救世主

電車に揺られ、イヤホンから聞こえるお気に入りのプレイリストに意識がふわふわと溶けていく。
今日も一日、社会生活をよく頑張った。会いたくない人とも会い、話したくもないのに話し、笑いたくもないのに笑った一日だった。
18時になったと同時に誰よりも早く学校という小さな社会から抜け出し、こうして一人で電車に揺られている時間が好きだ。
心地よい揺れに意識を手放そうとした、その時。大きな衝撃音とともに、鼓膜をつんざくようなブレーキ音が響き渡った。

人身事故らしい。
電車内の電気が消え、まばらな乗客たちは騒然としている。
僕が乗る車両は、ちょうどトンネルに入ったところで止まったせいで真っ暗になってしまった。
つり革を掴んだままでスマホに向かって一心不乱に何かを打ち込む人たちを横目に、僕は静かにまぶたを閉じた。
騒いだり焦ったところで、どうこうなる話ではない。
「……あの」
大好きなR&Bの奥の方で、誰かが呼びかけるような声が聞こえた。薄目を開けて視線を走らせると、僕の膝に誰かの手が乗っている。
思わず息が止まった。
恐怖か緊張で体が固まり、錆びついたロボットみたいな動きで振り向く。
スマホの画面をこっそり隣に傾けて画面の明かりで確認すると、大柄な坊主頭の男子が浮かび上がった。そして目を凝らしてよく見ると、僕が着ている制服と同じものを着ていた。
せっかく抜け出したはずの社会が自分の足元の影からじわじわと広がる。
僕は一応イヤホンを外し、彼の方を見上げた。
「あ、あの……山高ですよね」
「そうですけど」
「俺も山高の1年です」
「……あ、そう」
1年?体でかすぎるだろ、と言いかけた言葉を飲み込んで、2文字に変換した。できるだけ会話を最小限にしたかったからだ。
それにしても、なぜ僕の膝から手を離さないのか。
目線を乗っかっている手に向けるが、全く気づく様子がない。そういえば、自分のクラスにも人に対する距離感がおかしいヤツがいるが、こいつもその類だろうか。
なんとなく足を組むふりをして動かそうとすると、ぐっと力を込めて押さえつけられた。何でだよ。
「あの、ホントすいません」
「え?」
「俺、閉所と暗所恐怖症で」
「え?」
「この状況、誰かと話してないと正気が保てないんです」
おいおい、マジかよ。至って真剣な彼には悪いが、厄介なことに巻き込まれたなと思った。

「栗田先輩って、部活入ってないんですか」
「入ってないですね」
「俺も入ってないんです」
「え、柔道部とかじゃなくて?」
「違いますよ。よく言われますけど」
「だろうね」
「手芸部に入りたかったんですけど、なんか顧問の先生にもネタだと思われちゃったみたいで」
「……だろうね」
相槌を打ちながら、スマホの時計を見た。もうかれこれ20分、後輩の山添の精神を安定させるために会話に付き合わされている。
彼はクリーニング屋の息子で、趣味は祖母から習ったビーズ刺繍。見た目からは想像できない情報が次々に放り込まれてくる。
何とも悔しいことに、いつのまにか自分から質問をするほどには、山添に興味をそそられていた。
「休みの日は何やってんの?」
「最近はケーキ作りですかね」
「ケーキ……誕生日ケーキみたいなやつ?」
「いや、小さいやつです。ばあちゃんがチョコが好きなんで、この前はチョコレートケーキ作ったんすよ」
「え、これ、作ったの?クオリティおかしいよ……」
僕と山添の会話が弾む一方で、電車は復旧の兆しがなく、車内には次第にイライラした雰囲気が充満しはじめる。少し離れたところで男性と女性の小さな口論が聞こえ、何やら騒ぎが大きくなっているようだ。
人の口論を聞いていると、胸がざわざわして落ち着かなくなる。しかも、なぜか自分が怒られているような錯覚に陥り、胃がしくしくと痛んでくるのだ。
思わず胃のあたりに手を当てる。すると山添は、おもむろに僕の手にあったイヤホンの片方を手にとった。
「借りてもいいですか」
「……いいけど」
そして僕は、一番好きな曲を選んで再生した。

翌朝、学校に行くと僕の席には白くて小さな箱が置かれていた。
「何だこれ」
隣の席の唐木が、怪訝な様子の僕に気づいて近づいてきた。
「これ、1年の山添が置いてった」
「山添?」
「そう。栗田、山添と仲良かったの?」
「昨日ちょっと話した」
「お前、山添のこと柔道部入れって説得してくんない?あいつ中学の時に関東大会で優勝してんのに、帰宅部はさすがにもったいねえって」
いや、あいつ柔道で優勝してたのかよ。
笑いそうになるのをこらえながら、白い箱の中身を覗く。そこには、カラフルで何やら細かくデコレーションされたクッキーが入っていた。
「……柔道やりたかったら、自分から入りに来るよ」
「だってあいつ、いくらスカウトしても手芸部に入りたいとか言い出すし」
「あー手芸部、入れるといいよな」
「どういうこと?」
僕は首をかしげる唐木の横をすり抜け、教室を出て手芸部顧問の担任のもとに向かった。

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