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6.生から死へ

父が亡くなって月日は過ぎましたが、やはり残された家族にとっては寂しさが強く残ります。ふとした瞬間に思い出して「そっか出張でいないわけじゃないもんね」と感じることが幾度なくあります。

スキルス性胃がんだった父にはよく、腹水が溜まってしまうという話を医師から聞いておりました。実際には、そこまで腹水が溜まることなく、一度も抜くこともしなかったので、身体の負担を減らすことができました。

ただ、体には水分が溜まり、むくみがとても多く大変だったことを今でも覚えています。だんだんとお風呂に入れなくなってきた時、父にとって楽しい癒しの時間は足湯の時間でした。

足湯専用の機械?、見た目は桶みたいなものが世の中にはあります。とても便利ですね。その機械をAmazonで購入して、体を起こせる時には足をつけて、アロマでマッサージしていました。

今はもう、誰もその機械を使っていません。

思えば、体を起こす、というのはとても重労働で、健康な時にはなんてことなかったことが、具合を悪くすると一気にありがたみを感じます。

風邪を引いた時、いつもの元気さ、丈夫さに感謝するのと同じですね。

介護というのは、とても辛いです。介護する側、される側、どちらにもどこか心の中で申し訳ない気持ちや悲しさを抱えながら、でも今の現状に感謝しながら支え合って生きていく、そんな状況になります。

手放しでは喜べない、
ごめんねと言いながら、介護してもらうありがたみを感じ、
できることなら私が代わってあげたい、と感じながら、大丈夫だよと伝える。

そんな日々が介護なのかもしれません。
きつかったです。苦しかったです。今でも思い出します。

でも、きっとそこに「生きる」ということの矛盾さや、人と人が支え合う素晴らしさを自分自身が真剣に向き合う瞬間があったのだと、今、やっと、ようやく前向きに考えられます。

当時は本当に泣かないように接するのが必死でした。
どれだけ楽しそうに振る舞うかを考えて、わざとらしく接していたのかもしれません。もしかしたら、それも見透かされていたかもしれません。

うまく言語化できませんが、そういうのをひっくるめて、家族なんだろうな、と
そして生きていくということなのかな、と考えるきっかけになりました。

病気には出来るだけなりたくありません。健康でいつものように過ごせることが何よりも素晴らしいことです。

でも病気になったからこそ、感じること、考えること、そして感謝することが見えてきます。いつもと同じ視点では思わないようなことが、病気という1つの波に遭遇することで、必死に向き合わなくてはならなくなります。

今、私はこうして綴ることで、その波をあらためて乗り越えようとしているのかもしれません。

生きることから死ぬところまで、人には皆一連の流れがあります。その流れは恐らく、変えられることができない流れで、その中で濁流や渦などの難しいポイントがあり、最終的には流れに合わせて私たちの知らないところへ向かうのだと思います。

スピリチュアルなことを言いたいのではなく、結局、どの視点で物事を捉えるのかで、考え方が変わるのだと実体験として感じました。

短期のその瞬間として切り取るのか、あるいは大きな視点でさらに高い地点から自分の人生を見つめるのか、で物事の取りようは大きく変わります。

私はある意味で、死ぬことが怖くなくなったのが、1つの人生の転機かもしれません。いつか父にまた会える日が来るから、それまで懸命に生き続けて、そして死を迎えた後、父に見てた?と伝えようと思っています。

今年ももう残り2ヶ月。
悔いのないように、楽しく、自分らしく前に進んでいきます。



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