【続編】歴史をたどるー小国の宿命(55)

無事に入内を果たした秀忠の娘の和子は、1623年に懐妊し、女子を出産した。

秀忠は、この慶事に合わせて、3代将軍として息子の家光に幕政を託した。

家光は、秀忠に連れられて上洛し、後水尾天皇から将軍就任の宣下を受けたのである。

このとき、家光は20才、秀忠は44才であった。

家光は、秀忠の在職18年間を上回る28年間、将軍の座につき、47才で亡くなるまで将軍であった。

幼い頃は病弱で吃音の障害があった家光が、30年近くも実権を握れたのは、やはり家康や秀忠のおかげであろう。

加えて、この家光の時代に、世間があっと驚く出来事が起こった。

和子と後水尾天皇との間に生まれた女子が、1629年に、わずか6才で第109代天皇として即位したのである。

つまり、秀忠の孫が、明正(めいしょう)天皇として迎えられた。

これも秀忠の意向なのかというと、どうやらそうではなかったらしい。

理由の一つとして、後水尾天皇の跡を継ぐ皇子(=男子)がいなかったので、長女に一時的なつなぎ役を担ってもらったというのがある。

ただ、それならば、まだ30代だった後水尾天皇が引き続き天皇の座にとどまればよいのだが、よほど秀忠の言いなりになるのが嫌だったのだろう。

じいさんと孫で仲良くやってくれ、みたいな気分で譲位したのだろうか。

その代わり、譲位後は、上皇の座につき、父親として娘を後方支援した。その点は、秀忠と家光の関わりと似たようなものであった。

とはいえ、全国の大名からすれば、客観的にみても、幕府が朝廷を完全に牛耳っているように見えるわけである。

家康や秀忠の時代ですら、彼らに抵抗することが難しかったのに、家光が朝廷を支配下に置いたら、いったいどんな時代になるのだと震え上がったことだろう。

第109代の明正天皇の即位で、749年の孝謙天皇以来、約880年ぶりに女性天皇が誕生した。

孝謙天皇は、第46代天皇であり、聖武天皇の娘である。父親からの譲位を受けて、在任中に、奈良の大仏が完成した。

東には、自分の息子が将軍として在職、西には、自分の孫娘が天皇として在任中。

秀忠は、聖武天皇以上に誇らしい気持ちであったろう。

1632年、息子と孫娘の立派な成長に安心したであろう秀忠は、享年54才でこの世を去ったのである。




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