれる友人がいて、何よりも両親との関係が良好で家族LINEも毎日稼働していることからも自分は恵まれていると実感できる。
だが恵まれすぎているからこそ楽しく無職ができているのだと、戒めのようにこうして文章に起こさなければ。いつまでも学生気分のまま、学生生活と何ら変わりない生活リズムのまま。

自分はもう学生ではない。れっきとした無職であることを忘れないように。

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