【続編】歴史をたどるー小国の宿命(90)

徳川慶喜が1867年1月10日に第15代将軍に就任してから、翌年1月3日に明治天皇の名で王政復古の大号令が発出されるまでは、激動の1年であった。

昨日の記事でも触れたとおり、就任の3週間後に孝明天皇が亡くなり、2月には明治天皇が即位するも、依然として倒幕勢力の拡大と諸外国の開国圧力のはざまで、慶喜は重大な決断を迫られていた。

ただ、孝明天皇が亡くなったことで、開国については動きやすくなった。

朝廷は、慶喜の度重なる開港勅許の求めに最後は折れて、長い間、孝明天皇が認めていなかった兵庫港の開港が実現することになった。

実は、この舞台裏では、薩摩藩による倒幕の動きが活発化していた。薩長同盟を結んだとはいえ、長州藩より優位に立っていた薩摩藩は、幕府の弱体化を目の当たりにして、朝廷の急進派や雄藩と手を結び、慶喜を追い込もうとしていた。

この動きに気づいていたのが、坂本龍馬である。

土佐藩出身の龍馬は、慶喜と面会する機会があったときに、「諸外国の圧力が強まる中で、倒幕勢力と戦火を交えるような事態になると、その隙を突かれて日本は一気に占領されてしまう」というような危機感を伝えていた。

これは、アメリカに渡った勝海舟も同じ考えだったし、慶喜自身もよく理解していた。

だからこそ、むだに戦争で疲弊するようなことは避けようと、薩長の裏をかいたのである。

11月9日、薩摩藩が朝廷の公卿だった岩倉具視とともに、倒幕の密勅を得ることに成功する。

ところが、同日に、慶喜自身が京都の二条城において、明治天皇に対して大政奉還を上表したのである。

これによって、薩長の倒幕計画は意味がなくなり、慶喜の作戦勝ちとなった。

しかし、このままで終われない薩摩藩は、朝廷に政権が移ったとしても、慶喜をはじき出すべく、新政府樹立に向けて準備を進めていった。

そして、2ヶ月後の1868年1月3日に、王政復古の大号令を明治天皇の名で発出したのである。

これによって、明治新政府が正式に樹立し、江戸幕府は終焉を迎えた。

ただ、明治時代の幕開けと同時に、旧幕府軍と新政府軍の戦いが起こる。

この戦いが「戊辰戦争」であり、明治2年5月まで、1年4ヶ月も続くことになるのである。

これについては、引き続き10月に解説していこう。







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