【続編】歴史をたどるー小国の宿命(56)

今年は、徳川家光が将軍に就任した年から数えて、ちょうど400年である。

家康や秀忠が築き上げた土台の上で、家光は、さらに幕藩体制の引き締めを図った。

その具体的な政策の一つが、1635年に行われた「参勤交代の制度化」である。

参勤交代の制度化は、武家諸法度の改正によって実現された。

そもそも武家諸法度は、禁中並公家諸法度と同様に、家康が制定して、秀忠が公布したものである。

最初の公布から20年経ち、秀忠が亡くなって3年後に、家光は、参勤交代の内容を具体化した。

当初は、武家諸法度第9条に、「諸大名参勤作法ノ事。」と書かれてあり、参勤交代そのものは、家康や秀忠の存命中から行われていた。

それを、家光は、武家諸法度を改正し、第2条に、参勤交代の内容を定めたのである。

その条文は、下記のとおりである。

大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。

原文を訳すと、次のようになる。

大名や小名は、自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後は、ふさわしい人数に減らすこと。ただし、上洛の際は、定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。

上記のとおり、毎年4月に参勤するようにと決められた。そのほか、供の数を減らせという条件をつけたり、上洛の際の取り決めも加えている。

当初の条文は、たった1文だったのに、家光は5文に増やして、第9条から第2条に動かした。つまり、重要度が上がったのである。

第1条は、当初の条文と変わらず、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事。」となっており、武士の務めとして、文武弓馬にもっぱら励めと言っている。

家光は、武家諸法度を、当初の13条から19条に増やし、細かく取り決めをした。

全国の大名は、それだけ多くの縛りを受けることになり、参勤交代の制度化によって財政上の負担も大きくなったのである。

続きは、明日である。




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